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愛猫日記
彼のリベンジ、彼のヤキモチ⑧
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来た時は真白たちを追いかけてきたので孝一も電車だったが、この時間、混雑しているし待ち時間もある。
孝一は、腕の中の真白をチラリと見下ろした。彼女は、まるで彼の身体が命綱か何かであるかのように、一時たりとも放そうとしない。普段、真白が人前で孝一にくっついてくることなど滅多にない。彼が外で肩を組もうとすれば、未だに体が硬くなる。
そんな真白の、孝一に全てを委ね切ったようなこの姿は、彼の中に嬉しさよりも不安を掻き立てた。今はとにかく早くかつ安楽に彼女を家に連れて帰ってやりたくてならない。
ゲート前で客待ちをしているタクシーの一台に乗り込んで行先を告げると、運転手は驚き顔で振り返った。
「結構距離ありますよ?」
「連れが具合を悪くしてるんだ。高速も使ってくれ」
孝一の台詞で彼の腕の中の真白に初めて気付いたようで、運転手が眉を曇らせる。
「あらら……大丈夫ですか?」
「ああ、休ませてやれば落ち着くだろう」
「じゃあ、できる限り静かめで行きますね」
「頼む」
それを最後に運転手も口を閉じ、かかっていたラジオも消してくれて、車は静かに走り出した。
真白は孝一の膝に顔を埋めてピクリともしない。眠っているにしては彼の胴に回された腕に力が込められているが、もしかしたら眠りながらしがみ付いてきているのかもしれなかった。
――以前の彼女は、ギュッと縮こまって眠りに落ちていたから。
タクシーは渋滞に引っかかることもなくスムーズに走り、一時間ほどでマンションに着いた。
料金を払った孝一は真白を起こそうかそれとも寝かせたまま抱き上げようか迷ったが、その答えが出る前に彼女がムクリと起き上がる。
「起きたのか?」
「起きてたよ」
それはタクシーに乗り込んだ時からか? と思いつつ、孝一は先に降りて真白を待つ。タクシーから出た真白は、見慣れたマンションの入り口を前にして、ホッと小さな息をついた。
部屋に入ると孝一は真っ先にバスルームに向かう。今の真白に一番必要なのは休息に違いない。彼女を風呂に入れている間に何か軽い食事を用意しておけば、さっさと寝かせることができる。
真白は孝一に言われるままに風呂に行き、出てきたら促されるままに食事を摂った。食欲が無いわけではないようで、彼が食べるようにと言ったものは黙々と口に運んでいる。
いつもとは逆転している役割が何だか新鮮で、そして奇妙に感じられる。
そうやって孝一に世話をやかれている間、真白は一言も喋らず、まるで自分の中の何かに耳を澄ましているかのようだった。
何となく、出会った頃の彼女のようだ。
ふとそんなふうに思い、孝一はギクリとする。
「真白、もう寝るか?」
そう声をかけると真白の目が彼に向けられた。
「ん――うん」
彼女はやっぱりどこか気もそぞろで、確かにここにいるのに見えない壁を隔てているような、そんな違和感をどうしても拭えない。
(寝かせて、明日の朝起きたらいつもの真白に戻っている――よな?)
