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捨て猫を拾った日
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電車の中から押し出されるように溢れ出たスーツの集団から抜け出して、孝一は、この鉄の箱の中によくぞこんなに人が入るものだと感心する。
仕事を終えてどこにも寄ることなく足を踏み入れた電車の中は、いつもとは別世界だった。普段も座れるかどうか、という程度には混んでいるが、この時間帯はレベルが違う。否応なしに他人と密着させられるのがこんなに不快なことだとは、思いも寄らなかった。
(自転車でも買うか)
職場とマンションとの距離は駅三つ分程度なのだから、自転車通勤も可能だ。
だが、ふと頭をよぎったその考えに、それは即ちこれからも自分がこの時間に帰るつもりでいるのだということになるのだと気付き、孝一は眉をしかめる。
そもそも真っ直ぐに帰宅するのは、働き始めてからこの方初めてと言ってもいいくらいではなかろうか。
――何故、自分はこんなふうに家路を急いでいるのか。
(帰れば飯が食えるからな)
十年来の生活が変わりつつあることに対して、孝一は言い訳じみた理由を付ける。
家に帰ればうまい食事が出てくるのだ。別にわざわざ店に寄る必要はない、と。ただそれだけだ、と。
実際、彼が拾った少女は、これまでいったいどんな生活をしていたというのか、予想外に家事に長けていた。
初めの頃は孝一が食べるかどうか判らなかった為か日持ちのするものしか作らなかったが、最近は作っても無駄にならないと確信したらしく、グンとレパートリーが増えている。味も、下手な料理屋に入るのよりも、遥かに良い。
寄り道の目的には食事以外の部分もある――むしろその方が大きかったことは、敢えて無視する。振り返ってみると、前に女を抱いてからもう七日経っていた。いつもならとうに欲求を解消している頃合いだが、最近はその欲求自体が湧いてこない。
最後の行為も日々の習慣、惰性のようなもので、排泄感に似た快感を得ただけだった。あれが打ち止めだったかのように、ぷっつりと女に触れる気が起きない。
別に、体調が悪いわけではない。いや、以前よりも良いと言っていいかもしれない。きっと、前より酒の量が減って、まともな食事を摂るようになったからだろう。
まさかこの年で涸れたわけではあるまいが、ただ、女を欲しいとさっぱり思わなくなったのだ。
そんなふうにつらつら考えているうちに、孝一は家の前に辿り着いていた。
いつものように鍵を開け、玄関に入る。
扉を開けた時にそこが明るいか暗いかというだけで受ける印象がさっぱり違うのだということも、真白が来てから知ったことだ。
頭を下げて靴を脱ぎながら、すっかり耳に慣れた『おかえり』という言葉を無意識に待つ。
が。
廊下にもその先のリビングにも灯りは煌々と点いているというのに、静まり返っている。
(まさか、出て行った?)
ふと浮かんだその考えに一瞬身体が固まったが、すぐにそれを打ち消した。
真白に鍵は渡していないから、玄関のロックがかかっていたということは家の中に居るということの筈だ。
眉をひそめながら孝一は靴を脱ぎ、部屋に向かう。
それでも、やはり、いつもの声と姿が出てこない。孝一の肩と背中が、まるで鋼の板でも仕込まれたかのように強張った。
「……シロ?」
彼女の名を呟いた孝一だったが、それが呼びかけるというよりもその存在を確かめる声音になっていることに、彼自身気付いていなかった。
「シロ?」
もう一度、囁き声でその名を口にしながら、リビングに足を踏み入れる。
――いた。
ソファの上で丸くなっている、小さな身体。
それを目にした瞬間、孝一の全身から一気に力が抜ける。足音を忍ばせてそこに近付き、殆どへたり込むようにして座り込んだ。
真白はその気配に気付くことなくすやすやと眠り続けている。
人の気も知らないで。
孝一の中にパッと浮かんだのはその台詞だ。
平和な寝顔に抱いたのが怒りの念なのか、それとも安堵の念なのか、彼自身にも判らなかった。
