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36-2〈現在・アリサ視点〉

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「ここにいたいのか?」
「……私は逃げない。お前は帰れ」
 言い、草原を歩く。
 エニシは一定の距離を保ってついてきた。
 あんなに惹かれた夜空を見る余裕がない。
 どうして、ついてくるの? 私は逃げないと言ったじゃない。信じられないの?
「信じている」
 背中に放たれた言葉にびくりとし、立ち止まる。エニシも、進むのをやめた。
「監視がついている状態で逃げることは容易ではない。お前がその程度のこともわからない人間じゃないことを、俺は信じている」
 エニシの回りくどさに、アリサは頬を釣り上げた。
「帰らないのは」
 相手が息を吐きだす。
「お前と時間を共有する機会は、そうないだろうと予想するからだ」
「だとしても、私は馴れ合う気などない」
 突っぱねると、相手は真顔で見つめてきた。
「俺が眷属にしたのは、お前で二人目だ」
 低く、小さな声で呟く。
「それが、どうしたの? 私には関係のない話だ」
「二人のうち、生きている眷属は、お前一人だ」
 アリサはためらった。
「もう一人は、どうして、死んだの?」
「血を受けることのデメリットの了承を、俺がそいつにとらなかったからだ」
 エニシは苦痛を瞳に滲ませた。
「そいつは発明をしていた。俺はその発明のアイデアを、そいつを眷属にすることで奪った。血を分ける行為は初めてだった。俺は今以上に知識不足だった。血を分けると意識がぼやける。自分と眷属の境界線が薄れ、こちら側に多くのものがなだれ込んでくる。俺はそいつが積み上げてきた全てを、自分の考えだと疑わずに、他者に伝えてしまった。あの頃は、血を分けることで眷属側との思考の区別がつかなくなることを、知らなかった。だから、言い訳もできなかった」
 アリサは黙って先をそくした。
「俺がそいつのアイデアを盗んだとわかる日までは、そいつは眷属にさせられたことを呪ってはいなかった。むしろ、瀕死の状態から脱することができたと、礼を言ってくれていた。血の供給も行えた。だが、わかってからは」
 肩の上にのった小型のロボットが、不安げにアリサに身体をくっつけてくる。
「そいつは俺を拒絶した。血も与えることができなかった。そいつが死んだことも、そいつの弟から聞かされた。弟は俺にナイフを突きつけながら、こう言った」
 エニシが目を細める。
「兄さんは死んだ。お前が殺したんだ。お前さえいなければ、兄さんは苦しまなかった。俺はお前を許さない。お前みたいなバケモノ、俺が殺してやる」
「お前が生きているということは、お前はその弟を返り討ちにしたのか?」
 口角を上げたアリサに、エニシは笑んだ。
「その時、俺は自分がそいつのアイデアを盗んだという意識がなかったから、何がどうなっているのか理解できなくて、もがいていた。そいつの弟は、そんな俺の前にナイフをご持参で恨みつらみと一緒に、そいつの死を大声で叫んできた。俺としては、極限の精神状態のところに、最悪な状況が降ってきた感じだった。けど、そいつの弟を犯罪者にさせてはいけないという所だけは、冷静になれた。俺は全力で走って逃げた。だから、俺は生きているし、そいつの弟も死んではいない」
「未来の障害の芽になるかもしれない。摘まなかったのは、汚点だな。彼が今も生きていれば、お前への殺意を育てている可能性がある」
 エニシは視線を横にずらした。
「例の弟はもともと、特異体質者である俺を毛嫌いしていた。可能性はあるだろうな」
 否定しなかった相手を前に、アリサは肩の力を抜いた。
「オーガストがそうだが」
 エニシがこちらを見る。
「人は時に、愛する気持ちを受け入れられず、思考そのものを歪めてしまう。真意は本人の中にしかないが、その弟がお前に執着しているのには、既視感がある」
「オーガストとユニは違う。ユニとはまともに会話をしたこともない。あいつはいつも、どこかに隠れて、俺を遠巻きに睨みつけていた」
 エニシは眷属の弟の名前を迷わず口にした。作り話ではないのだ。この男はこの男で、薄暗い闇を歩いてきたのだろう。少しだけエニシを近く感じ、口元が綻ぶ。
「お前の言葉や態度は人を不快にさせるからな」
 自覚があったのか、エニシは小さく頷いた。
「眷属とはいやおうでも関係が濃くなる。お互いが干渉しあわないことが、ストレス対策にもなるだろう。今、言った通り、俺は仲たがいをしたままの眷属を、一人、失っている。お前が俺を嫌いだとしても、最低限の信頼関係は築いておきたい」
 こいつはバケモノなどではない。どこにでもいる、弱い人間だ。
 アリサは肩の上の小型ロボットを手にのせ、その場に腰を下ろした。
「この子のこと、もっと詳しく教えて。攻撃や防御はできないの?」
 エニシがパッと笑顔を輝かせ、隣に座る。
 アリサはハッと息を止めた。
 突然、ドッドッドと心臓が早鐘を打つ。
 伝わるな。伝わってはいけない。
 まだ名前のない感情を推測され、指摘されたなら、意識がそちらへと向いてしまう。気持ちを他者に誘導されるのはごめんだ。
「こいつにはカメラと録音機を入れてある。攻防に関しては、特別なものは搭載させなかった。代わりに、思考力が育っていく。リヴォーグの迎えが来た時に、身を守るものは別に渡すつもりだ」
 子どものように話す男に、アリサは舌打ちをした。こいつは天然の人たらしだ。
「何か言ったか?」
 聞き返され、飛び上がった。相手がこちらの胸の内を読めることを忘れていた。エニシは自分の話に熱中していたからか、アリサの心の声を聞き逃したらしかった。
「何も言っていない!」
 思わず、声が大きくなる。掌で、モモンガのロボットが驚いて跳ね、アリサの肩へと急いで登り、身を丸くした。
「どうして、怒る?」
 エニシが心外だという表情をする。
 お前が悪い、と心で愚痴をこぼした。お前が今日、話しかけてこなければ、お前はずっと、私の中で、リヴォーグの嫌われ者だったのに。
 オーガストとルイで占めていた心に、エニシの存在が際立ち始める。
 エニシが話を再開させる。
 味わったことのない感情がじわじわと広がっていくのを、アリサは無邪気な男の声を聴きながら、一人で耐えつづけた。
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