言の葉

上野たすく

文字の大きさ
上 下
2 / 12

1

しおりを挟む
 午後七時。瀬田小学校の体育館では、剣道少年団が練習をしていた。
「それで、どうしてお前がここにいるんだ」
 木更津一彰は横目で下級生を見た。
「木更津君がいるからかな」
 右足をねんざしている一彰同様、体育館の隅で膝を抱えていた相津知司が笑いかけてくる。
 あどけない笑顔だけは、そこら辺にいる少女のものだ。
 だが、彼女はネットや新聞、時折テレビにも出るほどの知名度を持っている天才少女。
 理由は簡単。
 彼女が小学五年生でありながら、大学生をも寄せつけないほどの心理言語学の知識があるからだった。
 相津知の説明によると心理言語学とは、心と言葉の研究だ。言葉を理解する上での心の動きや、言葉を産む上での心の動きなどが研究の問題としてあげられるのだそうだ。
 確かに、言語は人間にとってなくてはならない伝達手段だ。
 けれど、一彰は人生をかけてまで追求するつもりはない。
 一彰は理系だ。
 それなのに、相津知は事あるごとに言語学の知識を羅列してくる。
 勘弁して欲しい。
 溜息をこぼしそうになり、一彰は口を塞いで必死の思いで止めた。
 とたん、相津知が小さく吹き出す。
「まさか、溜息で幸せは減るって思ってる?」
 その通りだったので眉がゆがんだ。
「そんなの迷信だよ。心配しなくてもいい」
 彼女は、いやらしい笑みを浮かべてこちらの腕をつっついてきた。
「でも、えらいよねえ、木更津君は。練習ができないのにちゃんと来るんだもん。しかも、ジャージ姿で」
「スポーツ精神だよ。もうすぐ試合だからな。士気を高めるためには応援も大切なんだ」
 聴こえたのかなかったのか、相津知が渋面を作る。
「それにしても僕は残念だよ。木更津君の試合を見られると思っていたからね」
「仕方ないだろ。ねんざをしたんだ」
 一彰は膝を腕で囲い、そこに顔を沈めた。
―木更津の代わりに宮下。今回はこのメンバーでいく。
 コーチである山田はそういった。
 胸の痛みはもうない。
 免疫ができたようだ。
 人工的に冷やされる足首に他人の感触が伝わる。
 頭を上げると相津知の細い指が包帯を撫でていた。
「僕が代わってあげられればいいんだけど」
「じゃあ、代わってくれよ」
「木更津君には通訳が必要だね」
 彼女の眼差しが宮下に移される。
 つられて一彰も視線を動かした。
「彼も頑張っているみたいだ」
 当たり前だろう、と返すと眉を上げられた。
 何かを含んだ眼球に溜息を漏らし、慌てて自分の吐いた空気をかき集める。
 が、こともあろうか、相津知は横から思いっきり息を吹いてそれを散乱させた。
 怒鳴ろうとした唇にすばやく人差し指を当てられる。
「これで木更津君の幸せを、ここにいる皆におすそ分けできたってことだ」
「お前、言ってて恥ずかしくない?」
「木更津君には思ったことを伝えたいんだ」
 一彰はぐっと顎を引いた。
「おい、宮下。ちょっと来い」
 少年団を仕切る山田コーチが手招きをする。
 面をつけた宮下が肩で息を整え、従った。
 コーチは腕組みをして、険しい形相で何事かを口にした。
 宮下は棒立ちでそれを聴いている。
 コーチがこちらに目線をくれ、つづいて宮下が項垂れた。
 すぐ隣で相津知が笑った。
「木更津君、浦島太郎って知ってる?」
 訳のわからないことを言い出す。
「彼が潰れないといいね」
「え?」
「じゃあ、僕は帰るよ」
「待てよ。家まで送ってく」
「大丈夫。一人で帰れる。また明日」
 一彰は曖昧な返事をして、彼女の小さな後姿が消えるまで見送った。
 練習は切り返しという、面紐を交互に打つ動作に入っていた。
 木の床が力強く踏まれ、体育館中に反響する。
 宮下のフォームが崩れていた。
 肩、肘、手首の順に動かさないといけないのに、肩だけの動きになっている。
 彼が潰れないといいね、という相津知の言葉が甦り、一彰は目をふせた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

家路

tsu
青春
主人公が青春時代に偶然出会った三人の女の子との思い出話。

Color4

dupi94
青春
高校一年生の岡本行雄は、自分のすべてから目を背けるほどの事故から始まった悲惨な中学時代を経て、新たなスタートを心待ちにしていた。すべてが順調に始まったと思ったそのとき、彼は教室に懐かしい顔ぶれを見つけました。全員が異なる挨拶をしており、何が起こったのかについての記憶がまだ残っています。ユキオは、前に進みたいなら、まず自分の過去と向き合わなければならないことを知っていました。新しい友達の助けを借りて、彼は幼なじみとの間の壊れた絆を修復するプロセスを開始しました。

僕とやっちゃん

山中聡士
青春
高校2年生の浅野タケシは、クラスで浮いた存在。彼がひそかに思いを寄せるのは、クラスの誰もが憧れるキョウちゃんこと、坂本京香だ。 ある日、タケシは同じくクラスで浮いた存在の内田靖子、通称やっちゃんに「キョウちゃんのこと、好きなんでしょ?」と声をかけられる。 読書好きのタケシとやっちゃんは、たちまち意気投合。 やっちゃんとの出会いをきっかけに、タケシの日常は変わり始める。 これは、ちょっと変わった高校生たちの、ちょっと変わった青春物語。

ナースコール

wawabubu
青春
腹膜炎で緊急手術になったおれ。若い看護師さんに剃毛されるが…

坊主の誓い

S.H.L
青春
新任教師・高橋真由子は、生徒たちと共に挑む野球部設立の道で、かけがえのない絆と覚悟を手に入れていく。試合に勝てば坊主になるという約束を交わした真由子は、生徒たちの成長を見守りながら、自らも変わり始める。試合で勝利を掴んだその先に待つのは、髪を失うことで得る新たな自分。坊主という覚悟が、教師と生徒の絆をさらに深め、彼らの未来への新たな一歩を導く。青春の汗と涙、そして覚悟を描く感動の物語。

職場のパートのおばさん

Rollman
恋愛
職場のパートのおばさんと…

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...