捨て猫を拾った日

トウリン

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愛猫日記

彼と彼女と彼⑥

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 焦る気持ちで店を出た孝一こういちは、従業員の通用口があるだろうと思われる裏手へ回る。彼が建物の角を曲がろうとするのと扉が開く音がするのとは、ほぼ同時のことだった。
 孝一はとっさに足を止める。
 人の気配が、した。

「絶対、おかしいだろ」
 静かな中に響いた荒さを含んだ声は、五十嵐いがらしのものだ。
「普通、駅前で女子高生拾ってお持ち帰りするか? そんなの下心があるに決まってるじゃないか」
「違うよ、コウはあの時、そんなつもりはなかったもの。雪が降ってきたから――」
 咎めるような、真白ましろの声。
「まともな大人なら家に帰れと言うよ」
(まともな大人じゃなくて悪かったな)
 五十嵐の反論に、そうするつもりはなく立ち聞きすることになってしまった孝一は憮然としてぼやく。

 明らかに、話題は彼と真白が出会った時のことだ。どうやら彼女は、バカ正直にそのまま五十嵐に話したらしい。
 五十嵐が更に言いつのる。
「あの人、お前の婚約者とか言ってたけどホントにそんなつもりがあるのか? あんな……三十は越えてるだろ? オッサンじゃないか。第一、見るからにモテそうだろ? すぐに他の人に――」
 流石に、それ以上は黙って聞いているわけにはいかなかった。孝一は足を踏み出しかけて――直後に響いた穏やかな、けれどもはっきりとした声に、止まる。

「それでもいいの」

「え?」

「コウが他の誰かを好きになっても、わたしがコウを好きなことは、変えられないもの。わたしはずっとコウが好きで、多分わたしには――ずっとコウだけなの」
 そこにあるのは、憤慨でも諦めでもない。真白は、ただ、淡々と事実だけを口にしているだけのような言い方だった。
「何で、そんなに……まだ出会ってから何ヶ月も経ってないじゃないか」
 呻くような五十嵐の声には、目に見えそうなほどの悔しさが含まれている。対する真白の声は、静かなものだった。
「時間は関係ないよ。きっと、コウが最初にわたしに手を差し出してくれた時から、もう決まってたの」
「そこに、他の男が入る余地はないのか?」
「ないよ。『わたし』を見つけて、好きだって言ってくれたのはコウだけだったから、わたしには、コウだけなの。わたしの中は、コウだけでいっぱいなの」

 孝一の胸の中は、真白が未だに彼の想いが不変であることを信じてくれていないという憤りと、彼女がただひたすら彼のことだけを想ってくれているという喜びがない交ぜになった。あまりに強烈な二つの気持ちで指一本動かせずにいる孝一をよそに、二人の会話は続く。

 孝一が望まぬ方向へと。

「そんなの……オレの方が先だった」
 囁きに近い五十嵐のその言葉に、真白が返したのは戸惑ったような声だ。
「え?」
 次の瞬間、堰を切ったように五十嵐の想いがぶちまけられた。
「オレは、大月のことを一年の時から好きだったんだ! 大月はオレのことなんか全然目に入ってなかったかもしれないけど、オレは君のことを見てた。だけど、近寄りがたくて……三年でまた同じクラスになった時、今後こそ告ろうって、心に決めてた。でも、大月の周りには、いつも『壁』があったから……」
 最後は、尻すぼみに小さくなっていく。五十嵐が唇を噛んで佇んでいる姿が、孝一の脳裏に浮かんだ。
 五十嵐の告白を苦々しく思う反面、孝一には彼の気持ちがよく理解できた。
 孝一も、もう少し控えめで自信がなく理性が勝っていれば、真白に手を出すことができずに、今頃やきもきしていたかもしれない。
 だが、孝一は動いたのだ。

(結局何もしなかったお前が悪いんだ)
 彼は胸の中で五十嵐にそう告げる。
 孝一は、真白を望み、触れ――奪った。
 だから、彼女を手に入れられた。
 真白の気持ちを考えず、真白に考える余地を与えず、ただ孝一の欲望のままに突っ走った結果だが、そうしたからこそ、今、真白は孝一のものになっているのだ。
 そして、一たび手に入れたからには、けっして手放さない。たとえ、より彼女に相応しいだろう男が現れたとしても。