片腕をソファに載せて寄り掛かり、孝一は真白を見つめる。彼女が来てから二週間ほどになるが、そう言えば一度も寝ている姿を見たことはなかった。
普段も真白はこのソファで寝ている筈だけれども、孝一が寝室に引き取るまでは起きているし、彼がリビングに姿を現す頃には完璧に朝食の用意を整えて澄ましている。
こんなふうに無防備な姿を見せることは、決してなかった。
この部屋の中で共に過ごす時、真白は必ず孝一のすぐ傍に居る。
けれど、触れんばかりのところにいても、彼女との間には薄紙を挟んだような『距離』を常に感じていた。真白は、決してそれをゼロにしようとはしない。
一見犬のように献身的だ。それでいて、ノラ猫が気まぐれに懐くように、喉を鳴らして寄ってきた瞬間、ふいとどこかに行ってしまいそうな不確かさが常に付きまとう。
孝一は、彼女の頬にかかっている栗色の髪をひと房つまみ上げる。それは驚くほどに柔らかく、ほんの少しでも手荒に扱えばすぐに千切れてしまいそうだった。
そっと指先に巻き付けてみても、それは抗うことなく絡んでくる。口元に寄せると、甘い香りが漂った。シャンプーは彼と同じものを使っている筈なのに、彼女は孝一とはまったく違う匂いをまとっている。
こめかみの辺りに指を差し込んで髪を背中に流してやると、滑らかな白い頬が露わになった。来たばかりの頃はやせぎすだったそれが、今は丸みを帯びつつある。
と、肌に触れられたのを感じたのか、閉じられていた彼女の唇が微かにほころんだ。
何もつけていないのに艶やかで柔らかそうなそれに、孝一の目が吸い寄せられる。
(甘そうだ)
そんな考えが脳裏を走った瞬間、孝一の下腹がズクンと疼いた。その衝動に、思わず顔を歪める。
今彼の中にあるのは、ごまかしようのない『欲望』だった。それは理性を鈍らせ、孝一の奥に潜んでいたより原始的な何かを引きずり出す。
(こいつが、欲しい)
頭の中に湧き上がったその欲求に、彼は顔を歪める。
出会った時、孝一は真白に「女に不自由はしていない」と言った。
あの時のその台詞は真実だったが、今は彼女が欲しい。それも、今まで誰にも感じたことのないような、強さで欲している。
だが――この欲求は、果たして『女』に対して抱いているものなのだろうか。
真白に触れたい。
触れる以上に近付きたい。
彼女が常に身にまとっている薄布を引き裂いて、決して孝一には見せようとしないその内側をさらけ出させたい。
そして、真白にも、彼が欲しいと言わせたい――孝一といても、何一つ求めてこない彼女に。
この数日来モヤモヤと彼の中にわだかまっていた願望が、一気に明確な形を取る。
今まで『女』に対してそんなことを望んだことはなかった。
彼女たちからは肉体的な快楽を得られればそれで良かったのだ。
彼の中にその欲望が生じたのは、目の前で無防備な姿をさらす女に対する単純な生理的欲求のせいなのか。
それとも――彼に対して興味を示さない女が存在することに自尊心が傷付けられたせいなのか。
孝一の中に残っているまともな部分は、それ以上真白に触れるべきではないと警告を発していた。そんな事をするつもりでこの家に入れたわけではなかっただろう、と。
だが。
(あんなにあっさりと俺に付いてきたんだ。他の男にも同じようにしているに決まってる)
あの時の真白に躊躇いはなく、見知らぬ男に付いていくことは至極当然の成り行きのようだった。そして、下心なく女を泊める男は滅多にいない。
真白は家事も得意で、行動面には幼さを感じない。外見からも十八は超えていそうだが、二十歳にはなっていないのは確かだろう。
いつからこんな生活をしているのかは知らないが、きっと、男たちの間を渡り歩いてきたに違いない。
(だから、俺も触れていい筈だ)
免罪符のように胸の中でそう呟いた孝一だったが、ふとそこに、小さな疑問が忍び込んできた。
彼らには、真白はどんな態度を取っていたのだろう、と。
孝一と同じなのか――それとももっと彼女自身を見せていたのだろうか。
その考えに、彼の腹の底はざわついた。いや、煮え立ったというべきか。
気付けば、孝一の両手は真白の頬に伸びていた。
彼の手のひらには余るそれをしっかりと包み込み、わずかに上向かせる。右手の親指を彼女の下唇に這わせると、思っていた以上に柔らかかった。
