捨て猫を拾った日

トウリン

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捨て猫が懐いた日

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「ただいま」

 音をたてないように玄関の扉を開け、足音を忍ばせて廊下を進んだ孝一こういちは、声をかけながら鍋の中身をかき回している真白ましろの後ろに歩み寄る。彼の声で彼女が振り向くより先に、一つにくくられた髪を指先でよけながらそのうなじにそっと口付けた。
 もうじき二月になろうとしている外から戻ったばかりの唇は温もった真白の肌には冷たかったようで、彼女はくすぐったそうに首を竦め、振り返る。

「おかえりなさい」
 真白の肩越しに覗き込んだ鍋の中身はシチューのようだ。彼女が作るようになるまで、彼は市販のルーが無くてもシチューができるのだということを知らなかった。

「うまそうだな」
 鍋から漂う匂いを吸い込み、孝一は呟く。そんな彼に、真白は手を止めることなく答えた。
「もう少し、煮込んだ方がいいんだけど……作ろうとしたらバターが少し足りなくて買いに行ったから、ちょっと遅くなったの」
「へえ……」
 相槌を打ちながら、孝一は真白のウェストに手を回した。脇腹に触れると、彼女がビクリとする。鍋の中をかき回すお玉を持つ手も同じように跳ねて、真白はキッと孝一を睨み付けてきた。

「コウ! お料理中は危ないから、触ったらダメ!」
 さながら子どもを叱る母親のような口ぶりに、孝一はニヤリと笑って肩を竦める。
「わかったよ」
 そう答えつつ彼女のこめかみにキスを一つ残し、リビングに向かった。どさりとソファに身体を落とし、テレビを点けながら見るともなしにカウンターの向こうにいる真白に目を向ける。

 両の目から涙を溢れさせた彼女を抱き締めたあの夜から、三日が過ぎた。孝一にとって、それはけっして短い時間ではない。その三日間、まだ一度も真白を抱いていないのだ。
 禁欲生活に突入して、かれこれ十日は経つだろう。こんなふうに自分に我慢を強いるのは、生まれて初めてだ。
 彼女の奥深くに身を沈めることを考えると頭がおかしくなりそうなほどの欲求不満に陥りそうになるが、それでも最後のラインは越えていない。

 今度そうするのは、真白の方から孝一を求めてきた時だと、彼は決めていた。
 今のように触れはする。むしろ以前よりも接触自体は多いかもしれない。
 触れることもしなければ、また真白が何か勘違いをするかも知れないし、何より孝一自身が彼女に触れずにはいられないからだ。

 孝一はソファの背に寄りかかり、瞼を閉じる。
(今、真白の中ではどのくらい事態が進展しているのだろう?)

 多少は、前に進んでいるのだろうか。
 それとも、現状に満足して停滞してしまっているのだろうか。

 外見からは判らなかったが、孝一にはもう待つよりほかにできることはないのだ。捨て猫を懐かせるには、辛抱強く怯えや不信が消えるのを待つしかない。
 それには時間をかけるしかなかった。

 真白が不安定になったのは、十日前に彼女を施設に連れて行ってからだ。
 それまでは徐々に孝一との距離は近付いていたように思えていたのが、あの日からそれ以前よりも分厚い壁が二人の間に築かれてしまった。

(あいつをあそこに連れていかない方が良かったのか?)
 それは何度も繰り返した自問だが、答えはいつも決まっていた。
 ――『否』だ。
 今の真白を支配しているのは、過去の出来事だ。
 ちゃんとそれと向き合わなければ、本当の真白に触れることはできない。
 一度は傷を切り開いて、中に溜まっているものを全て掻き出す必要があったのだ。
 不意に聞こえたコトリという音に、孝一は再び目を開ける。見ればテーブルの上にサラダとパンが置かれていた。

「パンにね、チーズを入れてみたの」
 小首をかしげて真白が言う。
 思い付きで孝一が買ってきたホームベーカリーを彼女はいたく気に入ったようで、毎日のように焼き立てのパンが食卓にあがるようになった。
 真白はパンに手を伸ばした孝一にクルリと背を向けると、今度はシチューを運んでくる。
「ホントは、もう少し煮込んでおきたかったんだけど……」
 どことなく残念そうな真白の前で、孝一はシチューをすくって口に運んだ。
「充分美味いけどな?」
 お世辞抜きでそう答えると、真白の顔がパッと輝いた。そうして孝一の隣に座り、スプーンを手に取る。

