捨て猫を拾った日

トウリン

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捨て猫を拾った日

エピローグ

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「おい、シロ、ちょっとこっちに来い」

 年が明けて、孝一こういちの仕事も始まって、少しした、ある日曜日。
 昼食の後片付けをしていた真白を、彼は何だか難しい顔をして手招きした。

「今?」

(もうちょっとで、お皿を洗い終わるんだけどな)
 手元に視線を落としてそんなふうに思った彼女の頭の中を読んだように、孝一が言う。

「いいから、来い」
 怒っているふうではないけれど、何だか急いているようだ。
 何だろうと首をかしげつつ洗剤の付いた手をすすぎ、タオルで拭いて、リビングのソファに座っている孝一の元に向かう。

 多分五分もかかっていないだろうに、彼は焦れていた。
 向かいのソファに腰を下ろそうとして、真白は伸びてきた手に腕を取られて引っ張られる。よろめいて落ちた先は、孝一の膝の上だった。
 孝一は中途半端な格好でずり落ちそうになっている真白の腰を掴んで持ち上げて、彼の脚の間に座り直させる。

 こんな体勢になった時にはたいていそのまま服を脱がされなし崩しに――となってしまうので、真白は窓の外に目をやって、まだ明るいのになと眉をひそめた。
 そんな彼女の懸念には全く気付いていない様子で、孝一はズボンのポケットをごそごそとまさぐっている。何かを探しているように。

 それが見つかったかのようにふと手を止めると、ジッと真白を見つめてきた。

(何なのだろ?)
 明らかにいつもと違う彼に、真白は内心で首をかしげた。

 と。

「左手を貸して」
 手を差し出しながらやけにぶっきらぼうに彼が言う。

(やっぱり、何か怒ってる?)
 怒らせるようなことをした記憶はないけれど、思えば朝起きた時から何となく孝一の様子は変だった。

 夜の間中彼の胸の中で過ごして、硬い彼の腕を枕に起きるのは、毎朝のこと。
 けれど、いつもは目を覚ました真白が放して欲しいと言えばすぐに腕を解いてくれるのに、今朝は彼女を抱きすくめたまま、なかなか解放してくれなかったのだ。
 真白が何度も「起きなくちゃ」と言って、ようやく渋々手を放してくれた。
 それから、彼はむっつりしている――気がする。

(何をしてしまったんだろう)

 彼女は孝一が求めていることに気付けないことが多いから、何か彼を怒らせるようなことをしてしまっていたとしても、多分それにも気付けていない。不安になりながら、真白はおずおずと彼の手のひらに自分の手を置いた。

 孝一の半分ほどしかないのではないだろうかという彼女の手を、彼はしげしげと見つめている。
 と思ったら、右手に持っていたものを、すっと彼女の左の薬指にくぐらせた。
 さりげなく滑らかなその動作に、真白は一瞬何をされたのか気付けなかった。

 真白はしばし彼女の薬指に現れたモノを見つめて、率直な感想を口にする。

「きれいだね」
 そこにはめられたのは、一際白く輝く石の周りを六個の透き通った水色の小さな石が取り囲んだ、まるで雪の結晶のようなデザインがあしらわれている指輪だ。
 孝一はちょこちょこ服やら花やらお菓子やらを買ってきてくれるけれど、装飾品は初めてだった。

「……それだけか?」
 その声に顔を上げて孝一を見ると、彼は何だか奇妙な顔をしている。
 少し考えて、真白は「ああ」と言葉を思いつく。

「……ありがとう?」
 が、それも彼が望んだ言葉ではなかったらしい。

「えっと――うれしいな?」
 窺うような口調でそう口にした真白に、孝一は小さなため息をついた。

「お前、それの意味が解かってるのか?」
「意味?」
「お前の誕生日、十一月だろ? それ、真ん中のはダイヤ、周りのはブルートパーズなんだよ」
 孝一の台詞に、真白は目を瞬かせた。

「……ダイヤって、高いよね?」
 そんなものをもらうわけにはいかない。

 あたふたと指輪を外そうとする真白の手を、孝一の手が押さえる。それに、先ほどよりも大きなため息が続いた。

「判った、いい。じゃあ、これにサインしろ」
 そう言って、次に孝一が取り出したのは、一枚の紙。テーブルの上にそれを広げ、続いてボールペンを置いた。その殆どの欄が、もう埋め込まれている。

 その紙にかかれている文字に、真白は自分の日本語読解能力を疑った。

「これ、何で……?」
 思わず、そう呟く。
「お前はもう十八なんだろう?」
 真白の問いに更なる問いを返しながら、孝一は三つ編みにしていた真白の髪からゴムを外し、手ですいてくる。気持ちいいなと思いながらつい頷いて、ハッと我に返った。
「うん――じゃなくて、これ、『婚姻届』って、あるよ?」

 真白には、目の前にそれが置かれていることが理解できなかった。孝一は彼女のその疑問に至極真剣な顔になる。そして、『説明』を始めた。
「今の状態だと、お前がちょっと買い物に行って転んで頭を打って意識失って病院に担ぎ込まれたら、どうなる? 俺にはお前の居場所を訊く権利もないし、たとえ居場所が知れたって何もできない。そもそも、何かあっても誰も俺には教えてはくれないんだ」
「え、あ、うん……」
「俺はそんなのは容認できない」
 きっぱりと断言した彼は、解かったか、というような顔をしている。さっぱり解からないままの真白は、もう一度、訊いた。

