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第二章・序『氷の子供』
第二章04『異変』
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水に揺蕩うような深い眠りから意識が覚醒してから、翔がその朝取る行動はやはりいつもと変わらなかった。寝床を出、はじめに確認したのはその日の日付であった。
「……良かった、飛んでない」
翔はその日だけは『時間跳躍』をする訳にはいかなかったのだ。もちろんできることならば完全に『時間跳躍』を制御して無意識下の時間跳躍を無くしたいが、心持ちを新たにして訓練に励んだあの日から三日ほど経ったその朝においても、翔は未だ時間跳躍の完全制御には至っていなかった。
そう、その日は翔がフィルヒナーと話したあの日より三日後、つまりは遠征当日であった。
翔は深く息を吸い、吐き、ゆっくりと自分の脳が起動していくのを感じながら少し歩いて彼の相棒、フィーリニを起こしに行くために歩き出した。
翔は普段は朝遠く離れたフィーリニの寝床まで行き彼女を起こすなどということはしていない。起こさずとも彼女はおおよそ午前十時ほどに目を覚ますのだ。
しかし遠征当日のその日はそれよりも随分と早起きをしなければいけなくなる。途中にあった時計の短針はまだ真下にすら達しておらず、完全に外との接点を絶った基地の中もどこか暗い雰囲気が漂っている。そのため、遠征をする日に限っては、早起きが苦手な彼女を翔は起こしに行かなければいけなかったのだった。
人と獣の合成体のような見た目ではあるが、それでも一応性別は女に分類されるということで、彼女の寝床は翔のものから距離をとった場所に置かれていた。
──まぁ、遠征前の準備運動と思えばいいか。
翔はそんなことを思いながら、その道のりを歩いていく。その道中、翔は見知った少女が立っているのを見つけた。
「あれ? コハル? 何してんの?」
「──!」
その少女、コハルは翔にそう声をかけられると何故かあたふたと慌てふためいた。翔は朝早くに彼女が何をしているのか疑問であったが、それをもう一度問うまでもなく、少女はしばらくしてからもじもじしながら喋り始めた。
「……カケル兄ちゃんの、見送りしたいな、って」
その言葉が少女が勇気を振り絞って出したものであることを知らず、翔は「そっかー」と何気ない言葉でその言葉を聞き流す。
その微かに震えた声に加えて、『遠征隊』の見送りではなく『翔』の見送りと名指しでそう言っているあたり、彼女の真意が見え隠れしているのだが、どうやら当の本人にはそれが通じていないようで、少女は頬を膨らませる。
しかしそんな少女の様子にも気付かない鈍感な男は相棒を起こしにその場を立ち去ろうとする。そんな翔を再び呼び止めて、コハルは言う。
「あ……まって。
フィルちゃんのこと、まだ起こさないであげて……」
少女がフィーリニのことを翔が呼ぶように愛称で呼んだのは、歳が近くて同性だからか、二人がとても仲良しだからだ。この基地に来てから翔のフィーリニとの接点が少し減ったのは、翔にフィーリニ以外に関わる人が増えたのと、フィーリニにも同年代の友達ができたからだろう。勿論関わる頻度が少なくなった今でも二人は周りから不審がられるほどには一緒に行動はしているのだが。
そのコハルの言葉に、翔は訝しげに返す。
「起こさない、ったって……
今日は遠征だから、もう起きてもらわねぇといけないんだけど」
翔はそう言うが、コハルもそのことは当然分かっているようで、それでいて伏し目がちでどこか不安そうだ。翔は今度はその少女の様子に気付いて、その頭に手を置いてコハルに尋ねる。
「何か、あったのか?」
翔のその疑問に、頭に置かれたその手の温もりにドギマギしつつも、コハルはたどたどしくも答えた。
「……あのね、最近フィルちゃんいつも眠そうで、昨日もすごくつらそうだったし……」
そのコハルの言葉に、翔も心当たりを覚える。確かに翔も最近のフィーリニには違和感を覚えていた。心そこにあらず、というか、どこかフィーリニの意識が遠くに感じられるのだ。
