捨て猫を拾った日

トウリン

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愛猫日記

彼のオイタと彼女のシット③

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 昼を少し回った頃だというのに、目当てのイタリアンレストランはそこそこの人の入りだった。
 若干の待ち時間の後、孝一こういち真白ましろはテーブルに通される。
 まだギリギリランチのコースが頼める時間で、孝一は肉料理のものを、真白はパスタのランチを注文した。

「あ、おいし……」
 パスタはカルボナーラで、一口食べた真白が頬を緩める。
「おんなじカルボナーラでも、お店によってちょっとずつ違うんだよね……ここのは何が入ってるんだろ」
「普通に味わったらいいだろうに。消化に悪くないか?」
 隠し味を探り出そうと首を捻りながら食べている彼女に、孝一は呆れた声を出す。
「ん、でも、ホントにおいしいよ? ほら」
 言うなり、真白がフォークに巻き付けたパスタを「はい」とばかりに彼に差し出してきた。拒む理由もなくそれを頬張り、肩をすくめる。
「まあ、確かに美味いことは美味いな」
「でしょ? うちでも作りたいなぁ。ううん、何だろう……」
 やっぱり首をかしげる真白に、孝一は苦笑する。

(まあ、楽しんでいるならそれでいいか)
 味の探求に熱中している彼女を眺めつつ、孝一は自分の料理を平らげた。

 ここにはもう何度も来たことがある。大抵の場合、連れもあった。今と状況はほとんど同じだというのに、目の前にいるのが真白だというだけで、いつもよりも遥かに美味く感じられるのは何故なのだろうか。

 ふと、真白の手がピタリと止まる。
「どうした?」
「そんなに見られてたら、食べにくい」
「ああ、悪い」
「コウって、ご飯の時にいつも人を見るよね。わたし、食べ方ヘン?」
 少し不安そうに真白が眉をひそめた。
「いや……」

『人』というより、『真白』を見ているのだが。彼女以外と食べている時は、ちゃんと食事そのものに集中する。
 三十年生きてきて食事は毎日繰り返してきたことだったが、それを楽しいと思うようになったのは、最近のことだ。
 ただ、栄養を補給する手段だとしか考えていなかったことが、こうやって真白と向き合っていると娯楽の一つになる。彼女が美味しそうに食べている姿を見ているだけで、不思議な満足感のようなもので孝一の中が満たされるのだ。

 孝一は、自分のそんな変化が奇妙に感じられて、唇の端で笑う。
 その笑みに、また真白がきまり悪げに身じろぎした。

「別に変じゃない。……ああ、でも今はちょっとソースが飛んでる」
 言いながらテーブル越しに手を伸ばし、親指で頬に付いているソースを拭ってやった。何気なくそれを舐め取ると、真白の顔がパッと赤くなる。
「何だよ?」
 片方の眉を上げて尋ねると、真白は慌てたようにかぶりを振った。
「別に」
 答えながら真白はクルクルとパスタをフォークで巻き取り、予想外に大きくなってしまったそれを解いて、また巻き直す。

 ためらいがちなその所作に、孝一は小さく笑いながら促した。
「お前が食べているところを見るのが好きなんだよ。いいから、気にせず食べろ」
「ん……」
 何となく孝一のことを気にしながらまた食べ始めた真白だったが、すぐに食べる方に夢中になった。
 その様子が微笑ましくて、また孝一の顔が緩んでしまう。

 やがて真白もメインを食べ終え、デザートが運ばれてくる。ウェイターは、真白の前にはチョコレートケーキを、孝一の前にはオレンジムースを置いていった。
「おい、これも食べろよ」
 言いながら、孝一は自分のムースを真白の方へ押しやる。
「え、食べないの?」
 すでに半分、チョコレートケーキを胃の中に収めた彼女が、スプーンを持つ手を止めて彼を見返してきた。それにコーヒーを一口飲んで答える。
「俺は甘いのはそんなに好きじゃない」
「ふうん?」
 美味しいのに、と言わんばかりの目を孝一に向けた真白は、あっという間にチョコレートケーキを食べ終えると、その隣に置かれたオレンジムースを見つめた。

「いらないのか?」
「……ん、食べる。ありがとう」
 そう言って真白は、ムースをひと匙すくって口に入れた瞬間、ふわりと唇をほころばせた。
 いかにも美味うまそうなその顔に、孝一はまるで自分がそれを食べているような心持ちになる。思わずつられて微笑んだ彼の肩に、不意にするりと何かが触れた。
 振り返ったのと、声がかけられたのとはほぼ同時のことだった。