 カチャカチャと、二人分の、食器が立てる音。
 平和だ。平和で穏やかな、日常だ。
 こんなふうに何気ない日々をいつまでも続けていきたいと、孝一は思う。そのシーンに、真白は不可欠だった。
 やがて食事は終わり、ベッドに入る時間がやってくる。
 真白は、もう孝一に運ばれることはなく、自分の意思で彼の隣に横たわるようになっていた。彼の胸の中に引き寄せる力にも抗うことはない。
 風呂から上がって寝室に入り、孝一は自分のベッドで丸くなっている真白の姿に、一瞬立ち止まった。毎晩目にしているというのに、見る度いつも、彼の胸は温かな手で握られたように締め付けられる。

 真白の隣に滑り込み、彼女のウェストに腕を回して引き寄せる。しなやかで温かな真白の身体はいつものようにすっぽりと彼の腕の中に納まった。鼻孔をくすぐる彼女の髪の香りに引きずられて、孝一はそれに口付ける。真白の髪は柔らかくて心地良い。
 ――あまり意識を向けると、洒落にならない事態に陥ってしまう。
 孝一は小さく息を漏らし、身じろぎをして真白を抱き締め直した。
 じきに彼女はいつものように寝息を立て始める。そうすれば、孝一も眠れるようになる――筈だったのだが。

「……シロ?」
 何やら視線を感じて胸元を見れば、暗がりの中で煌めく真白の目が彼に向けられていた。思い詰めたようなその眼差しは、孝一だけを捉えている。
「何だ? 早く寝ろよ」
 あまりに真っ直ぐ見つめられたら、理性が揺らぐ。後ろ頭を押さえて胸に押し付けようとしたが、思わぬ抵抗にあった。
「真白?」
 孝一の腕から逃れて、真白がベッドの上に座り込む。孝一はベッドサイドのランプを点けて、怪訝な顔で彼女を見た。
「どうしたんだ?」
 彼の問いかけにも、真白はキュッと唇を引き結んでいる。
「真白? 早く寝ろよ」
 引き寄せようとした孝一の手から、彼女はわずかに遠ざかる。

 何かが変だと流石に眉をひそめ、孝一は真白と同じく起き上がった。
「何か、あったのか?」
 低い声で重ねて尋ねる。彼女が口を閉ざしていることは良い予兆なのか、その逆なのか。
 ベッドに入るまでは、とても穏やかで心地良い雰囲気が漂っていたのだ。
 ――良い予兆なのだと、思いたい。
 孝一は切実にそれを願いながら、真白が口を開くのをジッと待つ。
 どれほどの時間が過ぎた頃か。
 やがて、真白の唇が動いた。

「わたし、ずっと考えていたの。わたしがどうしたいのか」
 囁くような、声。彼女は小さな舌で唇を湿らし、続ける。
「あのね、あの……わたし、コウの事を信じたいと思うの。信じさせてほしいの」
 信じろ、と言ってしまいたかった。そんなことはもう疑う余地はないのだ、孝一の方こそ、彼女に信じて欲しいと心の底から願っているのだと。
 だが彼は、グッとその言葉を喉の奥に呑み込み堪える。真白に触れたいと疼く両手は、硬く握り締めて抑え込んだ。
 孝一の台詞に頷かせるのではない。彼女の言葉ではっきりと言わせなければならないのだ。
 また、沈黙。アナログ時計の秒針が動く音が、やけに大きく聞こえた。そこに、真白が息を吸い込む音が加わる。

「わたし……ごめんね、わたし、ズルい事言うよ」
「ズルい、事?」
 どういうことかと繰り返した孝一に、真白が頷く。
「うん。……ごめんね。これを言ったら、コウはわたしから逃げられなくなると思うの」
「はなから逃げる気がないんだから、いいんだよ」
 今の言葉だけでも、充分だった。苦しそうに目を伏せた真白を、孝一は抱き寄せたくてたまらなくなる。それをこらえるのには、半端ではない自制心をかき集めなければならなかった。固めた拳に、手のひらに爪が食い込む。

(早く、全てをぶちまけてしまってくれ)
 そうすれば、躊躇うことなく抱き締められる。
 急く孝一の前で真白は二、三度小さな深呼吸を繰り返し、そして目を上げた。真っ直ぐな眼差しを彼に注ぎ、揺らぎのない、はっきりとした声で語り出す。