ただの寝不足か、とも考えたが、それにしてはその状態が長く続いているのは不可解だし特にフィーリニの睡眠時間が減ったような様子はない。フィルヒナー達基地内の人間もフィーリニのような人獣には詳しいものがおらず、現状そのフィーリニの変わった様子については結論の出ない状況が続いていたのだ。
「……フィル、お前一体どうしちまったんだ?」
それを本人に尋ねたところで、フィーリニは言葉を話せないので答えが返ってくることはない。しかしその疑問は翔の口から滑り出ていた。
まるで彼女が、どこか遠くへ行ってしまいそうな、そんな予感がしたからだった。
「!! フィルちゃん!?」
そんなことを翔が考えていると、当の本人がケロリと目を覚ましてきた。コハルが驚いてそう声を上げたが、フィーリニは呑気に首を傾げるだけだ。翔はそんなフィーリニの様子に苦笑しながらも、その様子がどこか翔には嬉しく感じた。
──まぁ、そういえば謎めいてるくせにいつも能天気なのがこいつだったな。
そう笑ってから、翔は改めてフィーリニの方を見る。フィーリニはその状況がよく分からない様子だったが、笑う翔に見つめられつられて笑みを浮かべる。そうして互いに笑いあって、翔は何か吹っ切れたような気持ちになった。
以前よりは関わることが少なくなってしまったかもしれないが、それでも翔とフィーリニの関係は変わらない。これまでと同じ、これからもきっと、苦楽を共にする相棒だ。
「よし、行こうかフィル」
その言葉に、フィーリニは笑顔で大きく頷いた。そしてそれに返すように、いつか笑いあった時と同じように、翔もフィルに笑いかけたのだった。
********************
そうして翔とフィーリニで揃って集合場所に行くと、既にそこには遠征隊の面々が皆揃っていた。
「おせーぞ」
「すいません」
ランバートが翔をそう注意する。彼の翔への態度は相変わらずだ。しかし遠征隊で半年ほどの月日を過ごした翔はもうその態度に慣れていた。波風を立てないように、そう無難に謝罪をしてから、翔も自分の準備に取り掛かる。
遠征直前のその場において、遠征隊員のその顔に浮かぶものは皆違っていた。恐怖、高揚、不安、期待。しかし、少なくとも翔の顔にはもう『迷い』は浮かんでいなかった。
──もう、うだうだ考えるのは辞める。
凍気の問題も、『時間跳躍』の問題も、今すぐに解決できるようなものではない。翔は目の前のことを一つ一つ、全力でこなす他ないのだ。
今翔の目の前にあるのはこれからの遠征のこと。その他のことを考えている余裕は、翔にはない。
「あ、いたいたカケルさ~ん」
などと集中していた翔の意識が、その声によって途切れる。翔はその声の主を睨むが、そんなことに気付きもせず翔を呼び止めた少女、アンリは手に持った袋から何かをゴソゴソと取り出して言った。
「直前になっちゃってすいませんが、例のカケルさん専用の武器ですよ~」
そうして彼女が取り出したのは、一見翔の雪靴と何ら変わりない厚底のブーツであった。
「……え? これだけ?」
「そ、これだけですよ~。でもこれ、見た目によらず凄いんですよ?」
アンリに手渡された靴は実際に持ってみてもそれほど普通の靴と違いは感じられない。強いて言うならば従来のものに比べればだいぶ重量感は感じるが、これほど厚底であったら妥当な重さだと思えるほどだ。しかし尚も得意げな目の前の少女に、翔はやはり嫌な予感がしてそれを少女に押し返す。
「……やっぱりまだ死にたくないからいらねぇ」
「むきー! 何を失礼な! 今回のは爆発しませんよ! ……多分」
「やっぱり自信ないんじゃねぇか! 無理無理、怖くて履けねぇよ!」
最後に付け加えたその自信のなさそうな言葉に翔の恐怖心が増す。そんな翔の様子を見て、アンリがひとつため息をついて翔に言う。
「……いいから持ってってください。何となくですけど、近々これがあなたに必要になる気がします」
その語調がいつになく真剣なものであったため、翔は押し黙り大人しくそれを受け取る。その翔の様子を見て、アンリは満足そうに頷いて手を振った。
「んじゃ、カケルさんいってらっしゃ~い!」
「おう! ……信じてるぜ、アンリ」
その少女から貰った新しい靴を早速履き、翔は遠征隊の列に並ぶ。その後ろにピンクの防寒着のフィーリニが並び、元二は全員が揃ったのを確認して叫んだ。
「よし、準備はいいな。
これから遠征を開始する。
今回も引き締まっていこう!」
「おう!」
