捨て猫を拾った日

トウリン

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捨て猫が懐いた日

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 走る。
 走る。
 走る。
 遠くに見えている背中を追いかけて、真白ましろは走る。

 懸命に脚を動かしているつもりなのに、まるで泥の中でもがいているようだった。それでも、求めることを止めたら本当に見失ってしまいそうで、真白は懸命に走り続ける。

「置いていかないで」
 そう言いたいのに、声が出ない。

 あれは誰の背中だろう。
 年齢も性別も判らないけれど、とにかく大事な人なのだということは、判った。

 戻ってきて欲しい。
 抱き締めて欲しい。

 だけど、大きな声で呼んだりしては、いけないのだ。そんなことをしたら、絶対に振り向いてもらえなくなる。余計に嫌われてしまう。

 だから、とにかく走る。

 距離はジワリジワリと縮まっていく。
 あと少し。
 指先が届く。
 掴まえた。
 心の中で懇願する。

(お願い、置いていかないで)

 振り返った、真っ黒な顔。目も口も鼻もない。
 ――それなのに、はっきりと声がする。

 冷たい、声。
「お前なんかいらない」

 鋭いナイフのように切り付けてきたその台詞に、真白は悲鳴を上げて跳び起きた。
 息が苦しい。まるで何キロも全力疾走したかのように、息が切れている。
 真白は荒い息をつきながら、首を巡らせ辺りを見回した。
 闇に慣れた目が、そこがいつものリビングであることを認識する。眠っていたのは、ソファの上。

(夢、だ)
 確認するように――祈るように胸の中でそう呟いて、真白は両手できつく口を押える。

 悲鳴は、零れてしまったのだろうか。
 実際に声を上げたのかどうなのか、真白には判らなかった。けれど、彼女自身の鼓膜にはつんざくような悲鳴が残っているような気がする。
 真白の全身は汗にまみれ、心臓がバクバクと胸の内側を叩き付けていた。三メートル離れていても鼓動の音が聞き取れそうな程、激しく脈打っている。

 真白は口に当てていた手を喉にずらした。両手でグルリと首を包み込み、脈を感じながら、ゆっくりと力を込めていく。
 いっそ喉がつぶれてしまえばいいのに、と思った。
 そうすれば、大きな声を上げずに済む。
 顔がジンジンするほど息苦しくなって、真白は両手を解いた。
 今度は目を閉じ、また開ける。独りきりのリビングはやけにがらんとしているように感じられて、真白は小さく身震いした。

 孝一こういちに、抱き締めていて欲しい。

 心の底から、そう思った。
 あの温もりに包まれずに眠るようになって、もう三日が経つ。
 一度覚えてしまった温かさに触れずにいるのは寂しくて寂しくてたまらなかったけれど、怖くて彼のベッドに入ることはできなかった。

 こんなふうに夜中に跳び起きていたら、孝一に迷惑がかかる。そんなことをしたら、嫌われてしまう。
 そう思うけれど、寂しくて仕方がない。

 真白は首を巡らせて廊下へ続くドアを見つめた。その先に寝室がある。孝一が、いる。

(少しだけ……少しだけなら、いい?)
 ふらりと立ち上がり、真白はドアへと向かう。足音を忍ばせて廊下を歩き、その先にあるドアを目指した。
 そっと押し開けたその中は暗く、静まり返っている――微かな寝息以外に物音はしない。
 真白は大きなベッドに歩み寄り、孝一の顔が見える場所でぺたりと床に座り込んだ。
 ベッドにもたれて頭をのせて、こちら側を向いている穏やかな孝一の寝顔をジッと見つめる。眠りは深いようで、少なくとも、自分のバカげた悲鳴で彼を起こしてしまってはいないことに真白は安堵した。

「ん……」
 不意に、小さな呻き声が孝一から洩れる。何かを探るようにモソモソと手が布団の中を動いて、突然止まったかと思うと、ギュッと彼の眉間に皺が寄った。短く口の中で呟いたようだったけれど、何と言ったのかは聞き取れなかった。
 真白が息をひそめているうちに、彼はまた静かな寝息をたて始める。

 動いたせいか、孝一の手が布団の中から少しはみ出ていた。真白はおずおずと手を伸ばして指先でそれに触れる。

 とても、温かい。

 すがり付くように握り締めたくなってしまうのを懸命にこらえて、真白は触れるか触れないかというくらいで彼の指を一本一本辿っていく。
 初めて会ったあの雪の日、この手が差し出された時、真白がどんなに驚いたかを孝一は知らないだろう。どんなに驚き、そしてどんなに嬉しかったかを。
 あの日、真白は初めて自分がコインロッカーの中に捨てられていたのだということを知らされた。

