捨て猫を拾った日

トウリン

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愛猫日記

彼と彼女と彼⑤

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「あれ、コウ?」
 問題の金曜日、自動ドアをくぐって店内に足を踏み入れた孝一こういちに、出迎えた真白ましろは浮かべかけた笑顔を消し去ってキョトンと彼を見つめてきた。
 ファミレスの制服姿の彼女を、孝一はしげしげと見つめる。

(ちょっとスカートが短くないか?)
 ここは今までに何度も出入りしたことのある店で、そのユニフォームも目にしてきた。何とも思ったことのなかったその服だが、真白の膝が見えているとやけに気に障った。

「コウ、どうしたの?」
 覗き込んできた彼女が問うているのは、彼がこの場所にいることについてか、それとも眉間に皺を寄せていることについてなのか。
 孝一は前者に対しての答えだけを返す。
「もうすぐ終わる時間だろう? 間に合いそうだったから寄ってみた。何か飲んでいるから、一緒に帰ろう」
「あ、うん」
 頷いた真白が、パッと笑顔になる。
「じゃあ……お席へご案内します。こちらへどうぞ」
 そう言いながら歩き出した彼女に続き、孝一は店内を行く。金曜日の夕方ともなると、結構客は入っていた。

「こちらのお席になります。ご注文がお決まりでしたら――」
「ホットコーヒーでいいよ」
 このファミレスはカフェが前身なので、コーヒーの類《たぐい》が結構美味いのだ。
 決まり文句を邪魔された真白は一瞬唇を尖らせたが、すぐに澄ました顔になる。
「承知いたしました」
 どこまでもマニュアル通りにしたいのか、彼女はペコリと頭を下げてその場から離れようとした。が、踵を返すと同時に、隣の席から声がかかる。

「あ、ちょっとちょっと、こいつにデザートと、俺にコーヒー持ってきて欲しいんだけど。食後にって言ってあったんだけどさ」
 その席にいるのは、十代後半の男女だ。いかにも軽そうな男は、えらそうにふんぞり返っている。
 男のその態度に孝一の胸の中には苛立ちが湧き起ったが、彼が口を出すわけにはいかない。やきもきしながら横目で様子を窺っていると、真白はさして困ったふうもなく彼に向き直った。
「承知いたしました。お持ちいたします」
 真白は先ほど孝一に告げたのと同じセリフを口にする。彼女のごく自然な対応に、孝一は拍子抜けした。その時の気持ちは、もしかすると、落胆に近いかもしれない。

 別に、真白が失敗する姿を見たかったわけではない――と思う。
 ただ、如才なく仕事をこなしている真白を目の当たりにすると、まるで孝一の存在は彼女にとって必須のものではないような気がしたのだ。

(俺が思っているほど――そうであって欲しいと思っているほど、あいつにとって俺は特別な存在ではないんだろうな)
 自嘲が混じった笑みを口元に刻みながら、孝一は真白を見やる。
 だが、続いて浮かんだ真白の笑顔に、彼はおや、と思った。何となく違和感を覚えたからだ。
 最近の真白は、孝一の前で良く笑う。彼女の笑顔なんて、見慣れている。
 首をかしげ、そして気付いた。

(ああ、そうか)
 気付いた途端、彼の口元は緩んでしまった。

 同じマニュアル通りに動いていても、笑顔は、違うのだ。孝一に向けるものと他の客に向けるものとでは、全然違っていた。それに気付いた瞬間、彼の胸の中がふわりと温かなもので満たされる。
 我ながら、バカみたいだと思う。
 こんなふうに、彼女についてのことで上がったり下がったりするのは。
 厨房へと戻っていく真白の背中を見送りながら、自分が彼女から受ける影響の何分の一かでも、自分は彼女に影響を及ぼせているのだろうかと孝一は考えてしまう。
 真白は孝一のことを好きだと言ってはくれるが、どうしてもその言葉では安心できない自分がいることを彼は自覚していた。だから、彼女のことを、もっと強く自分に縛り付けておきたいのだ。
 ――これから先、彼女の前に他にどんな者が現れても、よそ見などできないように。

 以前に、最も端的なその方法を実行しようとしたのだが。
「あいつ、アレのサイン、まさか忘れてるんじゃないだろうな……」
 保留になったままの婚姻届が脳裏に浮かび、孝一はぼやいた。彼女がいつまでもサインをすると言い出さないのは、何故なのだろうと思いながら。
 手持無沙汰で孝一は店内を見渡す。
 この時間、客は社会人よりもやや年齢層が低いようだ。雰囲気も騒々しい。

(何でわざわざこんな所で働きたいと思うんだろうな)
 真白のことは充分に養ってやれるし、養わせて欲しいのに。
 頬杖をついてそんなふうにぼやく孝一の元に、トレイを手にして真白が戻ってくる。

「お待たせいたしました」
 言いながら、ニコッと笑う。やっぱりそれは、先ほど隣の席の男に向けたものとは違っていた。
 カップを孝一の前に置きながら、彼を見た真白が不思議そうな顔になる。
「コウ、そんなにここのコーヒーが好きだった?」
「いや、別に」
「でも、何だか嬉しそう」
「そうか?」
 孝一はそう受け流し、コーヒーを一口すすった。
 と、不意に真白が小さな声をあげる。
「五十嵐君だ」
「え?」
 その名前には、イヤというほど覚えがある。思わず真白が向いている方に目が走った。

 二人の視線が注がれた先にいるのは、スラリとした身体つきで遠目にも整った顔立ちが見て取れる青年で――いかにも、モテそうだ。
 彼の方も真白に気付いたらしく、片手を上げると近寄ってきた。
「五十嵐君」
「まだいたんだ」
 一応、周囲の目を気にしているのか、声をひそめてそう真白に訊いてくる。どことなく嬉しそうに聞こえるのは、孝一の穿ち過ぎだろうか。