自分を安心させるように孝一は胸の中でそう呟いたが、ごまかしようのない焦燥感のようなものが生まれる。
(取り敢えず、今夜は休ませよう。何があったのかは明日訊けばいい)
本当にそれでいいのかという心の奥からの問いかけには耳を塞いだ。
機械的に歯を磨き寝室に行く真白に気を取られながら食器を片づけ終えて、孝一は彼女の後を追う。
真白はもうベッドの中で丸まっているけれど、寝室の灯りは点いていた。
寝てしまったのかと孝一が思った矢先、クルリと真白が寝返りを打つ。ジッと見つめてくる視線に惹かれるようにしてベッドに歩み寄り、そこに腰を下ろした。手を伸ばして真白の髪に触れると、彼女は目を開けてされるがままになっている。
柔らかな髪に指を潜らせ、地肌に触れると、真白の眼差しが心なし変わったような気がした――ボウッと遠くを見ていたが、ようやく目の前にいる孝一に気付いたというように、彼に焦点が合ったような気が。
その眼差しに誘われるように、孝一は身体を屈めて真白の唇に自分のそれをそっと重ねた。
ただ、触れるだけだ。
触れて、浮かせて、また触れる。
何度かそれを繰り返してから顔を上げ、栗色の大きな目を覗き込む。
(ああ、大丈夫だ。前の真白に戻った訳じゃない)
そう確信し、彼はまた頭を下げる。
目蓋に、頬に、耳元に、そして唇に、慰撫する為の、そして彼の存在を知らせる為のキスを重ねていく。
無防備に彼の唇を受け入れる真白に孝一の身体は疼いたが、今日はそれ以上する気はなかった。
「俺は傍にいるからな?」
耳に吐息を吹き込むようにしてそう囁いて、孝一は、触れるだけでも心地良い肌から名残惜しくも顔を上げる。真白の目を見つめれば、今度はしっかりと視線が絡み合った。
何となくホッとして、彼は最後に真白の髪を一撫でしてベッドから離れようとした。
が。
クン、と立ち上がりかけた彼の袖が引かれる。
見下ろせば、真白の手がそこをしっかりとつかんでいた。
「シロ?」
「行かないで」
震える声でそう言われ、潤んだ目で見上げられ、孝一の理性は揺らぐ。そこを再びしっかり引き締めて、彼はまたベッドに腰を下ろした。
「じゃあ、眠るまで傍にいるから」
微笑みながら真白の頬に手を伸ばした孝一に、彼女はキュッと唇を噛んだ。
「そう、じゃなくて……」
その声に、彼の胸は一瞬ざわついた。
本当に、今日は、真白をこのまま寝かせてやるつもりだったのだ。孝一は。
だが、もどかしげに見つめてくる彼女のその目が訴えていることに、彼は気付いていないふりはできなかった。
すがるような真白の眼差しに情けなくも湧き上ってくる欲望を捻じ伏せ、孝一はもう一度己自身に言い含める。
(今の真白は普通じゃない。そんな時に抱いてもいいのか?)
いや、良くない。
ここは、ただ抱き締めて眠ってやるとか、そういう対応が正しい筈だ。
孝一は上掛けを持ち上げ真白の隣に滑り込み、その温かく柔らかな身体を腕の中に引き寄せた。
その感触にすぐさま反応しそうになる愚かな自分を抑えつつ。
彼女は寝る時に長めのTシャツしか身に着けないから、腿の半ばくらいからは剥き出しだ。滑らかなその素肌に触れてしまったら、孝一のなけなしの理性などたんぽぽの綿毛並みに軽く吹き飛ばされてしまうだろう。うっかりTシャツをめくってしまわないように慎重に華奢な背中とくぼんだ腰に手を置いて、半ば自分の身体にのせるようにして引き寄せる。シャンプーの甘い香りが、彼の顎の下にはまった彼女の頭から漂ってきた。
真白の身体は、まるで孝一の為に作られたのではないだろうかと思ってしまうほどに、彼の身体にぴったりと合う。
