夜を越えて巡る朝

トウリン

文字の大きさ
上 下
20 / 30

混乱、衝動

しおりを挟む
 キーツから取り敢えず部屋に行くようにと言われ、イチはそのとおりにした。
 寝台に横たわって目を閉じる。
 無意識のうちに両手が上がり、奇妙にざわめく胸の上に置かれた。
 自分よりは年上の、けれどもこの砦にいる他の男たちほど大人ではない、あの人。
 目を開けて、あの時掴まれたところを見る。
 まだはっきりと覚えている感触に、何かが残っているのかと目を凝らしてみたが、そこには何も見つからない。
 彼の手は少し汗ばんで、熱でもあるかのように熱かった。
 そして、その目はイチの紅い瞳を真っ直ぐに見つめて──
 胸のざわめきはより一層強くなり、じっとしていることができなくなった。
 起き上がり、寝台から下りたイチは、窓に足を向ける。
 ここは三階だけれども、イチにとってはたいした問題ではなかった。
 開け放った窓から、ふわりと身を躍らせる。
 その行動がキーツから言われたことに反しているということは充分解っていたけれど、部屋に戻っておとなしく寝ていることは、到底できそうも無かった。
 そのまま正門に向かい、監視の目に付かないようにして外に出る。
 地面に手を触れたイチは、そこに刻まれた無数の気配からただ一人のものを選び出して、そこから繋がる糸を辿った。
 ここからそう遠くないところに、その人は、居た。

   *

 会議用のテントを後にし、省吾は少し頭を冷やそうと、人気の無いところを探してうろついていた。
 あの時、自分がどんなに愚かなことをしようとしていたかは、年長者に言われなくても充分に理解している。しかし、再び同じ状況になったとして、あのような行動を取らないと完全には言い切れない己がいることもまた、明確な事実だった。
 周囲に誰もいないことを確認し、手近な倒木に腰を下ろした。
「冷静になれよ。でないと、あの子には逢えない……あの子を連れ出すことなんて、できないんだ」
 じっくりと馬鹿な頭に言い聞かせた、その時、背後で木の葉が擦れる音がした。
 獣でも寄ってきたかと、振り向きざまに銃を抜き、音のした方へと向けた省吾は、次の瞬間、信じられないものを目にし、危うく手の中の銃を取り落としそうになった。

   *

 あの人の気配がどんどん強くなる。
 イチは時々砦の方の様子を探りながら、殆ど小走りといってもいいほどの速さで森の中を進んでいた。
 今、この瞬間も、あの人が自分のことを考えているということが伝わってくる。その感じは軍の人たちが彼女に向けるようなものではなく、もっと温かくて、イチを強く引き付けるものだった。
 もうすぐそこだと、と、イチは目の前の茂みをそっと掻き分ける。

 いた。

 その姿を視界に入れた途端、どきりと、胸が高鳴った。
 銃口が真っ直ぐに自分に向けられているのが見えたけれど、そんなものよりも、その人の表情の方が余程怖かった。
 彼の黒い目は、信じられないものを見たように大きく開かれている。
 やはり、彼もわたしが『怖い』のだろうか。
 そう思いかけたイチに、彼の想いが一気に吹き付けられた。
 ──逢いたい、逢えた、逢えた。
 それは、洪水のようにイチを包み込む。どうしたらいいのか判らなくて、まるで氷の中に閉じ込められたように身動き一つできず、呼吸することすら忘れていた。
「どうして、ここに……」
 彼がそう呟くのが聞こえたけれども、イチ自身よく解らない衝動に突き動かされて来てしまったのだから、答えることなどできる筈もなかった。

 押し黙ったままのイチに、彼が一歩を踏み出す。
「逃げるな!」
 思わず後退ったイチを、その声の中の必死な響きが射竦めた。
 ピタリと動きを止めたイチに、彼は少し困ったような顔になる。
「違う……怖がらないでくれ……傷付けたりするつもりは、全然無いんだ。俺の名前は省吾──省吾だ」
 固まったままのイチの耳に、省吾の名前が温かく染み込んでいく。じっと、不思議な優しい温もりを胸の中で抱き締めていたイチだったけれど、次に続いた彼の言葉が彼女に混乱をもたらした。

「あんたは……? あんたは、何て名前なんだ?」

 何故、即座に答えることができないのか。
 大きな目を更に見開いて、瞬き一つできなかった。
 キーツが付けた『イチ』という『名前』。それを告げればいいということは解っている。しかし、どうしてか喉元で引っ掛かり、その『名前』は口から出てこない。
 言うことが見つからなくて、イチはただひたすら省吾を見つめた。
「何で、そんな顔をするんだ?」
 彼のそんな言葉が聞こえたが、イチには自分が今どんな顔をしているのかも判らない。

 イチが見つめる中、省吾が動いた。
 誰もが気味悪がるイチの真紅の瞳が真っ直ぐに向けられていることを疎む気配など微塵も見せず、一歩一歩、ゆっくりと、だが確実に近付いてくる。

 彼の目は、真っ黒だった。

 その目は、イチの紅い目を捉えて離さない。

 あと、一歩。

 そして。

 ――気付けば、イチは省吾が伸ばしていた手を全身で拒絶していた。
 今にもイチに触れようとしていた省吾の手を拒んだ『壁』はそれだけに止まらず、省吾は丸ごと弾き飛ばされ、背後の大木へと叩き付けられた。
「省吾!」
 飛び出してきた大柄な男が省吾を抱き起こしたのが目の端に映ったけれど、ほぼ同時に、イチは身を翻して走り出していた。
 何かを叫ぶ省吾の声を、背中で受ける。

 何故、あんなことをしてしまったのか。
 彼を傷付けたくはなかったのに。

 混乱した思いが、どうしようもなくイチを突き動かす。
 触れて欲しかった。でも、触れられるのが、怖かった。
 相反する気持ちが、イチの頭の中を掻き乱す。
 何もかもがぐちゃぐちゃだったが、唯一つ、これでもう、あの人は他の人たちと同じような目で自分を見るようになるだろうということだけははっきりしていた。
 そう、それだけは解っている。
 喉元につかえた熱く重い塊が、苦しかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

壁の薄いアパートで、隣の部屋から喘ぎ声がする

サドラ
恋愛
最近付き合い始めた彼女とアパートにいる主人公。しかし、隣の部屋からの喘ぎ声が壁が薄いせいで聞こえてくる。そのせいで欲情が刺激された両者はー

結構な性欲で

ヘロディア
恋愛
美人の二十代の人妻である会社の先輩の一晩を独占することになった主人公。 執拗に責めまくるのであった。 彼女の喘ぎ声は官能的で…

【R18】エリートビジネスマンの裏の顔

白波瀬 綾音
恋愛
御社のエース、危険人物すぎます​─​──​。 私、高瀬緋莉(27)は、思いを寄せていた業界最大手の同業他社勤務のエリート営業マン檜垣瑤太(30)に執着され、軟禁されてしまう。 同じチームの後輩、石橋蓮(25)が異変に気付くが…… この生活に果たして救いはあるのか。 ※完結済み、手直ししながら随時upしていきます ※サムネにAI生成画像を使用しています

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

美少女幼馴染が火照って喘いでいる

サドラ
恋愛
高校生の主人公。ある日、風でも引いてそうな幼馴染の姿を見るがその後、彼女の家から変な喘ぎ声が聞こえてくるー

処理中です...