コハルを含めた大勢の人に見送られ、その雄叫びと共に、遠征隊は再びその猛吹雪の世界に足を踏み出した。
その道の先に何があるかを知るはずもなく。
「……良かった、飛んでない」
翔はその日だけは『時間跳躍』をする訳にはいかなかったのだ。もちろんできることならば完全に『時間跳躍』を制御して無意識下の時間跳躍を無くしたいが、心持ちを新たにして訓練に励んだあの日から三日ほど経ったその朝においても、翔は未だ時間跳躍の完全制御には至っていなかった。
そう、その日は翔がフィルヒナーと話したあの日より三日後、つまりは遠征当日であった。
翔は深く息を吸い、吐き、ゆっくりと自分の脳が起動していくのを感じながら少し歩いて彼の相棒、フィーリニを起こしに行くために歩き出した。
翔は普段は朝遠く離れたフィーリニの寝床まで行き彼女を起こすなどということはしていない。起こさずとも彼女はおおよそ午前十時ほどに目を覚ますのだ。
しかし遠征当日のその日はそれよりも随分と早起きをしなければいけなくなる。途中にあった時計の短針はまだ真下にすら達しておらず、完全に外との接点を絶った基地の中もどこか暗い雰囲気が漂っている。そのため、遠征をする日に限っては、早起きが苦手な彼女を翔は起こしに行かなければいけなかったのだった。
人と獣の合成体のような見た目ではあるが、それでも一応性別は女に分類されるということで、彼女の寝床は翔のものから距離をとった場所に置かれていた。
──まぁ、遠征前の準備運動と思えばいいか。
翔はそんなことを思いながら、その道のりを歩いていく。その道中、翔は見知った少女が立っているのを見つけた。
「あれ? コハル? 何してんの?」
「──!」
その少女、コハルは翔にそう声をかけられると何故かあたふたと慌てふためいた。翔は朝早くに彼女が何をしているのか疑問であったが、それをもう一度問うまでもなく、少女はしばらくしてからもじもじしながら喋り始めた。
「……カケル兄ちゃんの、見送りしたいな、って」
その言葉が少女が勇気を振り絞って出したものであることを知らず、翔は「そっかー」と何気ない言葉でその言葉を聞き流す。
その微かに震えた声に加えて、『遠征隊』の見送りではなく『翔』の見送りと名指しでそう言っているあたり、彼女の真意が見え隠れしているのだが、どうやら当の本人にはそれが通じていないようで、少女は頬を膨らませる。
しかしそんな少女の様子にも気付かない鈍感な男は相棒を起こしにその場を立ち去ろうとする。そんな翔を再び呼び止めて、コハルは言う。
「あ……まって。
フィルちゃんのこと、まだ起こさないであげて……」
少女がフィーリニのことを翔が呼ぶように愛称で呼んだのは、歳が近くて同性だからか、二人がとても仲良しだからだ。この基地に来てから翔のフィーリニとの接点が少し減ったのは、翔にフィーリニ以外に関わる人が増えたのと、フィーリニにも同年代の友達ができたからだろう。勿論関わる頻度が少なくなった今でも二人は周りから不審がられるほどには一緒に行動はしているのだが。
そのコハルの言葉に、翔は訝しげに返す。
「起こさない、ったって……
今日は遠征だから、もう起きてもらわねぇといけないんだけど」
翔はそう言うが、コハルもそのことは当然分かっているようで、それでいて伏し目がちでどこか不安そうだ。翔は今度はその少女の様子に気付いて、その頭に手を置いてコハルに尋ねる。
「何か、あったのか?」
翔のその疑問に、頭に置かれたその手の温もりにドギマギしつつも、コハルはたどたどしくも答えた。
「……あのね、最近フィルちゃんいつも眠そうで、昨日もすごくつらそうだったし……」
そのコハルの言葉に、翔も心当たりを覚える。確かに翔も最近のフィーリニには違和感を覚えていた。心そこにあらず、というか、どこかフィーリニの意識が遠くに感じられるのだ。
ただの寝不足か、とも考えたが、それにしてはその状態が長く続いているのは不可解だし特にフィーリニの睡眠時間が減ったような様子はない。フィルヒナー達基地内の人間もフィーリニのような人獣には詳しいものがおらず、現状そのフィーリニの変わった様子については結論の出ない状況が続いていたのだ。
「……フィル、お前一体どうしちまったんだ?」