こうして自分の身体で彼女を包み込んでいると、孝一の中には、真白のことを守ってやりたいという想いがどうしようもなく溢れてくる。
肉体的な欲望は、彼女の全てを食い尽くしてやりたいとか、そんな凶暴な気持ちにさせるのに、精神的な欲求は、一筋だって傷付けたくない、真綿で包むようにして安らがせてやりたい、そんな気持ちにさせるのだ。
真白に触れるとそんな相反する想いがいつも孝一の中でせめぎ合い、たいてい前者が勝利を収めてしまうのだが、どうやら今は何とかしのげそうだ。
しばらくは腕の中の温もりはピクリとも動かなくて、ようやく眠りに落ちてくれたらしいと、孝一がホッと小さく息をついた時だった。
真白が、身じろぎをする。
反射的に孝一が腕の力を緩めると、彼女が顔を上げた。
「シロ?」
眉をひそめて真白の顔を見返した孝一に、更に彼女が動く。
真白が何をしようとしているのか、彼には一瞬判らなかった――いや、判っていても、判らないふりをしたのかもしれない。
それは彼が望んでいたことだったから。
身体を伸ばし近づけてきた真白の唇が、孝一のそれと触れ合う。最初は、ふわりと。
けれど、孝一が動かずにいると、真白はもう少ししっかりと押し付けてきた。そして、閉じていた彼の唇の間に柔らかく湿ったものがおずおずと触れ、ためらいがちに探ってくる。
真白の方からこんなキスをしてくるのは、初めてだった。
以前、孝一のかつての恋人が現れた時、『嫉妬に駆られて』キスしてきたことはある。だが、あの時でも、ただ触れるだけが精いっぱいだった。
たちまち、孝一の反応してはいけない場所が反応し、ズキズキと疼きを訴え始める。
そっと身体をずらして真白の身体が触れないようにしたが、持ち上がった彼女の腕が孝一の首の後ろに回され、いっそう引き寄せられた。
孝一は思わず唇を開いて真白の舌を招き入れてしまう。
彼女のそれは孝一の歯列を越えるのがせいぜいのようで、彼の方から動かなければ舌先が触れ合う程度だ。にもかかわらず、かろうじてかすめるだけのその接触に、孝一の背中にはぞくぞくと震えが走る。
真白は、いつも孝一がそうしているように、舌を絡め、こすり合わせようとしているようだ。だが、実際には、仔猫がミルクを舐めるような動きにしかなっていない。
全く、色っぽさはない。
巧みさも、かけらもない。
しかし、真白から求めてきている、ということは、どんな淫猥な技巧よりも孝一の欲望を掻き立て、紙屑のように理性を吹き飛ばしてしまう。
もどかしい誘いに孝一が耐えていられたのは、せいぜい十秒というところだろう。
いつそうなったのかは判らないが、気付けば孝一の上にいた筈の真白を彼は身体全体でマットに押し付けていて、震える彼女の唇を貪るように奪っていた。
真白の狭い口腔の奥まで舌を挿し入れると、彼女が懸命に応えようとしてきてくれる。未だに不慣れなその動きにむしろ愛おしさを覚えながら、孝一は甘い潤いの中を隅々まで味わった。
そうしながら片手を真白の身体に沿って添わせ、腰の丸みを下って、内腿に辿り着く。
滑らかな肌をくすぐるように愛撫しながらまだ閉じていたそこをそっと開かせ、自分の膝をその間に置き――我に返った。
(違う、今日はこんなことしない筈だったろ!?)
パッと弾かれたように顔を上げ、孝一は深く息をつきながら、めくり上げかけていた彼女のTシャツの裾をバカ丁寧に元に戻した。無理矢理中断させた欲望に震えが押さえられない指先で。
「コウ?」
唐突に離れた孝一を、真白が頼りなげな眼差しで見上げてくる。その目に再び理性を揺さぶられながらも、彼は欲望で引きつる頬に何とか笑みを浮かべた。
「悪い。今日は疲れてるだろ?」