「わたし、コウにいらないって言われたら、もう生きていかれないかもしれない。コウが好き、大好きなの。離れたくないの。コウが欲しいの。コウとずっと一緒にいたいの」
 最後は、わずかに声が詰まった。
 ぱたり、ぱたりと、透明な滴が真白の頬を転がり落ちてシーツに丸い染みを付けていく。瞬きひとつしない彼女の目から、涙は次々零れ落ちた。

「多分、コウに初めて会った時から――コウに拾ってもらえた時から、ずっとそう願っていたんだと思う。うれしかったの。あの時、とってもうれしかったの。今、わたしは幸せなの。全部失ったらって思うと、怖いよ……怖くてたまらないんだけど、やっぱり幸せなの」

 真白が、濡れた頬で微笑む。
 その瞬間、孝一の自制心は底を突いた。

 両手を伸ばして真白の肩を掴み、引き寄せる。きつく抱き締めると、彼女もおずおずと腕を伸ばしてしがみついてきた。背中に感じる儚い力に、孝一の腕には更に力がこもる。
 真白が孝一に縋り付いてくるのも、想いを吐露するのも、いつも我を失った時ばかりだった。今は、違う。今、真白はそれを自覚して彼を欲しいと言い、彼の背中に腕を回している。

 愛おしさに、おかしくなりそうだった。

 身体を離すことができなくて、孝一は抱き締めたままで届くところにいくつもキスをする。
「俺の気持ちは、もう何度も言っただろう? 俺は絶対にお前を手放さない。不安になったら言え。何度でも、同じことを繰り返してやる。お前の中に滲み込むまで――お前の中の不安が全て消え去るまで、何度でも言ってやるよ。俺はお前の傍にいる。絶対に離れないし、放さない――たとえお前が放してくれと言ったとしても」
 こめかみと、耳と、首筋と、頭の天辺と。
 唇を押し付けては次の場所へ移る。
 次第にキスだけでは物足りなくなってきたが、しがみ付いてくる真白の腕の感触が実際の力以上に彼の胸を締め付けて、どうしてもそれを解くことができない。

 二進も三進もいかない孝一の胸元で、不意に、固まっていた真白が動いた。と、彼の喉元に温かなものが触れる。
 温かくて、柔らかくて、濡れた感触。

(キス、と言うよりも、舐められている……?)
 その感触と考えに、孝一の腰がゾワゾワと鳥肌立った。
(クソ、いつの間にこんなワザを……)
 腰が砕けそうな快感に、彼はみるみるうちに自分の身体が硬くなっていくのが判った。真白もそれを察したのか、動きがピタリと止まる。

 孝一は低く呻くと、真白の身体をクルリと回し、ベッドに押し付けた。
「俺は散々お預け喰らってんだぞ? そんなふうに煽ったらどんなことになるのか、判ってんのか?」
 そう言って、頭を下げて彼女の唇を奪う。抗うことなく開いたそこに舌を挿し入れ、柔らかな口内を隅々まで味わった。甘い唾液ごと真白の小さな舌をすすり上げると、彼女の全身が小刻みに震える。
「ふ……ん、んん」
 喉を鳴らしながら背を反らした真白の耳朶を食み、拍動に沿って首筋を唇で辿っていく。
「ぁ……っ」
 跡が残るほどに強く鎖骨の上を吸い上げると、彼女の口から小さな声が漏れた。
 目を上げて真白の顔を見遣ると、いつもは白い頬は紅潮し、眼差しは熱を含んで潤んでいる。

「お前を抱きたい……いいか?」
 そう問うた孝一の声は上ずり、掠れていた。みっともないほどがっついてるという自覚はある。ダメだと言われても、彼には自分を抑えられる自信がなかった。
 火照った真白の頬を両手で包み込み、間近で覗き込む。

 早く許可をくれよ。
 そう言いたくなるのを押さえ込み、待った。

 全てを焼き尽くすような孝一の視線を受け、真白の頬は更に赤みを増す。そうして、小さく頷いた。

「うん……わたしも、コウが欲しい。コウが、欲しいの」

 甘い声に、孝一の頭がクラリと揺れる。理性など、一瞬にして根こそぎ持っていかれる。
 孝一はためらうことなく欲望の渦の中へ身を躍らせた。
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