鈍色の先へ

上野たすく

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 当時、十八歳だった俺は大学に入学してすぐ、この大学へ来たことを後悔した。

 文芸はクズだ。

 その殴り書きは大学の講義室の長机にあった。
 性質が悪いことに、油性ペンで書かれている。
 一般教養で使われる講義室だ。
 どの学科も入れる。
 裏を返せば、どの学科の学生でも、この文字を書くことができ、読むことができる。

 ここには、人の夢を馬鹿にする人間はいないと思っていた。
 ショックだった。

「座らないんですか?」

 声をかけられ、びくりと震えた。

「座らないなら、座っていいですか?」

 そこ、と、青年が暴言を指さす。

「ここ?」
「そう、そこ」

 ちらりと油性ペンの文字を見る。
 青年は唇を伸ばした。

「文芸?」
「いや、音楽」
「なら、傷つく必要ないんじゃない?」

 青年が黒い文字の上に鞄を置こうとする。
 俺はそれを押しやり、拳でその文字を消そうとした。
 皮膚が摩擦で痛むのに、文字が消える気配はまったくない。
 一般教養を受けに、他の学生がぞろぞろと入ってくる。
 好奇な視線を感じる。
 青年が手首を掴んできた。
 彼は何も言わずに文字の上に鞄を置き、淡々と聴講の準備をしていく。
 俺は居たたまれなくなって講義室を出た。
 ラウンジで、ミネラルウォーターを飲みながら、窓の外の青空を見つめた。
 雲が流れていく。
 ゆっくり、ゆっくり……、ゆっくりと。
 テーブルに頬をのせ、その流れを見守る。
 知らず、瞼が下がっていった。

 俺はどうして、ここへ来たんだろう。
 親に逆らってまで、どうして……。

 答えはわかりきっている。
 歌いたかった。
 音楽を学びたかった。
 夢に近づきたかった。

 そして、なにより、仲間が欲しかった。
 芸術を目指す人達の空気に包まれていたかった。

 周りが騒がしくなる。
 講義が終わったらしい。

「手」

 振り返ると、さきほどの青年が立っていた。

「真っ赤ですよ」

 指摘されたとおり、右手は赤く変色している。
 青年はズボンのポケットからハンカチを取りだした。

「今日は一度も使ってませんから」

 そう言って、こちらの手にハンカチを当て、解けないよう、強く結びつけた。

「返さなくていいから。ゴミ箱にでも捨ててください」

 青年が微笑む。

「え?」
「それ」

 青年がハンカチを指さす。

「あ……。ありが」
「じゃ」

 礼の言葉を最後まで聴かず、青年は背を向けた。

 大げさでなく、大学へ通う意義を失いかけていた俺は、青年の存在のおかげで、不登校を免れた。
 ここに通っていれば、また、あの青年に会えるかもしれない。

 だけど、学科が違うからか、彼とは半年以上、会えなかった。

 俺はその間に、新規のサークルに入り、路上ライブやネットへの映像配信、音楽講師のボランティア、幼稚園での演奏などを行い、金を工面するためにバイトも始めた。
 青年のことを忘れたことはなかったが、このまま青年に会えなくともいいかとも思っていた。
 彼は俺をこの場所に引き留めてくれた、眩しい存在だったから。
 触れられない、話せない、そういう、人なのに人じゃないような、大切なものの象徴だったから。
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