「コウ……わたし、疲れてなんかないよ」
そう言って、真白は孝一の頬に両手を伸ばしてくる。春になってもひんやりしている彼女の手は、いつもなら、彼が触れればすぐに温もってくる。だが、今は、それは冷たいままだった。
「けどな、シロ――」
なおも拒もうとする孝一の唇を、真白の細い指先が封じる。
「お願い。……して、欲しいの」
付け足された、小さな声での懇願。
その目も声も、欲望に駆られて、というものとは程遠かったが、確かに彼女は願っていた。
何が真白をおかしくさせているのか。
この行為に、真白は何を求めているのか。
孝一には何も判らないままだ。
本当は、先にそれをはっきりさせるべきなのかもしれない。
だが、真白から乞われてそれを退けることができるほど、孝一は聖人ではなかった。
孝一は、腕の中の真白をチラリと見下ろした。彼女は、まるで彼の身体が命綱か何かであるかのように、一時たりとも放そうとしない。普段、真白が人前で孝一にくっついてくることなど滅多にない。彼が外で肩を組もうとすれば、未だに体が硬くなる。
そんな真白の、孝一に全てを委ね切ったようなこの姿は、彼の中に嬉しさよりも不安を掻き立てた。今はとにかく早くかつ安楽に彼女を家に連れて帰ってやりたくてならない。
ゲート前で客待ちをしているタクシーの一台に乗り込んで行先を告げると、運転手は驚き顔で振り返った。
「結構距離ありますよ?」
「連れが具合を悪くしてるんだ。高速も使ってくれ」
孝一の台詞で彼の腕の中の真白に初めて気付いたようで、運転手が眉を曇らせる。
「あらら……大丈夫ですか?」
「ああ、休ませてやれば落ち着くだろう」
「じゃあ、できる限り静かめで行きますね」
「頼む」
それを最後に運転手も口を閉じ、かかっていたラジオも消してくれて、車は静かに走り出した。
真白は孝一の膝に顔を埋めてピクリともしない。眠っているにしては彼の胴に回された腕に力が込められているが、もしかしたら眠りながらしがみ付いてきているのかもしれなかった。
――以前の彼女は、ギュッと縮こまって眠りに落ちていたから。
タクシーは渋滞に引っかかることもなくスムーズに走り、一時間ほどでマンションに着いた。
料金を払った孝一は真白を起こそうかそれとも寝かせたまま抱き上げようか迷ったが、その答えが出る前に彼女がムクリと起き上がる。
「起きたのか?」
「起きてたよ」
それはタクシーに乗り込んだ時からか? と思いつつ、孝一は先に降りて真白を待つ。タクシーから出た真白は、見慣れたマンションの入り口を前にして、ホッと小さな息をついた。
部屋に入ると孝一は真っ先にバスルームに向かう。今の真白に一番必要なのは休息に違いない。彼女を風呂に入れている間に何か軽い食事を用意しておけば、さっさと寝かせることができる。
真白は孝一に言われるままに風呂に行き、出てきたら促されるままに食事を摂った。食欲が無いわけではないようで、彼が食べるようにと言ったものは黙々と口に運んでいる。
いつもとは逆転している役割が何だか新鮮で、そして奇妙に感じられる。
そうやって孝一に世話をやかれている間、真白は一言も喋らず、まるで自分の中の何かに耳を澄ましているかのようだった。
何となく、出会った頃の彼女のようだ。
ふとそんなふうに思い、孝一はギクリとする。
「真白、もう寝るか?」
そう声をかけると真白の目が彼に向けられた。
「ん――うん」
彼女はやっぱりどこか気もそぞろで、確かにここにいるのに見えない壁を隔てているような、そんな違和感をどうしても拭えない。
(寝かせて、明日の朝起きたらいつもの真白に戻っている――よな?)
