滲んだドクロ

上野たすく

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「お前が書いた話を読んで、俺は負けたと思った。お前は、素人じゃなかった」

 私は身を乗り出し、ベッドに肘をついた。

「悔しいが、お前の書く話に、俺は金を払ってもいいと本気で思った。もっと読みたいと、お前が投稿しないのなら、俺が盗作してでも、どこかに出してやろうかと。実行はしなかったが」

 幸島は、くっくっくっと喉を絞り、口角を上げた。

「書け。佐伯、書け。お前の成りたかった者は何だ? なぜ、あんな不安定な学部に入学した? 誰にも認められなくとも、それで生きられなくとも、書け。破り捨てられようが、叩き落されようが、書け」
「お前は俺じゃないからいえる。無責任だ」
「あいにく俺は普通じゃない。俺は家族より恋人より親友より、お前を選んだ。一番嫌いな男と最後にいることを、俺は選んだんだ」

 幸島がこちらに首を傾ける。
 彼の目は充血していた。

「俺にとって、お前がこの世でもっとも怖く、もっとも嫌いで、一番の希望だからだ」

 どれくらいの時間だろう。
 私と幸島は、お互いの息使いだけを、聞いていた。
 私は煙草に火をつけ、ベランダへ出た。
 もう六年、この、人でひしめく、欺瞞と儚い夢で溢れた、偽りのネバーランドにいる。
 いくら窓を全開にしていても、ピーターパンもティンカーベルも会いに来てくれやしない。

 いや、と私は俯き、ひきつったように笑った。

 会いに来てくれた。どでかい豆腐野郎だ。
 豆腐のくせに食えない奴だ。

 なあ、幸島よ、どうしてわかる?
 私の奥で燻る気持ちを、なぜお前は形にできる? 
 私はお前を怨む。
 お前は私の胸にひっかかる、魚の骨のようにチクリとした、歯がゆく、そして、とろうにもとれない、そんな青春の群像、そう、丸めてぐちゃぐちゃに皺をつけた原稿用紙を、私の前で丁寧に皺を伸ばし、手渡してきやがったんだ。

 私は、どこかのネジが吹っ飛んでしまったのではないか、と心配するほど笑った。

 ああ、わかっている。
 お前が何といおうが、放っておけばいいのだ。
 そうできないのは、ちくしょう、私がまともじゃないからだ。
 くそったれ。
 ちくしょう。
 どうせなら金髪美女が来いよ。
 ちくしょう。ちくしょう。

 私は勢いよく部屋に入り、煙草を灰皿に押し付け、幸島から渡されたフラッシュメモリを立ち上げたノートパソコンに取り付けた。
 貧乏ゆすりをしながら幸島の書いた文を読み、それが途切れたところで幸島を振り返った。
 奴はもう眠っていた。
 熟睡しているのか、腹も上下させない。
 私は、電気を点けないままキーボードに手を置いた。
 朝になっても、幸島は目を覚まさなかった。
 布団を上げると、べっとりと黒い染みが広がっていた。
 幸島の利き手の傍にナイフがあった。
 私は、フラッシュメモリに記録されていた、幸島の両親の番号と警察に電話をした。
 さまざまな人がやって来て、去っていった。
 私はついに、幸島から渡された、およそ十センチのメモリに入った、新作と偽った遺書を、彼らに渡さなかった。
 そこにはこうあった。

―許せ、友よ。俺がお前の前ですることを、許せ。俺は作家でありたい。俺は芸術家でありたい。俺は俺でありたい。友よ、俺を見て話を書け。俺の苦しむ姿を、俺の腐っていく精神を、お前の手で形にしてみせろ。俺の我儘を聞いてくれた餞別だ。安いものだと思え。

 幸島は大学一年の時に、自身の伝記的な小説で、文学界では登竜門と呼ばれる賞を受賞した。
 それ以後、潰れていく新人作家を尻目に、彼は名を馳せていった。
 私と加藤と幸島は、どこも似ていなかった。 
 偶然同じ時期に、同じ場所にいて、同じ講義を受けただけの仲だ。
 夢を語り合ったのでも、好きな女の話をしたのでも、悩みを肴に酒を飲んだこともない。

 そう、私たちはお互い、一歩引いていた。


 加藤は殴られた頬を押さえ、倒れたまま、べそをかいた。
 私は加藤の部屋に染み付いた、後悔と絶望と、それを持続させている夢の片鱗に、気付かずにはいられなかった。

「希望だった」

 加藤は声を上げて泣き出した。
 幸島へ託した彼の心を、私は、今の今まで、まったく思い描かなかった。
 そして、それは、私たちの意外な共通点を指し示していた。
 私はポケットから痛んだ煙草のパッケージを出した。
 加藤は目を見開いた。
 私はそれを加藤に放り投げた。

「とっくに、捨てたと思っていた」
「やる。まともに生きたくなったら、吸え」

 六年の間に、私の汗や雨に降られ、それは皺だらけになっていた。
 加藤はパッケージを見つめ、小さく吹き出し、そんな瀕死状態のドクロを笑っているみたいだといった。

                                          完



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