それを本人に尋ねたところで、フィーリニは言葉を話せないので答えが返ってくることはない。しかしその疑問は翔の口から滑り出ていた。
まるで彼女が、どこか遠くへ行ってしまいそうな、そんな予感がしたからだった。
「!! フィルちゃん!?」
そんなことを翔が考えていると、当の本人がケロリと目を覚ましてきた。コハルが驚いてそう声を上げたが、フィーリニは呑気に首を傾げるだけだ。翔はそんなフィーリニの様子に苦笑しながらも、その様子がどこか翔には嬉しく感じた。
──まぁ、そういえば謎めいてるくせにいつも能天気なのがこいつだったな。
そう笑ってから、翔は改めてフィーリニの方を見る。フィーリニはその状況がよく分からない様子だったが、笑う翔に見つめられつられて笑みを浮かべる。そうして互いに笑いあって、翔は何か吹っ切れたような気持ちになった。
以前よりは関わることが少なくなってしまったかもしれないが、それでも翔とフィーリニの関係は変わらない。これまでと同じ、これからもきっと、苦楽を共にする相棒だ。
「よし、行こうかフィル」
その言葉に、フィーリニは笑顔で大きく頷いた。そしてそれに返すように、いつか笑いあった時と同じように、翔もフィルに笑いかけたのだった。
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そうして翔とフィーリニで揃って集合場所に行くと、既にそこには遠征隊の面々が皆揃っていた。
「おせーぞ」
「すいません」
ランバートが翔をそう注意する。彼の翔への態度は相変わらずだ。しかし遠征隊で半年ほどの月日を過ごした翔はもうその態度に慣れていた。波風を立てないように、そう無難に謝罪をしてから、翔も自分の準備に取り掛かる。
遠征直前のその場において、遠征隊員のその顔に浮かぶものは皆違っていた。恐怖、高揚、不安、期待。しかし、少なくとも翔の顔にはもう『迷い』は浮かんでいなかった。
──もう、うだうだ考えるのは辞める。
凍気の問題も、『時間跳躍』の問題も、今すぐに解決できるようなものではない。翔は目の前のことを一つ一つ、全力でこなす他ないのだ。
今翔の目の前にあるのはこれからの遠征のこと。その他のことを考えている余裕は、翔にはない。
「あ、いたいたカケルさ~ん」
などと集中していた翔の意識が、その声によって途切れる。翔はその声の主を睨むが、そんなことに気付きもせず翔を呼び止めた少女、アンリは手に持った袋から何かをゴソゴソと取り出して言った。
「直前になっちゃってすいませんが、例のカケルさん専用の武器ですよ~」
そうして彼女が取り出したのは、一見翔の雪靴と何ら変わりない厚底のブーツであった。
「……え? これだけ?」
「そ、これだけですよ~。でもこれ、見た目によらず凄いんですよ?」
アンリに手渡された靴は実際に持ってみてもそれほど普通の靴と違いは感じられない。強いて言うならば従来のものに比べればだいぶ重量感は感じるが、これほど厚底であったら妥当な重さだと思えるほどだ。しかし尚も得意げな目の前の少女に、翔はやはり嫌な予感がしてそれを少女に押し返す。
「……やっぱりまだ死にたくないからいらねぇ」
「むきー! 何を失礼な! 今回のは爆発しませんよ! ……多分」
「やっぱり自信ないんじゃねぇか! 無理無理、怖くて履けねぇよ!」
最後に付け加えたその自信のなさそうな言葉に翔の恐怖心が増す。そんな翔の様子を見て、アンリがひとつため息をついて翔に言う。
「……いいから持ってってください。何となくですけど、近々これがあなたに必要になる気がします」
その語調がいつになく真剣なものであったため、翔は押し黙り大人しくそれを受け取る。その翔の様子を見て、アンリは満足そうに頷いて手を振った。
「んじゃ、カケルさんいってらっしゃ~い!」
「おう! ……信じてるぜ、アンリ」
その少女から貰った新しい靴を早速履き、翔は遠征隊の列に並ぶ。その後ろにピンクの防寒着のフィーリニが並び、元二は全員が揃ったのを確認して叫んだ。
「よし、準備はいいな。
これから遠征を開始する。
今回も引き締まっていこう!」
「おう!」
コハルを含めた大勢の人に見送られ、その雄叫びと共に、遠征隊は再びその猛吹雪の世界に足を踏み出した。
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