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捨て猫が懐いた日
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ソファの前に立った孝一を、真白は毛布に包まったままで見上げる。彼は無言で手を伸ばしてくると、そのまま無言で彼女を抱き上げた。
彼女の荷物を養護施設に取りに行ったあの日、ソファで寝たいと言った真白を孝一は三晩自由にさせてくれた。けれど、彼が眠る寝室に真白の方から近付いたあの夜以来、彼女がこうやってソファで寝ようとしても必ずベッドに連れて行くようになったのだ。
有無を言わさずベッドに連行されるようになってから、三日間。
その三日間、真白がソファに戻ろうとすると気を失うまで彼の指と舌とで攻め立てられて、結局カーテンの隙間から射す朝の光で目を覚ますのを繰り返した。
四晩めになると流石に諦めの境地になって、真白は運ばれるまま孝一の腕の中で丸まっていた。
寝室に着くと彼女はベッドに下ろされ、すぐに孝一も隣に滑り込んでくる。後ろから抱き締められて、真白は背中にピタリと感じる温もりにもっとすり寄りたくなってしまうのをこらえた。
(夜中に大声を上げてしまったりしたら、どうしよう)
真白の中からは、どうしてもその怖さが消えない。
ソファで寝ていた時は、嫌な夢ばかりに襲われた。夜中に目が醒めるとパジャマは汗で濡れていたから、きっと、うなされていたに違いない。
再びベッドに引き戻されて、この三晩は大丈夫だった――筈。意識が途切れてから朝になるまで、起きた記憶はないから。
(孝一に、迷惑はかけていない筈)
そう思うけれど、真白は不安だった。覚えていないだけで、もしかしたら子どもの頃のように本当は夜中に孝一の腕の中で暴れたり叫んだりしているのかもしれない。
真白は、それが怖くてならない。
「さっさと寝ろ」
モソリとみじろぎした彼女に背後からボソリと声がかかる。
「眠れないなら、またするぞ」
その台詞に、真白はピタリと固まった。彼女のお腹に回された孝一の腕に力が入って、元々隙間がないほどくっついているのに、更に強く身体を押し付けられる。と、真白のお尻の辺りに硬くなった彼が触れて、思わずビクリとしてしまう。
こんなになっていても、孝一は彼自身の欲求を真白にぶつけてこようとはしない。
彼がシなくなって、多分一週間は経った筈だ。
確かに、その一週間の間も真白は何度も満たされた。けれど、それは、真白だけなのだ。
孝一の身体はこんなにも昂ぶっているのに、それを真白の身体で解消しようとしない。
不意に、彼が苛立たしげともいえるため息をついた。怒っているというのとは、少し違う気がする。
(わたしとは、もうシたくないのかな)
それなのに、真白を追い出すこともできないから他の女性に触れることもできなくて、苦しんでいるのだろうか。
こらえきれなくてまたモジモジと動いてしまった真白の頭の後ろ辺りから、呻き声が聞こえてきた。と思ったら、お腹に当てられていた孝一の手が彼女の身体を這うようにして動き始める。
「ダメ!」
とっさに、真白は叫んで孝一の腕を振り払っていた。
(コウに触れられると、また何も考えられなくなってしまう)
パッと体を起こして、真白はベッドの上に座り込んだ。
「シロ?」
肘を突いた孝一がベッドサイドのライトを点ける。一瞬にして部屋の中に明かりが満ちて、いぶかしげに真白を見ている彼と目が合った。
「何で、シないの?」
「は?」
唐突な真白の問いに、孝一が眉をひそめた。彼女は思いをうまく表せないまま、言葉を重ねる。
「わたしと、何でシないの? わたしがいらなくなったなら、何でわたしを放り出さないの?」
「いらない?」
歯軋りするように、孝一が囁いた。