指でそれをねぶるうちに、真白のまつ毛が震え始める。彼女の目蓋が上がり、寝ぼけて焦点の合わない目が孝一を捉えた。
「コウ……?」
彼の名を呼ぶその声が消えぬうちに、孝一は彼女の唇を奪った。息を呑んだ隙を突いて舌を割り込ませ、反射のようにビクリと跳ね起きようとした身体は全身を使って押さえ込む。
それでも、拒まれれば止めようと思っていた。
だが、真白はされるがままになっている。
孝一を拒絶はしていない。けれど、求めてもいない。
ただ、彼を受け入れるだけだ。
孝一は何か反応を引き出そうと、真白の狭い口内の隅々まで舌を使って探索する。彼女の小さく滑らかな舌を探り、絡め取っては丹念になぶると、真白は喉の奥で仔猫の鳴き声のような音を漏らした。
それが合図であったかのように、真白の全身から力が抜ける。
孝一は顔を上げ、彼女の目を覗き込んだ。驚いた子どものように大きく見開かれた目尻には雫が滲んでいるが、その眼差しに嫌悪の色はない。それだけを確認し、彼は再び頭を下げた。
微かに腫れた真白の下唇を甘噛みし、そっと舌で辿る。そうして緩んだ隙間から、もう一度やんわりと侵入する。
ゆっくりと舌の表面をこすり合わせながら孝一は片手を下げ、真白のシャツの下へと忍び込ませた。
「ぅンッ」
彼女の鼻先から漏れた息が頬をくすぐり、孝一の背筋をゾクゾクと興奮が走り抜ける。指先で脇腹の柔らかい素肌に触れると、彼女の両手がギュッと孝一のシャツを握り締めてきた。押しやられないのは許諾の証だと勝手に結論付けて、孝一は彼女の脇腹を掴むように押し当てた手を上へと滑らせる。
時折真白の肩がピクリと震え、彼女の中を探る孝一の舌に歯が立てられた。力が入ったのは一瞬のことですぐさま我に返った様子でまた緩むが、甘噛みされるようなその感覚は下手に舌を絡められるよりも遥かに彼を煽る。
親指が大きくはない胸の下に辿り着いたところで、孝一は手を止めた。
(もっと飯を食わせよう)
薄い肉のすぐ下にアバラが感じられ、ふとそんな場違いな考えが彼の頭の中をよぎる。手のひらの下の身体はあまりに華奢で、少し乱暴に扱えば壊してしまいそうだった。
元々、孝一は細身の女の方が好みだったが、そんなふうに思ったことはない。これまで彼が覚えたことのない様々な何かを真白が掻き立てるのだということは、彼も自覚していた――それが良いことなのかそうでないのかは、判らなかったが。
(今は、どうでも、いい)
真白の甘さと温かさに、孝一はのめり込む。
考えることを放棄して、手で滑らかな彼女の肌を、舌で潤った彼女の内側を、思うさまにむさぼる。
それを、やはり従順に受け入れる真白。
不意に。
(このまま彼女を奪ってもいいのか?)
欲望のもやの隙間に閃いた声が、彼を打った。ハッと全身が固まる。
そう、彼女からの明らかな抵抗はないが、今孝一が真白にしていることは『奪う』という表現しか当てはまらない。
これまでに付き合った女たちは皆最初から孝一の身体が目当てで、乞わずとも自らその身を彼の腕に投げ出してきた。
だが、真白は違うのだ。彼女は何も望もうとはしない。
孝一は真白から唇を離し、彼女の顎を伝う唾液をそっと舌の先で拭った。
そうして再び両手で薄紅色に染まった真白の頬を包み込んで軽く唇を合わせる。外側だけをついばむようなキスを何度か残し、とろりと潤んだ彼女の目を覗き込んだ。
「お前が、欲しいよ」
その台詞を、彼は今まで口にしたことがない。
初めて身体を繋いだ相手は五歳年上の家庭教師で、誘ってきたのは彼女の方からだった。
それからも何人もの女を知ったが、彼の方から求めたことは、一度もなかった。求めずとも、常に与えられた。
――だから、こんなふうに切実に何かを望む気持ちが自分の中に生まれるとは、夢想だにしなかった。
真白は大きなその目で真っ直ぐに彼を見返してくる。
「お前が、欲しい」
切望の熱いため息を含んだ声で、孝一はもう一度繰り返す。
互いの鼓動が聞こえるのではないだろうかと思うほどの静寂。
やがて響いた短い一言が、それを破った。
「いいよ」
見下ろす孝一に、真白はもう一度繰り返す――ふわりと淡い微笑みを浮かべて。
「いいよ」
