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「だから、あなたもご自分の望むようにしてもらって構いません」
 青年はしばらく考え込み、そして、「座るね」とナナシに断りを入れてからベッドに腰かけた。
「確認するけど、本当に僕が望むようにしていいの?」
「はい」
「じゃあ、まず、敬語はなしがいいな」
「……それは」
「望んでいいんでしょ?」
「ご主人様と立場があやふやになります」
「徐々にでいいから。ね」
 青年が掌を合わせる。
 お願いのポーズだ。
 ナナシは反論をやめた。
「次は自己紹介。僕のことは、そうだなあ」
 青年は自分の名前なのに、時間をかけて悩み、一人で納得したように笑った。
「僕のことはえんって呼んで。ご主人様じゃなく」
 仕事のパートナーを思い出す。
「縁……様?」
「縁だよ。様はいらない」
「縁……」
 おずおずと呼ぶと、縁は、ほくほくした顔で微笑んだ。
「僕は君を何て呼べばいい?」
「ナナシと言われています」
「変わった名前だよね。どこかの国の言葉が由来だったりする?」
「いえ」
 指で首の数字をなぞる。
「コードナンバーを縮めた呼び名です」
 縁は笑顔で「却下」と一蹴した。
「これからたくさん君と話がしたい。だから、君が悲しくなるような呼び方は嫌だ」
「悲しくはないです」
 ナナシは人間ではないから。
 縁の唇が穏やかに笑む。
「ドナーになるまでの名前は?」
 声がやさしい。
 そんなもの、調べれば、すぐに出てくる情報だ。
 ナナシの視線に意図を感じたのか、縁はかしこまった。
「僕は君の口から聞きたい」
「孤、です」
「とも?」
「はい。生まれてからずっと、結川孤として生活してきました」
「孤だね。これから、よろしく、孤」
 ナナシが膝を抱えるのと、縁が手を差し出すのが同時だった。
「でも、結川孤なんて奴、どこにもいなかったんです。父も母も偽物でした。どこまでの人が俺の正体を知っていたのか、わかりませんが、友だちだって、初めから用意されていたのかもしれません。俺の周りにいた人は、全員、報酬目当てだったのかもしれないんです。だから、結川孤なんて、どこにも」
 縁は、早口でまくしたてるナナシを、抱きしめてきた。
「孤、君はちゃんとここにいるよ。僕はね、ある人の願いで孤をずっと見てきた。派遣先の病院で、孤が気難しい患者のフォローをさせられていたの、知っているよ。口だけじゃない。手が出る患者もいたのに、孤は彼らに寄りそおうとしていた。仕事の内容はそこまで及んでいなかった。孤が孤の意思で、そうしたんだよね? 君は予備のナナシなんかじゃない。ずっと、結川孤って名前の、僕の大切な人だ」
 一筋、涙が溢れると、次から次へと零れ落ちた。
「孤には、たくさん辛い思いをさせてしまった。ごめん。あの場所から救い出すための条件が揃うまで、動けなかったんだ」
 縁は子どもにするみたいに、孤の背中や頭を撫で続けた。
「僕はお金で孤を買ったけど、主従関係を求めているんじゃない。孤とは対等な存在でありたい」
 縁が抱擁を緩める。
「孤の意思が知りたい。僕は孤の隣にいてもいい?」
 孤は頷く代わりに瞼を閉じ、縁の胸を額で撫でた。
「ありがとう」
 縁は孤を包み込む腕に力を込めた。
「こうやって、君を抱きしめたかった。やっと、叶った」
 縁の言う「やっと」は、火災現場で自分が受け入れた「やっと」とは違い、心地よくて、また涙が溢れ出た。
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