「違うの? わたしのこと、いらなくなったんじゃないの?」
口からこぼれる言葉は、真白が伝えたいこととは違う気がする。けれども、彼女は自分を止められなかった。
そんな真白を、孝一は目を細めて見つめている。フットライトだけが灯された暗がりの中でも、彼の眼差しの鋭さが感じられた。
「だって、コウがわたしに触れてもわたしばっかりで、コウは全然……でしょう? わたしは、もういなくてもいいんでしょう?」
ただ、思いつくままに真白は言葉を垂れ流す。そんな彼女に注がれる孝一の目が次第に剣呑な光を強くしていくから、余計に思考がまとまらなくなってしまう。
「いらないのに、なんで置いておいてくれるの? 他にわたしに行くところがないから? 同情、してるの?」
いっそ、もうお前なんかいらない、出て行けと言われた方が、気が楽かもしれない。
それなら、真白が予想していたことが現実になるだけだから。
孝一の傍にいればいるほど幸せになって、幸せを感じれば感じるほど、怖くなる。それを持っていると、いつ失うことになるのかと怯えていなければならないのが、苦しい。
だったら、いっそさっさと手放してしまった方が、楽になれそうな気がする。
「いいよ、わたしは――」
いつでも出て行くから。
そう言おうとした真白の首筋にサッと孝一の手が回り、彼の方へと引き寄せられたかと思ったら、次の瞬間、彼女の唇は乱暴に塞がれた。瞬きするほどの時間で解放されても、一度リセットされてしまった真白の頭はピタリと回転を止めてしまって、次の言葉を吐き出すことができなかった。
固まる真白の唇のすぐ近くで、孝一は地の底から響くような声で、囁く。
「……誰が、そう言った? 俺か?」
「え……?」
「俺がこの口でそう言ったか? 俺の態度のどこかにそんなのが表れていたのか?」
「コウ」
孝一の低い声がどこか怖くて、真白はおどおどと彼の名前を呼ぶ。
「ただお前を抱き締めてるだけで俺が満足していたと思ってるのか? あのな、俺は我慢してるんだよ。毎晩毎晩、一晩中でもお前の中に入っていたいのを、耐えてるんだ」
「でも――」
「何でやらないかって? それは、俺が欲しいのはお前の身体だけじゃないってことを解からせてやりたかったからだよ。ただ、身体の欲求を満たす為だけにお前にいて欲しいんじゃない。お前は俺がどんなに言葉を尽くしても、それを信じないだろう? ……クソッ。態度で示そうとすれば、今度は見当違いなことをぬかしやがる。だったら、どうすればお前に俺の考えていること、望んでいることが伝わるんだ?」
呻いた孝一の手が伸ばされて、真白の頬を包む。
「コ、ウ……」
孝一の手のひらから真白の頬に伝わる熱は、彼女の肌を焼きそうに熱い。
「あのな、自慢じゃないが、俺は我慢とか耐えるとかいうことはした事がない。こんな不快だとは知らなかったよ。だけどな、こんな不快な思いをしても、お前をつなぎ留めておきたいんだ」
孝一の頭が少し下がり、真白と額が触れ合った。
「お前は、何が怖いんだ? 俺とお前は違い過ぎるから、お前が何を怖がるのかが俺には解からない。誰かに受け入れてもらえないことも、受け入れられた後に見捨てられることも、俺には怖いと思えない。お前にとってそれがどれほど怖いことなのかが、俺には解からない――多分、一生理解できない」
最後の方は、苦しげな囁き声だった。彼は真白と軽く唇を重ね合わせてから、続ける。
「夜中にお前が叫ぼうが、俺は気にしない。それより、お前が俺の腕の中にいない方が、眠れないんだよ」
「でも、みんな――」
「みんな、じゃない。たった五人だ。お前の母親と、里親たちだけ、そうだろう? そして俺は彼らじゃない。お前が夜中に泣いてしまうというなら、泣けばいい。けどな、独りでは泣かせない。俺にはお前がそうやって独りで泣いているのに何もできない方がイラつくんだ」