「あら、デート?」
 艶っぽい、だが、どこか絡み付くような響きのある声だった。
 孝一の斜め後ろに立っているのは、一人の女性だ。すらりとした長身にメリハリのある身体。肩の少し下までの真っ直ぐな黒髪に、やや目尻の釣り上った気の強そうな目。
 彼はその女が誰であるかを認識し、微かに眉をしかめる。
貴利花きりか……」
 奥歯ですり潰すように、その名を呟いた。

 最後にその名前を口にしてから、多分少なくとも三年は経つ――はっきりと覚えていないことに、孝一は舌に残るコーヒーの味が苦みを増したような気がした。
「この席、いいかしら?」
 にこやかに問いかけながら、孝一の返事を待たずに彼の隣の椅子を引いて彼女が腰を下ろす。
「えっと、コウ……?」
 真白が孝一を見て、女を見て、また孝一を見る。「誰?」と目で問い掛けて来ていた。
「彼女は――会社の同僚だ」
 少なくとも、今は。
 歯切れ悪く答えた孝一は、胸の中でそう付け足した。

 彼女は香山貴利花――確かに同じ会社で働いている女性だ。そして、一時期付き合っていたことがある相手でもあった。
 ただし、一ヶ月ともたなかったが。
 それでも、バーでひっかけた女で一晩の性欲を満たすだけというのが常だった孝一にとっては希少な、『交際』をしていた女だった。

 付き合って欲しいと言ってきたのは、貴利花の方だった。特に断る理由も無かったから、孝一はそれを受け入れた。それに、同じ職場ならいろいろ手間が省けるだろうとも思ったから。
 だが、三日もしたら、『同じ職場である』ということはむしろ面倒が多いのだということに気付いてしまったのだ。

 退社時間を合わせることを要求され、他の女性社員と言葉を交わせばその内容を問い詰められ、休日に会わないと言えばその理由を訊かれる。
 あの当時の孝一には、ほんのわずかでも誰かに縛られることが、我慢ならなかったのだ。

「同僚、ねぇ?」
 孝一の言葉を繰り返し、貴利花が目を眇める。そうして真白を見遣ると、微笑んだ。どこか暗いものを含んだ眼差しで。
「この子は今付き合ってる子?」
「ああ」
 ためらうことなく頷いた孝一に、貴利花の口元が微かに引きつる。
「へえ……ずいぶん若くない? まだ子どもじゃないの」
 呟くように漏らし、彼女はテーブルに肘をついて固まっている真白の方へと身を乗り出した。

「ねえ、もう孝一とはセックスしたの?」
「おい――」
 遮ろうとした孝一に、貴利花は鋭い視線を向ける。
「何よ、あなたが女に求めるのはそれだけでしょ?」
 叩き付けられるようなその台詞を、彼は否定することができなかった。確かに、貴利花と付き合っていた頃の――いや、真白と出逢う前の彼は、彼女の言うとおりの行動を取っていたのだから。

 二の句を継げない孝一からまた真白へと目を移し、貴利花はニッコリと笑う。それは、決して心地良いものではなかった。
「この人、バックが好きでしょう? 後ろから、ベッドが壊れそうなほど、私の身体ががくがくするほど、激しくやるのが」
 あからさまな貴利花の言い方に、真白は戸惑ったように孝一を見る。
「香山」
「あら、何? 本当のことじゃない。いい? この人の前じゃ、喘ぎ声以外で口を開いちゃダメよ? うっとうしがられるから」
 貴利花の言葉は真白に向けたものだったが、強い光を帯びたその目は真っ直ぐに孝一に当てられていた。その光が何に由来するものなのか、彼には手に取るように判る。

 貴利花のこの言動は、真白に対する嫉妬ではない――孝一に対する怒りなのだ。

 彼女との別れは、キレイなものではなかった。

「面倒になった」
 あの時孝一は、貴利花にそう告げたのだ。
 彼女は孝一に「別れたくない」とすがり付き、彼はそれをにべもなく振り払った。
 かつての孝一は、傍にいたがる貴利花がうっとうしくてならなかったのだ。だが、今思えば、彼女の執着は決して過剰なものではなかった。