お前も俺を欲しくはないか、とは訊けなかった。何も欲しない彼女にケロリと「いいえ」と言われたくなかった。
だから、孝一は彼女の許しだけを受け取る。
真白の柔らかな唇をむさぼりながら、彼はゆっくりと彼女を抱き上げた。
仕事を終えてどこにも寄ることなく足を踏み入れた電車の中は、いつもとは別世界だった。普段も座れるかどうか、という程度には混んでいるが、この時間帯はレベルが違う。否応なしに他人と密着させられるのがこんなに不快なことだとは、思いも寄らなかった。
(自転車でも買うか)
職場とマンションとの距離は駅三つ分程度なのだから、自転車通勤も可能だ。
だが、ふと頭をよぎったその考えに、それは即ちこれからも自分がこの時間に帰るつもりでいるのだということになるのだと気付き、孝一は眉をしかめる。
そもそも真っ直ぐに帰宅するのは、働き始めてからこの方初めてと言ってもいいくらいではなかろうか。
――何故、自分はこんなふうに家路を急いでいるのか。
(帰れば飯が食えるからな)
十年来の生活が変わりつつあることに対して、孝一は言い訳じみた理由を付ける。
家に帰ればうまい食事が出てくるのだ。別にわざわざ店に寄る必要はない、と。ただそれだけだ、と。
実際、彼が拾った少女は、これまでいったいどんな生活をしていたというのか、予想外に家事に長けていた。
初めの頃は孝一が食べるかどうか判らなかった為か日持ちのするものしか作らなかったが、最近は作っても無駄にならないと確信したらしく、グンとレパートリーが増えている。味も、下手な料理屋に入るのよりも、遥かに良い。
寄り道の目的には食事以外の部分もある――むしろその方が大きかったことは、敢えて無視する。振り返ってみると、前に女を抱いてからもう七日経っていた。いつもならとうに欲求を解消している頃合いだが、最近はその欲求自体が湧いてこない。
最後の行為も日々の習慣、惰性のようなもので、排泄感に似た快感を得ただけだった。あれが打ち止めだったかのように、ぷっつりと女に触れる気が起きない。
別に、体調が悪いわけではない。いや、以前よりも良いと言っていいかもしれない。きっと、前より酒の量が減って、まともな食事を摂るようになったからだろう。
まさかこの年で涸れたわけではあるまいが、ただ、女を欲しいとさっぱり思わなくなったのだ。
そんなふうにつらつら考えているうちに、孝一は家の前に辿り着いていた。
いつものように鍵を開け、玄関に入る。
扉を開けた時にそこが明るいか暗いかというだけで受ける印象がさっぱり違うのだということも、真白が来てから知ったことだ。
頭を下げて靴を脱ぎながら、すっかり耳に慣れた『おかえり』という言葉を無意識に待つ。
が。
廊下にもその先のリビングにも灯りは煌々と点いているというのに、静まり返っている。
(まさか、出て行った?)
ふと浮かんだその考えに一瞬身体が固まったが、すぐにそれを打ち消した。
真白に鍵は渡していないから、玄関のロックがかかっていたということは家の中に居るということの筈だ。
眉をひそめながら孝一は靴を脱ぎ、部屋に向かう。
それでも、やはり、いつもの声と姿が出てこない。孝一の肩と背中が、まるで鋼の板でも仕込まれたかのように強張った。
「……シロ?」
彼女の名を呟いた孝一だったが、それが呼びかけるというよりもその存在を確かめる声音になっていることに、彼自身気付いていなかった。
「シロ?」
もう一度、囁き声でその名を口にしながら、リビングに足を踏み入れる。
――いた。
ソファの上で丸くなっている、小さな身体。
それを目にした瞬間、孝一の全身から一気に力が抜ける。足音を忍ばせてそこに近付き、殆どへたり込むようにして座り込んだ。
真白はその気配に気付くことなくすやすやと眠り続けている。
人の気も知らないで。
孝一の中にパッと浮かんだのはその台詞だ。
平和な寝顔に抱いたのが怒りの念なのか、それとも安堵の念なのか、彼自身にも判らなかった。
片腕をソファに載せて寄り掛かり、孝一は真白を見つめる。彼女が来てから二週間ほどになるが、そう言えば一度も寝ている姿を見たことはなかった。