また、キス。
涙が出そうになるほど、優しく触れてくる、キス。
その言葉、そのキスが一つ加わるごとに、真白の中の何かが拭い取られていくような気がした。
孝一の親指でそっと頬を拭われて、彼女は初めて自分が本当に涙をこぼしていたことに気付く。
「お前にここにいて欲しいというのは、お前の為なんかじゃないんだ。キレイに飾ったことを言うのはもうやめだ。お前を欲しがるのは、俺の為なんだよ。俺はお前を失えない。お前が出て行きたいと言っても放してやれない」
(わたしの方から出て行きたいだなんて、言えるわけがない)
口にはとうてい出せなくて、真白は胸の中でそう呟く。と、まるでそれが聞こえたかのように、孝一が微かな笑みを浮かべた。
「俺は、俺の方から何かを求めたのは初めてだ。その必要がなかったし、敢えて欲しいと思うものもなかったからな。だが、だからこそ、欲しいと思えたものは貴重なんだ。絶対に見逃せない。俺はそれを手に入れるまで、諦めない」
「わたしは、そんなたいしたものじゃ――」
「俺にとってどれほどの価値があるのかは、俺が決める」
その言葉と共にクルリと真白の身体が反転し、気付いた時には仰向けに寝転がされていた。孝一は彼女の手を取り、両方の手の甲に、次いで両方の手のひらに口付ける。彼の唇が触れたところが、焼けつくように疼いた。
「何でそんなに、とは訊くなよ? いつからなのか、どうしてなのか、俺にだって判らない」
「わたし……」
真白は何て答えたらいいのか、判らなかった。口ごもる彼女に、孝一が微笑む。
「お前も、もっと欲しがれ。欲しいと思ったら、そう口にしたらいいんだ。はっきりと求めたらいい。手に入らないことは怖いことなのかもしれないけどな、片っ端から欲しがれば、どれかは手に入れられるかもしれないだろう?」
「だけ、ど……」
(何も手に入らなかったら? あるいは、手に入れる傍からどんどん失っていってしまったら……?)
俯きかけた真白の顎を、孝一が持ち上げた。ヒタと彼女の目を覗き込んで、静かな声で告げる。
「少なくとも、お前が声に出して求めさえすれば、俺は手に入る」
そう言った孝一の眼差しは、真っ直ぐに真白の心を貫いた。
本当に、彼を求めてもいいのだろうか。
胸の中でそう問いかけて、真白はふと気付く。
孝一を求めるということは、彼を信じるということだ――孝一が、彼女を置いてはいかないということを。
(わたしは、コウを信じられる……?)
――信じたいと、思った。
真白の視界がぼやけて目尻を熱い滴が伝う。胸の中が焼けるように疼いて、苦しかった。
(コウを信じたい。信じたい、のに)
一言、たった一言を口にしさえすれば、楽になれるのかもしれない。
けれど、その一言を口にしてしまったら、もう何も感じずにいられた自分には戻れなくなってしまう気がする。
何も欲せず、何も求めず、ただ人の間にいるだけの生き方は、楽だった。
欲しいと思わなければ、欲しいと思うものを作らなければ、心穏やかでいられたのだ。
――それなのに。
真白はにじむ視界で孝一を見上げる。
(欲しいと思うものが、できてしまった)
口を噤んだままの真白を同じく無言で孝一は見つめていたけれど、不意に、その唇をほころばす。
優しげなその微笑みにハッと瞬きをした真白に、孝一は頭を下げてきた。
その温かな唇が触れたのは、真白の額。
孝一はそのまま彼女を抱きすくめ、耳元で囁く。
「急がなくていい。そうやって苦しい思いをしているということは、俺を欲しいと思っているということなんだろう? 十八年かけて築いてきたものを、ひと月やふた月で覆せるとは思っていない。ただ、考えるのは止めるな。時間はやるから、結論は出せ」
覆い被さる孝一の温もりと重さが真白の全身に沁み渡っていく。