 突然の五十嵐の告白の後、沈黙が続く。
 やがてそれを破ったのは、真白の方だった。

「わたしが好きなのは、コウなの……わたしは、コウが大事で、大好きなの。コウといると、それだけで、コウといるだけで、幸せな気持ちになれるの」
 不器用な真白の言葉は、だから五十嵐の想いは受け取れないと伝えたいのだろう。

 明々白々な拒絶に、彼はどう反応するのか。

 諦めか――逆上か。

 孝一は、無理だろうなと思いつつ、五十嵐がすんなりと諦めてくれることを祈った。彼の為にも、五十嵐の為にも。
 しかし、彼のそんな願いは届かず、果たして、五十嵐の取った行動は、後者だった。
「クソッ」

 唸るような声。
 そして。

「きゃっ!」

 小さな悲鳴。

 建物の陰から飛び出した孝一は、そこに五十嵐の背中と彼に抱きすくめられてもがく真白の姿を見る。何かを考える余裕もなく数歩で二人に近寄り、五十嵐の腕を掴んだ。
「!」
 突然の孝一の登場に、振り返りかけた五十嵐の力が緩む。その隙を突いて、彼の腕を背中へと捻り上げた。
「ィタッ」
 呻いて、孝一の力を逃そうと身を屈めた五十嵐から解放されて、彼の陰から真白が走り出る。
「コウ!」
 彼女の目にあるのは、安堵の色だ。

 すぐに五十嵐の手を放すと、孝一は駆け寄ってきた真白を抱き締める。真白の首筋と腰に手を置いて彼の胸に押し付けると、助けを求める仔猫のように、彼女はそこにすがり付いてきた。
 多分、五十嵐の行動よりも言葉に動揺しているのだろう。真白の身体は小刻みに震えていて、孝一は少し頭を下げて彼女のこめかみにそっと口付けた。
 震えが、少し治まる。
 孝一は彼女の背中を撫でてから、地面に座り込んだ五十嵐に目をやった。

 全身を孝一に委ねているような真白の姿に、彼は呆然とした眼差しを向けている。多分、こんなふうに感情をあらわにし、誰かに触れる彼女を、目にしたことがなかったに違いない。
「悪いな」
 見せ付けんばかりに真白を抱き締めながらも、孝一は思わずそう声をかけていた。
 真白に触れた五十嵐に腹を立ててはいるが、同時に、気の毒だとも思う。

(もしも真白が俺と出会うよりも前にこいつが勇気を振り絞って告白していたら、今頃どうなっていただろう?)
 きっと、五十嵐は真白を大事にしただろう。
 もしかすると、孝一よりも遥かに、『正しい』形で。
 孝一は、せっかく生えかけた真白の翼をもいでしまいかねない。そうしてはならないと判ってはいても、やってしまいそうになる。
 五十嵐なら、そんなことをせずに、もっと対等に真白を慈しめるのかもしれない。

 真白に回した孝一の腕に、無意識のうちに力がこもる。
(だからと言って、こいつに譲ってやれるわけじゃない)
 立ち上がって目線が同じになった五十嵐を見据え、胸中で断じた。
「シロ、帰るぞ」
「あ、うん……」
 腕を解き、代わりに真白の手を取った孝一に頷くと、彼女は五十嵐を見上げた。
「五十嵐君……わたし……」
 真白の言葉は続かない。
 こんな時でも目を逸らさず真っ直ぐに五十嵐を見つめている真白に、彼は小さな息をつく。辛うじて笑みと呼べるものを浮かべて、かぶりを振った。