 彼の前で、真白が首をかしげる。
「今日は七時からじゃなかったの?」
「ああ、仕事始まる前に何か食っとこうかと思って。……でも、結構お客さん多いな。一人で席を埋めるのも悪いし、奥で食べるか」
 五十嵐は、店内を見渡しながらそう呟いた。
「何なら、そこに座るかい?」
 少しばかり彼と話しておきたいと思った孝一は、渡りに船とばかりにトントンと自分の前の席を指先で叩く。
「え?」
 目を丸くして見下ろしてきた五十嵐に、彼は肩をすくめてみせた。
「俺は真白を迎えに来ただけだから、もうじきどくよ。丸々一人で占拠するわけでなければ、多少申し訳なさもマシだろう?」
「真白の……って、大月さん?」
 戸惑ったような眼差しが、孝一と真白の間を行ったり来たりした。
「取り敢えず、座って注文したらどうだ? 時間がないんだろう?」
「え……あ……はい……じゃあ、大月さん、オレ、日替わり和食定食で」
 混乱した五十嵐は孝一に言われるままに席に腰を下ろすと、メニューも見ずに真白に注文を告げた。
「あ、うん――と、すぐにお持ちいたします」
 ニコッと笑顔を作った真白に、五十嵐の頬が心持ち赤くなる。

(やっぱり、こいつ……)
 彼が真白に抱いている気持ちは、今の反応で一目瞭然だ。孝一はわずかに目を細めてまだ少年らしさを残したその面立ちを見遣り、そして営業で鍛えた愛想のいい笑みを浮かべた。
「うちの真白が世話になってるようだね」
「いや、世話なんて――」
 五十嵐は口ごもる。そうして、おずおずと窺うような眼差しを向けてきた。
「あの……大月さんとは……」
「ああ、一緒に暮らしているんだ」
 サラッと、答える。五十嵐は一瞬目を見開いたが、意外に立ち直りが早く、すぐに取り繕ったような笑みを浮かべてきた。
「あ、親戚の方とか、ですか?」
 彼の笑顔が引きつっているところを見ると、真白に親戚などいないことを充分に承知しているのだろう。
「いや、血縁関係はないよ。婚約してるんだ」
 にっこり笑ってそう言うと、目の前の青年はピシッと音を立てんばかりに固まった。

 実際にはプロポーズの返事をまだもらっていないが、孝一の方には彼女を手放す気はさらさらない。時間さえかければ現実になるはずだから、大きな偽りではないだろう。
「彼女、いつも指輪を……形見か何かじゃ……」
「ああ、誕生石の奴だろう? 婚約指輪の代わりだ。ちゃんとしたのも渡したけど失くすのが怖いというから手軽につけられるのも贈ったんだ」
 孝一が頷いた時点で、五十嵐の耳には残りの台詞が入らなくなったようだった。
「あの、オレ、ちょっとトイレに……」
 そう呟いた五十嵐は、ふらりと席を立った。その場を離れる彼の肩は力なく落ちている。

(ショックが大き過ぎたか?)
 恐らく、真白と想いが通じ合うかもしれないという多少の望みは抱いていたのだろう。だが、それも孝一の台詞で打ち砕かれてしまったに違いない。
(大人げないよな)
 自嘲の笑みと共に、孝一は胸の中でそう呟く。
 孝一にも、真白が孝一を大事に想っているということは判っている。彼女には、彼しかいないという事が。
 だが、それは、今まで真白に手を差し伸べたのが彼だけだったからだということも、いやというほど、判っていた。

(あいつは、他の人間を知らない)
 真白のことを知れば知るほど、彼女の世界がいかに閉ざされたものだったかが解かってくる。彼女の殻にひびを入れ、その中に押し入ったのは、まだ孝一しかいないのだ。
 もしも他に近寄って来る者が出てきたら、真白はそいつに想いを向けてしまうかもしれない。
 そうなる前にその芽を摘もうというのは――彼女にとっての可能性を彼女も気付かずうちに潰してしまうのは、卑怯だ。
 だが、真白が多くの人と出会い、孝一よりもよほど素晴らしい人間がいることに気付いてしまうのが、彼は怖かった。

(五十嵐は、いい奴なのだろう)
 見るからに優しげで、明るそうで、きっと高校時代はモテていたに違いない――孝一とは真逆の方向で。
 ああいう男と結ばれた方が、真白は幸せになるのかもしれない。
 孝一は呻いて前髪をクシャリと握りつぶした。
「だからと言って、手放せるわけがないだろう?」
 答えが決まりきっている自問は、テーブルの上にこぼれて消える。

 と。

「あの、スミマセン、お客様……」
 降ってきた声に、孝一は顔を上げた。そこに立っていたのは、真白ではない、他のウェートレスだ。少し困ったような顔をしている。彼女が手にしているトレイの上には、米飯や味噌汁、焼き魚――いかにも和風、という品々が載せられている。
「ああ、もしかして五十嵐君の料理かい?」
 孝一が口にした名前に、彼女がホッとしたように表情を緩めた。
「あ、はい」
「彼ならトイレに――」
 言いかけて、孝一は止まった。そう言えば、彼が姿を消してからそこそこ時間が経っている気がする。
「ああ、彼の席は間違いなくここだから、置いていっていいと思うよ」
 上の空でそう答えて時計を見ると、真白が仕事を上がる筈の時間も、そろそろ二十分ほど過ぎようとしていた。

 真白も来ない。
 五十嵐も来ない。
 となれば。

 嫌な予感がして、孝一は音を立てて勢いよく立ち上がる。そうして伝票を掴むとレジへと急いだ。
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