結論――孝一を求めるか、孝一のもとを離れるか。
進みたい道と、安全な道は、違う。
真白は命綱に掴まるように、目の前にある孝一のシャツの胸元に縋り付いた。
彼女の荷物を養護施設に取りに行ったあの日、ソファで寝たいと言った真白を孝一は三晩自由にさせてくれた。けれど、彼が眠る寝室に真白の方から近付いたあの夜以来、彼女がこうやってソファで寝ようとしても必ずベッドに連れて行くようになったのだ。
有無を言わさずベッドに連行されるようになってから、三日間。
その三日間、真白がソファに戻ろうとすると気を失うまで彼の指と舌とで攻め立てられて、結局カーテンの隙間から射す朝の光で目を覚ますのを繰り返した。
四晩めになると流石に諦めの境地になって、真白は運ばれるまま孝一の腕の中で丸まっていた。
寝室に着くと彼女はベッドに下ろされ、すぐに孝一も隣に滑り込んでくる。後ろから抱き締められて、真白は背中にピタリと感じる温もりにもっとすり寄りたくなってしまうのをこらえた。
(夜中に大声を上げてしまったりしたら、どうしよう)
真白の中からは、どうしてもその怖さが消えない。
ソファで寝ていた時は、嫌な夢ばかりに襲われた。夜中に目が醒めるとパジャマは汗で濡れていたから、きっと、うなされていたに違いない。
再びベッドに引き戻されて、この三晩は大丈夫だった――筈。意識が途切れてから朝になるまで、起きた記憶はないから。
(孝一に、迷惑はかけていない筈)
そう思うけれど、真白は不安だった。覚えていないだけで、もしかしたら子どもの頃のように本当は夜中に孝一の腕の中で暴れたり叫んだりしているのかもしれない。
真白は、それが怖くてならない。
「さっさと寝ろ」
モソリとみじろぎした彼女に背後からボソリと声がかかる。
「眠れないなら、またするぞ」
その台詞に、真白はピタリと固まった。彼女のお腹に回された孝一の腕に力が入って、元々隙間がないほどくっついているのに、更に強く身体を押し付けられる。と、真白のお尻の辺りに硬くなった彼が触れて、思わずビクリとしてしまう。
こんなになっていても、孝一は彼自身の欲求を真白にぶつけてこようとはしない。
彼がシなくなって、多分一週間は経った筈だ。
確かに、その一週間の間も真白は何度も満たされた。けれど、それは、真白だけなのだ。
孝一の身体はこんなにも昂ぶっているのに、それを真白の身体で解消しようとしない。
不意に、彼が苛立たしげともいえるため息をついた。怒っているというのとは、少し違う気がする。
(わたしとは、もうシたくないのかな)
それなのに、真白を追い出すこともできないから他の女性に触れることもできなくて、苦しんでいるのだろうか。
こらえきれなくてまたモジモジと動いてしまった真白の頭の後ろ辺りから、呻き声が聞こえてきた。と思ったら、お腹に当てられていた孝一の手が彼女の身体を這うようにして動き始める。
「ダメ!」
とっさに、真白は叫んで孝一の腕を振り払っていた。
(コウに触れられると、また何も考えられなくなってしまう)
パッと体を起こして、真白はベッドの上に座り込んだ。
「シロ?」
肘を突いた孝一がベッドサイドのライトを点ける。一瞬にして部屋の中に明かりが満ちて、いぶかしげに真白を見ている彼と目が合った。
「何で、シないの?」
「は?」
唐突な真白の問いに、孝一が眉をひそめた。彼女は思いをうまく表せないまま、言葉を重ねる。
「わたしと、何でシないの? わたしがいらなくなったなら、何でわたしを放り出さないの?」
「いらない?」
歯軋りするように、孝一が囁いた。
「違うの? わたしのこと、いらなくなったんじゃないの?」
口からこぼれる言葉は、真白が伝えたいこととは違う気がする。けれども、彼女は自分を止められなかった。
