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 ナナシの朝は早い。独房に響く無機質なサイレンは鼓膜を通り越して、錆びた心臓をも振るわせた。ドアにある小窓から、オイル入り栄養剤のパックを与えられ、吐き気を催しながら体内に絞り落とす。潤滑剤がないと、体が動かなくなる。死より辛いのは、悪意に満ちた人間の所業を目にすることだった。
 動いて、動いて、脳がフリーズし、死ぬことがナナシの望みだ。
 管理者の監視下、パートナーの作業用ロボットと共に病院内の清掃をし、患者のフォローに入った。車輪で移動するパートナーは、丸みのある親しみやすいフォルムをし、感情を表せない瞳は、常に緑色に光っていた。製造ナンバーで管理されているパートナーを、ナナシはえんと勝手に名付け、そう呼んだ。何かの縁があって出会ったから、縁。心を持たないパートナーには、意味を成さない想いだったはずだ。
 しかし、予想に反して、数日後、縁は反応を返してきた。管理者がわざわざ呼称を書き加えるはずがない。縁自身が記録させたのだろう。ナナシは縁と心が通じた気がして、涙を止めることができなかった。
 縁はその後も、ナナシが驚くほど、仕事に関係がないことを覚えていった。どれほど、汚くきつい作業であっても、縁と一緒なら耐えることができた。人間様は予備をバカにし、忌み嫌う。縁はナナシを同等に扱ってくれる。ただただ、嬉しかったのだ。
 その日、早朝から輸送される大型車の荷台で膝を抱えていると、運転席から話し声が聞こえてきた。
「聞いたか? 国王が第二王子を隠していたって話」
「ああ。ユウセイ様に兄がいたってことだろ? 次期国王は順当にいけば、第二王子のケイセイ様で決まりだ」
「何もなければの話だがな。ケイセイ王子は短命らしい」
「特異体質って奴か」
「そう。血を飲まなきゃ、生きられないってあれだ」
「それでか。最近、きな臭い噂をよく聞く。ある血液型の人間が行方不明になっているってな。どっちの仕業かね? 兄を殺したい弟か、それとも、生きながらえたい兄のエゴか」
「バカ言え。秘匿されていたとはいえ、王族だぞ。予備持ちに決まってる」
「なるほど、自分専用の食料か。けど、自分に歯を当てるみたいなものだろ? 萎える、食事だな」
「顔なんざ、隠せばいい。食えりゃいいんだからさ」
「違いない」
 二人が笑い出したところで、大型車は目的地の一つである病院へ着いた。一人の管理者と病院で働く予備を降ろし、車は走り去っていった。
 孤は看護師の負担になる専門性のない作業をこなし、食用の動物の解体へと向かった。培養肉が主流である今、生物の肉は一般には出回らない。富裕層や権力者が極秘で味わうのだ。一部の人間のために、非合法に命を奪う。人間様にはさせられない、仕事だ。
 疲れた心身で作業場から出ると、縁が腹部の扉を開け、オイルパックを出してくれた。動物の悲鳴と血の匂いで気分が滅入っていて、潤滑剤どころではない。が、飲まなければ、精神的な地獄に突き落とされる。
「ありがとう」
 意を決してキャップをひねり、口腔へと絞り出した。
 ふわりと鼻を抜ける香りが、いつものべったりとした匂いと差があり過ぎて、ナナシは舌を疑った。
「ケーキの味だ」
「ナイショ ダゾ」
 抑揚のない音声に、ナナシは縁を振り返った。
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