「ごめんな、急に変なこと言って」
「ううん……」
「オレが言ったことは、気にしないで欲しい。バイトも辞めないでくれよ?」
「――うん、辞めない」
 頷く真白に、五十嵐の顔がホッとしたように緩む。そして、また真面目な面持ちになった。
「だけど、オレが君を好きだってことは、無かったことにはして欲しくない」
 きっぱりとそう言った彼は、チラリと孝一に目を走らせた。一瞬だけ二人の視線が交錯し、その一瞬で、孝一は彼がまだ諦めるつもりはないのだということを悟る。
 その瞬間、五十嵐に対して抱いていた同情心は消え失せた。

(この野郎……)
 気遣いのある好青年のように見えて、意外にそうでもないのかもしれない。

 孝一は目を細めて彼を見据える。その視線に気付いて、五十嵐も怯むことなく彼を見返してきた。
 頭上で交わされた男二人の無言の戦いには気付かず、真白は孝一の手を握っている指先に力を込める。
「五十嵐君……でも……」
 反駁はんばくしかけた真白に先んじて、孝一から彼女へと目を戻した五十嵐が、一転して柔らかな微笑みを浮かべた。
「君だって、さっき言ったじゃないか。その人が他の人を好きになっても、君はその人を好きでいることを止められないって。オレも同じだよ」
 その台詞の裏には、孝一に対する挑戦も多分に含まれているのだろう。
 実に、忌々しい男だ。

「真白、行くぞ」
 彼女に応じさせる暇は与えず、孝一はグイと手を引っ張って歩き出した。つられて足を踏み出しながら、真白は肩越しに振り返る。
「五十嵐君、また明日!」

 明日なんかあるものか。
 そう言ってしまいそうになるのを堪えて、代わりに、孝一は彼女の手を握る手に力を込めた。
 家に着くまでの道中は二人とも終始無言だった。時折チラチラと真白の視線を横顔に感じたが、孝一は敢えて無視する。彼女と目を合わせてしまったら、公衆の面前にも拘らず自分がどんな行動を取ってしまうか、判りきっていたから。
 ただ、真白の手をきつく握り締めたまま、黙々と家路を急いだ。

 ようやくマンションに辿り着き、孝一は鍵を取り出して扉を開ける。
 二人が中に入り、孝一がカギを閉めると、おずおずと真白が口を開いた。
「あの、ね、コウ……」
 振り向きざま、孝一は彼女を攫うように抱き上げ、その声を封じる。
「ん、ふぁ……」
 重ね合わせた唇の隙間から洩れる微かな喘ぎが、一層孝一を駆り立てた。

 真白の口中を隈なく探る深いキスをしながら片手で彼女の靴を脱がせ、自分も蹴るようにして靴を脱ぎ去る。
 寝室に到着するまで息を継ぐ間もろくに与えず、彼女の唇をむさぼり続けた。

「ぁ……コウ、もぅ……」
 息も絶え絶えの真白の訴えも、聞こえないふりをする。彼女のわずかな吐息も奪うように、孝一はキスを続けた。
 どんなに苦しくても彼を拒もうとはしない真白が愛おしくて、苦しくさせているのが判っているのに、止められない。
 真白は息苦しさから彼のシャツを握り締めているだけなのに、その震えている小さな手が彼を求めていると錯覚してしまいそうなる。

 ベッドに横たえた真白に覆い被さり、荒い息をつきながらようやく真白を解放した孝一は、彼女と額を触れ合わせた。
「お前は、俺をおかしくさせるよ」
「コ……ウ……」
 多分、いや、きっと、真白はバイトを続ける。これからも、あの五十嵐としょっちゅう顔を合わせるのだ。あるいは、彼以外の誰かと言葉を交わし、触れ合って、心を通い合わせるようになるかもしれない。

「もしもお前を失ったらと、考えるだけで死にそうだ」
 呻くように、そう呟く。
 吐き出された孝一の本音に、真白からは、何の言葉も返されなかった。
 ただ、黙って彼の下でもそもそと身動きする。

 孝一の身体に押し潰された彼女の両手が出てきたかと思うと、それが彼の頬をそっと包んだ。ひんやりと冷たい指先が、羽のように触れてくる。
「真白」
 思わず名前をこぼした孝一の口は、柔らかで温かな彼女の唇で、封じられた。
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