そんな真白を、孝一は目を細めて見つめている。フットライトだけが灯された暗がりの中でも、彼の眼差しの鋭さが感じられた。
「だって、コウがわたしに触れてもわたしばっかりで、コウは全然……でしょう? わたしは、もういなくてもいいんでしょう?」
ただ、思いつくままに真白は言葉を垂れ流す。そんな彼女に注がれる孝一の目が次第に剣呑な光を強くしていくから、余計に思考がまとまらなくなってしまう。
「いらないのに、なんで置いておいてくれるの? 他にわたしに行くところがないから? 同情、してるの?」
いっそ、もうお前なんかいらない、出て行けと言われた方が、気が楽かもしれない。
それなら、真白が予想していたことが現実になるだけだから。
孝一の傍にいればいるほど幸せになって、幸せを感じれば感じるほど、怖くなる。それを持っていると、いつ失うことになるのかと怯えていなければならないのが、苦しい。
だったら、いっそさっさと手放してしまった方が、楽になれそうな気がする。
「いいよ、わたしは――」
いつでも出て行くから。
そう言おうとした真白の首筋にサッと孝一の手が回り、彼の方へと引き寄せられたかと思ったら、次の瞬間、彼女の唇は乱暴に塞がれた。瞬きするほどの時間で解放されても、一度リセットされてしまった真白の頭はピタリと回転を止めてしまって、次の言葉を吐き出すことができなかった。
固まる真白の唇のすぐ近くで、孝一は地の底から響くような声で、囁く。
「……誰が、そう言った? 俺か?」
「え……?」
「俺がこの口でそう言ったか? 俺の態度のどこかにそんなのが表れていたのか?」
「コウ」
孝一の低い声がどこか怖くて、真白はおどおどと彼の名前を呼ぶ。
「ただお前を抱き締めてるだけで俺が満足していたと思ってるのか? あのな、俺は我慢してるんだよ。毎晩毎晩、一晩中でもお前の中に入っていたいのを、耐えてるんだ」
「でも――」
「何でやらないかって? それは、俺が欲しいのはお前の身体だけじゃないってことを解からせてやりたかったからだよ。ただ、身体の欲求を満たす為だけにお前にいて欲しいんじゃない。お前は俺がどんなに言葉を尽くしても、それを信じないだろう? ……クソッ。態度で示そうとすれば、今度は見当違いなことをぬかしやがる。だったら、どうすればお前に俺の考えていること、望んでいることが伝わるんだ?」
呻いた孝一の手が伸ばされて、真白の頬を包む。
「コ、ウ……」
孝一の手のひらから真白の頬に伝わる熱は、彼女の肌を焼きそうに熱い。
「あのな、自慢じゃないが、俺は我慢とか耐えるとかいうことはした事がない。こんな不快だとは知らなかったよ。だけどな、こんな不快な思いをしても、お前をつなぎ留めておきたいんだ」
孝一の頭が少し下がり、真白と額が触れ合った。
「お前は、何が怖いんだ? 俺とお前は違い過ぎるから、お前が何を怖がるのかが俺には解からない。誰かに受け入れてもらえないことも、受け入れられた後に見捨てられることも、俺には怖いと思えない。お前にとってそれがどれほど怖いことなのかが、俺には解からない――多分、一生理解できない」
最後の方は、苦しげな囁き声だった。彼は真白と軽く唇を重ね合わせてから、続ける。
「夜中にお前が叫ぼうが、俺は気にしない。それより、お前が俺の腕の中にいない方が、眠れないんだよ」
「でも、みんな――」
「みんな、じゃない。たった五人だ。お前の母親と、里親たちだけ、そうだろう? そして俺は彼らじゃない。お前が夜中に泣いてしまうというなら、泣けばいい。けどな、独りでは泣かせない。俺にはお前がそうやって独りで泣いているのに何もできない方がイラつくんだ」
また、キス。
涙が出そうになるほど、優しく触れてくる、キス。
その言葉、そのキスが一つ加わるごとに、真白の中の何かが拭い取られていくような気がした。