普段も真白はこのソファで寝ている筈だけれども、孝一が寝室に引き取るまでは起きているし、彼がリビングに姿を現す頃には完璧に朝食の用意を整えて澄ましている。
こんなふうに無防備な姿を見せることは、決してなかった。
この部屋の中で共に過ごす時、真白は必ず孝一のすぐ傍に居る。
けれど、触れんばかりのところにいても、彼女との間には薄紙を挟んだような『距離』を常に感じていた。真白は、決してそれをゼロにしようとはしない。
一見犬のように献身的だ。それでいて、ノラ猫が気まぐれに懐くように、喉を鳴らして寄ってきた瞬間、ふいとどこかに行ってしまいそうな不確かさが常に付きまとう。
孝一は、彼女の頬にかかっている栗色の髪をひと房つまみ上げる。それは驚くほどに柔らかく、ほんの少しでも手荒に扱えばすぐに千切れてしまいそうだった。
そっと指先に巻き付けてみても、それは抗うことなく絡んでくる。口元に寄せると、甘い香りが漂った。シャンプーは彼と同じものを使っている筈なのに、彼女は孝一とはまったく違う匂いをまとっている。
こめかみの辺りに指を差し込んで髪を背中に流してやると、滑らかな白い頬が露わになった。来たばかりの頃はやせぎすだったそれが、今は丸みを帯びつつある。
と、肌に触れられたのを感じたのか、閉じられていた彼女の唇が微かにほころんだ。
何もつけていないのに艶やかで柔らかそうなそれに、孝一の目が吸い寄せられる。
(甘そうだ)
そんな考えが脳裏を走った瞬間、孝一の下腹がズクンと疼いた。その衝動に、思わず顔を歪める。
今彼の中にあるのは、ごまかしようのない『欲望』だった。それは理性を鈍らせ、孝一の奥に潜んでいたより原始的な何かを引きずり出す。
(こいつが、欲しい)
頭の中に湧き上がったその欲求に、彼は顔を歪める。
出会った時、孝一は真白に「女に不自由はしていない」と言った。
あの時のその台詞は真実だったが、今は彼女が欲しい。それも、今まで誰にも感じたことのないような、強さで欲している。
だが――この欲求は、果たして『女』に対して抱いているものなのだろうか。
真白に触れたい。
触れる以上に近付きたい。
彼女が常に身にまとっている薄布を引き裂いて、決して孝一には見せようとしないその内側をさらけ出させたい。
そして、真白にも、彼が欲しいと言わせたい――孝一といても、何一つ求めてこない彼女に。
この数日来モヤモヤと彼の中にわだかまっていた願望が、一気に明確な形を取る。
今まで『女』に対してそんなことを望んだことはなかった。
彼女たちからは肉体的な快楽を得られればそれで良かったのだ。
彼の中にその欲望が生じたのは、目の前で無防備な姿をさらす女に対する単純な生理的欲求のせいなのか。
それとも――彼に対して興味を示さない女が存在することに自尊心が傷付けられたせいなのか。
孝一の中に残っているまともな部分は、それ以上真白に触れるべきではないと警告を発していた。そんな事をするつもりでこの家に入れたわけではなかっただろう、と。
だが。
(あんなにあっさりと俺に付いてきたんだ。他の男にも同じようにしているに決まってる)
あの時の真白に躊躇いはなく、見知らぬ男に付いていくことは至極当然の成り行きのようだった。そして、下心なく女を泊める男は滅多にいない。
真白は家事も得意で、行動面には幼さを感じない。外見からも十八は超えていそうだが、二十歳にはなっていないのは確かだろう。
いつからこんな生活をしているのかは知らないが、きっと、男たちの間を渡り歩いてきたに違いない。
(だから、俺も触れていい筈だ)
免罪符のように胸の中でそう呟いた孝一だったが、ふとそこに、小さな疑問が忍び込んできた。
彼らには、真白はどんな態度を取っていたのだろう、と。
孝一と同じなのか――それとももっと彼女自身を見せていたのだろうか。
その考えに、彼の腹の底はざわついた。いや、煮え立ったというべきか。
気付けば、孝一の両手は真白の頬に伸びていた。
彼の手のひらには余るそれをしっかりと包み込み、わずかに上向かせる。右手の親指を彼女の下唇に這わせると、思っていた以上に柔らかかった。
指でそれをねぶるうちに、真白のまつ毛が震え始める。彼女の目蓋が上がり、寝ぼけて焦点の合わない目が孝一を捉えた。