自分を安心させるように孝一は胸の中でそう呟いたが、ごまかしようのない焦燥感のようなものが生まれる。
(取り敢えず、今夜は休ませよう。何があったのかは明日訊けばいい)
本当にそれでいいのかという心の奥からの問いかけには耳を塞いだ。
機械的に歯を磨き寝室に行く真白に気を取られながら食器を片づけ終えて、孝一は彼女の後を追う。
真白はもうベッドの中で丸まっているけれど、寝室の灯りは点いていた。
寝てしまったのかと孝一が思った矢先、クルリと真白が寝返りを打つ。ジッと見つめてくる視線に惹かれるようにしてベッドに歩み寄り、そこに腰を下ろした。手を伸ばして真白の髪に触れると、彼女は目を開けてされるがままになっている。
柔らかな髪に指を潜らせ、地肌に触れると、真白の眼差しが心なし変わったような気がした――ボウッと遠くを見ていたが、ようやく目の前にいる孝一に気付いたというように、彼に焦点が合ったような気が。
その眼差しに誘われるように、孝一は身体を屈めて真白の唇に自分のそれをそっと重ねた。
ただ、触れるだけだ。
触れて、浮かせて、また触れる。
何度かそれを繰り返してから顔を上げ、栗色の大きな目を覗き込む。
(ああ、大丈夫だ。前の真白に戻った訳じゃない)
そう確信し、彼はまた頭を下げる。
目蓋に、頬に、耳元に、そして唇に、慰撫する為の、そして彼の存在を知らせる為のキスを重ねていく。
無防備に彼の唇を受け入れる真白に孝一の身体は疼いたが、今日はそれ以上する気はなかった。
「俺は傍にいるからな?」
耳に吐息を吹き込むようにしてそう囁いて、孝一は、触れるだけでも心地良い肌から名残惜しくも顔を上げる。真白の目を見つめれば、今度はしっかりと視線が絡み合った。
何となくホッとして、彼は最後に真白の髪を一撫でしてベッドから離れようとした。
が。
クン、と立ち上がりかけた彼の袖が引かれる。
見下ろせば、真白の手がそこをしっかりとつかんでいた。
「シロ?」
「行かないで」
震える声でそう言われ、潤んだ目で見上げられ、孝一の理性は揺らぐ。そこを再びしっかり引き締めて、彼はまたベッドに腰を下ろした。
「じゃあ、眠るまで傍にいるから」
微笑みながら真白の頬に手を伸ばした孝一に、彼女はキュッと唇を噛んだ。
「そう、じゃなくて……」
その声に、彼の胸は一瞬ざわついた。
本当に、今日は、真白をこのまま寝かせてやるつもりだったのだ。孝一は。
だが、もどかしげに見つめてくる彼女のその目が訴えていることに、彼は気付いていないふりはできなかった。
すがるような真白の眼差しに情けなくも湧き上ってくる欲望を捻じ伏せ、孝一はもう一度己自身に言い含める。
(今の真白は普通じゃない。そんな時に抱いてもいいのか?)
いや、良くない。
ここは、ただ抱き締めて眠ってやるとか、そういう対応が正しい筈だ。
孝一は上掛けを持ち上げ真白の隣に滑り込み、その温かく柔らかな身体を腕の中に引き寄せた。
その感触にすぐさま反応しそうになる愚かな自分を抑えつつ。
彼女は寝る時に長めのTシャツしか身に着けないから、腿の半ばくらいからは剥き出しだ。滑らかなその素肌に触れてしまったら、孝一のなけなしの理性などたんぽぽの綿毛並みに軽く吹き飛ばされてしまうだろう。うっかりTシャツをめくってしまわないように慎重に華奢な背中とくぼんだ腰に手を置いて、半ば自分の身体にのせるようにして引き寄せる。シャンプーの甘い香りが、彼の顎の下にはまった彼女の頭から漂ってきた。
真白の身体は、まるで孝一の為に作られたのではないだろうかと思ってしまうほどに、彼の身体にぴったりと合う。
こうして自分の身体で彼女を包み込んでいると、孝一の中には、真白のことを守ってやりたいという想いがどうしようもなく溢れてくる。
肉体的な欲望は、彼女の全てを食い尽くしてやりたいとか、そんな凶暴な気持ちにさせるのに、精神的な欲求は、一筋だって傷付けたくない、真綿で包むようにして安らがせてやりたい、そんな気持ちにさせるのだ。
真白に触れるとそんな相反する想いがいつも孝一の中でせめぎ合い、たいてい前者が勝利を収めてしまうのだが、どうやら今は何とかしのげそうだ。