孝一の親指でそっと頬を拭われて、彼女は初めて自分が本当に涙をこぼしていたことに気付く。
「お前にここにいて欲しいというのは、お前の為なんかじゃないんだ。キレイに飾ったことを言うのはもうやめだ。お前を欲しがるのは、俺の為なんだよ。俺はお前を失えない。お前が出て行きたいと言っても放してやれない」
(わたしの方から出て行きたいだなんて、言えるわけがない)
口にはとうてい出せなくて、真白は胸の中でそう呟く。と、まるでそれが聞こえたかのように、孝一が微かな笑みを浮かべた。
「俺は、俺の方から何かを求めたのは初めてだ。その必要がなかったし、敢えて欲しいと思うものもなかったからな。だが、だからこそ、欲しいと思えたものは貴重なんだ。絶対に見逃せない。俺はそれを手に入れるまで、諦めない」
「わたしは、そんなたいしたものじゃ――」
「俺にとってどれほどの価値があるのかは、俺が決める」
その言葉と共にクルリと真白の身体が反転し、気付いた時には仰向けに寝転がされていた。孝一は彼女の手を取り、両方の手の甲に、次いで両方の手のひらに口付ける。彼の唇が触れたところが、焼けつくように疼いた。
「何でそんなに、とは訊くなよ? いつからなのか、どうしてなのか、俺にだって判らない」
「わたし……」
真白は何て答えたらいいのか、判らなかった。口ごもる彼女に、孝一が微笑む。
「お前も、もっと欲しがれ。欲しいと思ったら、そう口にしたらいいんだ。はっきりと求めたらいい。手に入らないことは怖いことなのかもしれないけどな、片っ端から欲しがれば、どれかは手に入れられるかもしれないだろう?」
「だけ、ど……」
(何も手に入らなかったら? あるいは、手に入れる傍からどんどん失っていってしまったら……?)
俯きかけた真白の顎を、孝一が持ち上げた。ヒタと彼女の目を覗き込んで、静かな声で告げる。
「少なくとも、お前が声に出して求めさえすれば、俺は手に入る」
そう言った孝一の眼差しは、真っ直ぐに真白の心を貫いた。
本当に、彼を求めてもいいのだろうか。
胸の中でそう問いかけて、真白はふと気付く。
孝一を求めるということは、彼を信じるということだ――孝一が、彼女を置いてはいかないということを。
(わたしは、コウを信じられる……?)
――信じたいと、思った。
真白の視界がぼやけて目尻を熱い滴が伝う。胸の中が焼けるように疼いて、苦しかった。
(コウを信じたい。信じたい、のに)
一言、たった一言を口にしさえすれば、楽になれるのかもしれない。
けれど、その一言を口にしてしまったら、もう何も感じずにいられた自分には戻れなくなってしまう気がする。
何も欲せず、何も求めず、ただ人の間にいるだけの生き方は、楽だった。
欲しいと思わなければ、欲しいと思うものを作らなければ、心穏やかでいられたのだ。
――それなのに。
真白はにじむ視界で孝一を見上げる。
(欲しいと思うものが、できてしまった)
口を噤んだままの真白を同じく無言で孝一は見つめていたけれど、不意に、その唇をほころばす。
優しげなその微笑みにハッと瞬きをした真白に、孝一は頭を下げてきた。
その温かな唇が触れたのは、真白の額。
孝一はそのまま彼女を抱きすくめ、耳元で囁く。
「急がなくていい。そうやって苦しい思いをしているということは、俺を欲しいと思っているということなんだろう? 十八年かけて築いてきたものを、ひと月やふた月で覆せるとは思っていない。ただ、考えるのは止めるな。時間はやるから、結論は出せ」
覆い被さる孝一の温もりと重さが真白の全身に沁み渡っていく。
結論――孝一を求めるか、孝一のもとを離れるか。
進みたい道と、安全な道は、違う。
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