「コウ……?」
彼の名を呼ぶその声が消えぬうちに、孝一は彼女の唇を奪った。息を呑んだ隙を突いて舌を割り込ませ、反射のようにビクリと跳ね起きようとした身体は全身を使って押さえ込む。
それでも、拒まれれば止めようと思っていた。
だが、真白はされるがままになっている。
孝一を拒絶はしていない。けれど、求めてもいない。
ただ、彼を受け入れるだけだ。
孝一は何か反応を引き出そうと、真白の狭い口内の隅々まで舌を使って探索する。彼女の小さく滑らかな舌を探り、絡め取っては丹念になぶると、真白は喉の奥で仔猫の鳴き声のような音を漏らした。
それが合図であったかのように、真白の全身から力が抜ける。
孝一は顔を上げ、彼女の目を覗き込んだ。驚いた子どものように大きく見開かれた目尻には雫が滲んでいるが、その眼差しに嫌悪の色はない。それだけを確認し、彼は再び頭を下げた。
微かに腫れた真白の下唇を甘噛みし、そっと舌で辿る。そうして緩んだ隙間から、もう一度やんわりと侵入する。
ゆっくりと舌の表面をこすり合わせながら孝一は片手を下げ、真白のシャツの下へと忍び込ませた。
「ぅンッ」
彼女の鼻先から漏れた息が頬をくすぐり、孝一の背筋をゾクゾクと興奮が走り抜ける。指先で脇腹の柔らかい素肌に触れると、彼女の両手がギュッと孝一のシャツを握り締めてきた。押しやられないのは許諾の証だと勝手に結論付けて、孝一は彼女の脇腹を掴むように押し当てた手を上へと滑らせる。
時折真白の肩がピクリと震え、彼女の中を探る孝一の舌に歯が立てられた。力が入ったのは一瞬のことですぐさま我に返った様子でまた緩むが、甘噛みされるようなその感覚は下手に舌を絡められるよりも遥かに彼を煽る。
親指が大きくはない胸の下に辿り着いたところで、孝一は手を止めた。
(もっと飯を食わせよう)
薄い肉のすぐ下にアバラが感じられ、ふとそんな場違いな考えが彼の頭の中をよぎる。手のひらの下の身体はあまりに華奢で、少し乱暴に扱えば壊してしまいそうだった。
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(今は、どうでも、いい)
真白の甘さと温かさに、孝一はのめり込む。
考えることを放棄して、手で滑らかな彼女の肌を、舌で潤った彼女の内側を、思うさまにむさぼる。
それを、やはり従順に受け入れる真白。
不意に。
(このまま彼女を奪ってもいいのか?)
欲望のもやの隙間に閃いた声が、彼を打った。ハッと全身が固まる。
そう、彼女からの明らかな抵抗はないが、今孝一が真白にしていることは『奪う』という表現しか当てはまらない。
これまでに付き合った女たちは皆最初から孝一の身体が目当てで、乞わずとも自らその身を彼の腕に投げ出してきた。
だが、真白は違うのだ。彼女は何も望もうとはしない。
孝一は真白から唇を離し、彼女の顎を伝う唾液をそっと舌の先で拭った。
そうして再び両手で薄紅色に染まった真白の頬を包み込んで軽く唇を合わせる。外側だけをついばむようなキスを何度か残し、とろりと潤んだ彼女の目を覗き込んだ。
「お前が、欲しいよ」
その台詞を、彼は今まで口にしたことがない。
初めて身体を繋いだ相手は五歳年上の家庭教師で、誘ってきたのは彼女の方からだった。
それからも何人もの女を知ったが、彼の方から求めたことは、一度もなかった。求めずとも、常に与えられた。
――だから、こんなふうに切実に何かを望む気持ちが自分の中に生まれるとは、夢想だにしなかった。
真白は大きなその目で真っ直ぐに彼を見返してくる。
「お前が、欲しい」
切望の熱いため息を含んだ声で、孝一はもう一度繰り返す。
互いの鼓動が聞こえるのではないだろうかと思うほどの静寂。
やがて響いた短い一言が、それを破った。
「いいよ」
見下ろす孝一に、真白はもう一度繰り返す――ふわりと淡い微笑みを浮かべて。
「いいよ」
お前も俺を欲しくはないか、とは訊けなかった。何も欲しない彼女にケロリと「いいえ」と言われたくなかった。
だから、孝一は彼女の許しだけを受け取る。
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