しばらくは腕の中の温もりはピクリとも動かなくて、ようやく眠りに落ちてくれたらしいと、孝一がホッと小さく息をついた時だった。
真白が、身じろぎをする。
反射的に孝一が腕の力を緩めると、彼女が顔を上げた。
「シロ?」
眉をひそめて真白の顔を見返した孝一に、更に彼女が動く。
真白が何をしようとしているのか、彼には一瞬判らなかった――いや、判っていても、判らないふりをしたのかもしれない。
それは彼が望んでいたことだったから。
身体を伸ばし近づけてきた真白の唇が、孝一のそれと触れ合う。最初は、ふわりと。
けれど、孝一が動かずにいると、真白はもう少ししっかりと押し付けてきた。そして、閉じていた彼の唇の間に柔らかく湿ったものがおずおずと触れ、ためらいがちに探ってくる。
真白の方からこんなキスをしてくるのは、初めてだった。
以前、孝一のかつての恋人が現れた時、『嫉妬に駆られて』キスしてきたことはある。だが、あの時でも、ただ触れるだけが精いっぱいだった。
たちまち、孝一の反応してはいけない場所が反応し、ズキズキと疼きを訴え始める。
そっと身体をずらして真白の身体が触れないようにしたが、持ち上がった彼女の腕が孝一の首の後ろに回され、いっそう引き寄せられた。
孝一は思わず唇を開いて真白の舌を招き入れてしまう。
彼女のそれは孝一の歯列を越えるのがせいぜいのようで、彼の方から動かなければ舌先が触れ合う程度だ。にもかかわらず、かろうじてかすめるだけのその接触に、孝一の背中にはぞくぞくと震えが走る。
真白は、いつも孝一がそうしているように、舌を絡め、こすり合わせようとしているようだ。だが、実際には、仔猫がミルクを舐めるような動きにしかなっていない。
全く、色っぽさはない。
巧みさも、かけらもない。
しかし、真白から求めてきている、ということは、どんな淫猥な技巧よりも孝一の欲望を掻き立て、紙屑のように理性を吹き飛ばしてしまう。
もどかしい誘いに孝一が耐えていられたのは、せいぜい十秒というところだろう。
いつそうなったのかは判らないが、気付けば孝一の上にいた筈の真白を彼は身体全体でマットに押し付けていて、震える彼女の唇を貪るように奪っていた。
真白の狭い口腔の奥まで舌を挿し入れると、彼女が懸命に応えようとしてきてくれる。未だに不慣れなその動きにむしろ愛おしさを覚えながら、孝一は甘い潤いの中を隅々まで味わった。
そうしながら片手を真白の身体に沿って添わせ、腰の丸みを下って、内腿に辿り着く。
滑らかな肌をくすぐるように愛撫しながらまだ閉じていたそこをそっと開かせ、自分の膝をその間に置き――我に返った。
(違う、今日はこんなことしない筈だったろ!?)
パッと弾かれたように顔を上げ、孝一は深く息をつきながら、めくり上げかけていた彼女のTシャツの裾をバカ丁寧に元に戻した。無理矢理中断させた欲望に震えが押さえられない指先で。
「コウ?」
唐突に離れた孝一を、真白が頼りなげな眼差しで見上げてくる。その目に再び理性を揺さぶられながらも、彼は欲望で引きつる頬に何とか笑みを浮かべた。
「悪い。今日は疲れてるだろ?」
「コウ……わたし、疲れてなんかないよ」
そう言って、真白は孝一の頬に両手を伸ばしてくる。春になってもひんやりしている彼女の手は、いつもなら、彼が触れればすぐに温もってくる。だが、今は、それは冷たいままだった。
「けどな、シロ――」
なおも拒もうとする孝一の唇を、真白の細い指先が封じる。
「お願い。……して、欲しいの」
付け足された、小さな声での懇願。
その目も声も、欲望に駆られて、というものとは程遠かったが、確かに彼女は願っていた。
何が真白をおかしくさせているのか。
この行為に、真白は何を求めているのか。
孝一には何も判らないままだ。
本当は、先にそれをはっきりさせるべきなのかもしれない。
だが、真白から乞われてそれを退けることができるほど、孝一は聖人ではなかった。
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