 捨て子だったことは、ずっと前から知っていた。
 けれど、それがコインロッカーの中だとは、知らなかった。
 教えてくれたのは今まで言葉を交わしたこともなかった同級生の女子で、少し怖いような笑顔を浮かべながら、真白に教えてくれたのだ。

 冬の最中にコインロッカーに入れられていた赤ん坊。
 そのセンセーショナルな内容に、当時、この近辺ではかなりの話題になっていたのだと。

 母親から聞いたのだという話を得々と語る彼女の前で表情一つ変えずにいたら、その子は悔しそうに顔を歪めて去って行ってしまった。それきり高校には行っていないから、彼女が何をしたくてそれを真白に教えたのかは解からず仕舞いだ。

 学校から帰って、いつも通りに子ども達の世話をして。
 することが無くなったらどうしてもそのコインロッカーを見てみたくてたまらなくなって、夜になってこっそりと部屋を抜け出した。
 そうして駅前に座って、たくさんの人が行き過ぎる中、ぼんやりと自分が入れられていたという場所を見つめていた。何かを感じるかと思ったけれど、何も感じなかった。

 あの時、真白はただ座っていただけだったのだ。
 通りを行く人は皆、そんな彼女を一瞥することもなかった。
 立ち止まったのは、たった一人だけだった――声をかけてくれたのも、手を差し出してくれたのも。

 真白が彼に何かをしてあげたわけではない。何もしていなかったのに、孝一は無条件に手を差し伸べてくれた。
 これでも人並みの知恵はあるから、見知らぬ男の人についていったらどんなことになるかなんて、充分に承知していた。
 それでも、目の前の手を取らずにはいられなかった。

 そして、初めて孝一と結ばれた日。
 息が止まりそうなキスをされて、心臓が止まりそうなほどに驚いた。頭からバリバリと齧られて食べられてしまいそうな目で見下ろされて、少し、怖かった。

 けれど、「お前が欲しい」と言われて、泣きたくなるほど嬉しくなった。

 孝一が真白の中に入ってきた時、本当は死ぬほど痛かった。だけど、彼の手に優しく触れられて、彼の腕にきつく抱き締められて、自分の中に彼の熱を刻まれて、もう死んでも構わない、と思った。
 孝一を身体の奥深くで感じる度に、いっそ今すぐ死んでしまえたらいいのに、と何度も思った。
 彼が求めているモノが身体だけでも構わない。
 それでも、紛れもなく真白を求めてくれているのだけは確かだったから。

 孝一を失いたくないと思う。
 けれど真白は、そんなふうに思いたくはなかった。
 欲しいと思ってしまったら、手に入らなければつらくなる。
 一度手に入れてしまったら、失った時に悲しくなる。
 それなのに、真白は孝一を欲してしまった。

 真白は暗闇の中で目を閉じる。
 実の母や、赤ちゃんの時に彼女を引き取ろうとしてくれた里親のことは覚えていない。けれど、二組目の里親のことは記憶に残っていることがある。

 それは、施設の事務室の中。
 ソファに腰掛けた真白の前で、しゃがみこんで涙を流しながら何度も「ごめんね」と言っている女の人。やがてその人は一緒にいた男の人と去って行った。
 女の人の事が、大好きだった。ずっと一緒にいたいと思っていた。失う時のことを考えると、いつも怖くてたまらなかった。
 ――今、孝一に対して抱いているのと、よく似た気持ちだった。

(きっと、そんなふうに思ったらいけないんだ)
 失いたくないなら、求めすぎてはいけない。
「大好き」
 真白は囁く。
 その言葉を口にしただけで、彼女の胸の奥がキュッと締め付けられる。

 孝一が応えてくれなくてもいい。
 傍に居させてくれるだけでいい。
 ただ、この想いを抱き続けていたい。

 と、触れていた孝一の指先が不意にピクリと動く。思わず真白は手を引っ込めて、息をひそめて彼の様子を窺った。

 動きは、ない。
 どうやら起こしてしまってはいないようで、真白はゆるゆると止めていた息を吐き出した。
 これ以上ここにいたら、本当に彼の安眠を妨げることになりかねない。
 未練を残しつつも、真白は音をたてないように細心の注意を払って立ち上がる。そして、ベッドに背を向けた、その時だった。
 静かだった部屋の中に突然布がこすれる音がして、彼女が振り返る暇もなく腕を掴まれ後ろに引っ張られる。

「きゃっ」
 小さな悲鳴を漏らした時には、もうベッドの上に仰向けに倒れ込んでいた。
「お前な、お預けくらって欲求不満になってる男の部屋に夜中に入ってきといて、ただで帰れると思うなよ」
 暗い中で、孝一の目が光る。
「あ……ご、ごめ……」
(怒らせた)
 思わず謝った真白に、彼が覆い被さってくる。
 荒々しく唇を奪われるのだととっさに身構えた彼女に落とされたのは、ハッとするほど優しいキスだった。
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