 好きな相手とは一緒に居たい。

 その気持ちを、孝一が全く解かっていなかっただけだった。
 多分、当時の貴利花が孝一に向けたものよりも、今の彼が真白に向ける執着心の方が何倍も強いだろう。
 だが、当時の孝一には誰かを好きになった時にどうなるかなど判っていなかったのだ。だから、貴利花の心中など、まったく斟酌しなかった。
 あの頃の貴利花の気持ちが、今の孝一にはよく理解できる。

「香山」
「何よ」
 貴利花が、キッと孝一を睨み付ける。何か言えるものなら言ってみなさいよ、と。
 その眼差しを受け止めて、孝一は静かに告げる。

「悪かった」

 途端、すとんと、貴利花の顔から表情が消え失せた。

 無言の彼女に、孝一はもう一度繰り返す。
 今さら謝ったところで、貴利花の傷は癒えないかもしれない。
 単に、孝一の良心を宥める為だけのものかもしれない。
 だが、口にせずにはいられなかった。
「あの時、あんなふうに突き放して、悪かったと思っている」

 心の底からの気持ちを込めたその台詞に、貴利花の顔がクシャリと歪んだ。

「何で、今更謝るのよ」
「あの頃は、お前の気持ちが解かっていなかった」
「今なら解かるっていうの?」
「ああ」
 孝一は頷く。貴利花は表情を消したまま、彼をヒタと見据えてきた。彼はその眼差しを真っ直ぐに受け止める。

 しばらくは無言だった。
 やがて、貴利花がポツリとこぼす。
「その子のせいで、解かるようになったってわけ?」
 彼女の言う『その子』が誰を指しているのか、確認せずとも判った。孝一は短く、深く頷く。
「そうだ」
 また、無言。
 店内を流れる静かなクラシックと他の客の会話が、BGMになる。

 やがて、貴利花が小さく息をついた。フッと孝一から目を逸らす。
「少し前から、見てたのよ」
「え?」
 孝一は眉をひそめる。彼女は、急に何かが抜け落ちてしまったかのように、うつむいた。
「あんなふうに抱き締めながら歩くだなんて、私の時には絶対にしなかった。しようとしても嫌がったわ。手もつなごうとしてくれなかった」
「……そうだな」
「あなたが笑うところも、見たことなかった。あんな眼差しで、あんなふうに、優しげに……」
「ああ」

 貴利花が孝一たちのことをいつから見ていたのかは、判らない。だが、真白を見る時は常に笑みを浮かべていたという自覚はある。そして、貴利花に対しては、わずかな微笑みすらも向けたことが無かったという自覚も。
 貴利花への謝罪は、彼女を好きになれなかったことや彼女を振ったことに対してのものではなく、誰かを想うということを知らないままに彼女の告白を受け入れたことに対してのものだった。

 貴利花が、顔を上げる。

「私、あなたを変えられると思っていたわ」
 少し首をかしげて、孝一を見た。
「何をしたら、あなたに好きになってもらえたのかしら。どうして、その子はあなたを変えることができたの?」
「……わからない。俺だって、気付かないうちに変わっていたんだ。いつの間にか、そうなっていた」
 彼には、他に答えようがなかった。
「そう――そうよね。私だって、何であなたなんて好きになっちゃったのか、わからなかったもの」

 しばらく、貴利花はテーブルの上の一点を見つめていた。
 そして、不意に立ち上がる。

「ごめんなさいね、邪魔して」
 そう声をかけたのは、真白に対してだった。それは、さっきまでの悪意に満ちたものではなく、穏やかに凪いだ声で。

 突然目を向けられて、真白はビクンと背を伸ばす。
「え、あ、いえ……」
 しどろもどろに答えた彼女に、貴利花は薄く微笑んだ。
 そうして踵を返すと、あとは振り返ることなく、真っ直ぐに背を伸ばして店を出て行った。

「……コウ?」
 おずおずと真白が孝一を見つめて名前を呼ぶ。孝一は苦笑に近い笑みを浮かべて彼女を見返した。それは、自嘲の笑みだった。

「帰るか」
「――うん」
 頷いた真白に、孝一は冷めたコーヒーを一息に飲み干してから、立ち上がる。

 差し出した手の上にためらいなくのせられた小さな手をしっかりと包み込み、それが彼の手の中にある喜びを噛み締めた。
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