「でも、何で、婚姻届なの?」
「はあ?」
 呆れ返った声を上げた孝一は、彼の方こそ理解できない、という眼差しだった。
「結婚しておけば、お前に何かあった時に真っ先に連絡が入るのは俺のところになる」
「そんな理由で結婚しちゃうの?」
 思わず声を上げると、突き刺されそうな目でギロリと睨まれた。
「お前は俺と結婚するのが嫌なのか?」
「そうじゃ、なくて……きっと、後悔する。コウの方が……きっと、すぐに……」
 真白は孝一から目を逸らし、床を見つめた。声はしりすぼみになっていく。

 真白は、生まれてすぐに実の親に捨てられた。
 養護施設に入れられて、二回、里親の口が見つかったけれど、一回目は理由も判らず、二回目はすぐに病気をするから、と一年もしないうちに施設に戻された。
 一度だけではない。二度、三度と、「いらない」と言われてきたのだ。
 それはつまり、真白自身に何かその要因があるわけで。

 今、孝一は真白を彼の元に置いてくれているけれど、それがずっと続くものだとは、思ってはいない。そうだといいなと願う気持ちはあるけれど――そうであって欲しいと祈る気持ちはあるけれど、それは実現しやしない。
 何しろ、真白は真白なのだから。
 孝一に「いらない」と言われたら、きっと死ぬほどつらいだろう。死んだ方がマシだと思うに違いない。けれど、いつかきっとその日は来る。

 ――想像だけで目の奥が熱くなって、ジワリと視界が滲む。
 と、不意に、俯いていた真白の頬が大きな手で挟まれ、グイと持ち上げられた。次の瞬間、噛み付かれるようなキスに襲われる。反射でいつものように口を開くと乱暴なくらいに強引に、温かく柔らかなものが押し入ってきた。

「ぁ……ッふ……」
 息継ぎがうまくできなくて、苦しい。
 けれどそれ以上に、自分のものよりも大きな彼の舌が彼女の中を隈なく探るその心地良さにクラクラした。強く舌を吸われれば、痺れるような快感がお腹の下の方へと走っていく。孝一が求めてくるものに応えようと、真白は懸命に口を開いた。

(苦し……気持ちいい……好き……)
 孝一に翻弄されて、真白の頭の中に支離滅裂な思考の断片が浮かんでは消えていく。

 唐突に始まったキスは、同じように唐突に終わった。
 パッと唇を離した孝一は、真白の頭を彼の胸に押し付けるようにして抱き締めてくる。
 キスのせいで息苦しいし、硬い胸と腕にきつく包まれると、少し痛い。けれど、そうされると、真白はとても満たされた気分になった。

 孝一は、時折こんなふうに力任せに真白に触れる。乱暴ではないけれど、いつもの、何かを確かめながらのような柔らかな触り方とは違う。
 そんな時真白はおとなしく孝一に身を任せ、彼の中の何かが通り過ぎるのを待つのだ。その温もりを全身に感じながら。
 やがて真白を捕らえている力がふっと緩み、頭の上から静かな声が響いてきた。

「お前は、俺のものだろう? この紙切れ一枚が、それを他の者にも知らしめる。この紙一枚で、お前を守り、お前と生きていく『権利』を手に入れられるんだ」
 孝一の声の中にあるのは、切実な響き。
 真白は彼の胸から頭を上げて、彼の目を見つめる。

「コウは、そんなものが欲しいの?」
 彼にはそんな権利など必要ない。彼が望んでくれる限り、真白はずっと傍に居させて欲しいのだから。
 戸惑う真白の頬をまた孝一が包み込み、今度はそっと触れるだけのキスを落とす。

「『欲しい』んじゃない、『必要』だ」
 また、キス。その優しい感触に、真白は涙が出そうになる。
「いいか、真白。俺は今まで何かに固執したことがない。お前は、その俺が手放したくないと思った、唯一のものだ。そう簡単に離れられると思うな。お前の帰る場所は、もうあんなちっぽけな箱なんかじゃない。この俺のいるところだ」
 孝一は脅すようにそう言うけれど、少しも怖くない。

 真白は身を乗り出して、彼女の方から口付けた。
「離れたくなんて、ないもの」
 そうして左手を持ち上げ、そこにある輝きを見つめる。

「これ、雪みたいね」
「ああ。だからお前に似合うと思った」
 少し手を動かすと、指輪は光を反射する。

「わたしね、雪が嫌いだったの」
 それは、彼女を全否定するものの象徴だったから。

 孝一が真白の左手を取り、指輪がはまった指の関節に唇を寄せる。
「……そうか。今は?」
「今は、好き」
 それは、孝一と出会えたことの喜びで塗り替えられたから。

「わたしね、コウが好き。すごく好き。大好き」
「そんなのはもう聞き飽きた。俺は――お前を愛してるよ」
 孝一はサラリとそう言って、真白が何か答える暇を与えず彼女の唇を塞ぐ。

 次第に深くなっていく口づけに、彼女は甘い予感に襲われる。
 そしてそれは実現し、身体も、思考も、感覚も、全てを彼に奪われながら、真白は誰かとこれほどまでに深く触れ合える喜びを噛み締めた。
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