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混乱、衝動
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キーツから取り敢えず部屋に行くようにと言われ、イチはそのとおりにした。
寝台に横たわって目を閉じる。
無意識のうちに両手が上がり、奇妙にざわめく胸の上に置かれた。
自分よりは年上の、けれどもこの砦にいる他の男たちほど大人ではない、あの人。
目を開けて、あの時掴まれたところを見る。
まだはっきりと覚えている感触に、何かが残っているのかと目を凝らしてみたが、そこには何も見つからない。
彼の手は少し汗ばんで、熱でもあるかのように熱かった。
そして、その目はイチの紅い瞳を真っ直ぐに見つめて──
胸のざわめきはより一層強くなり、じっとしていることができなくなった。
起き上がり、寝台から下りたイチは、窓に足を向ける。
ここは三階だけれども、イチにとってはたいした問題ではなかった。
開け放った窓から、ふわりと身を躍らせる。
その行動がキーツから言われたことに反しているということは充分解っていたけれど、部屋に戻っておとなしく寝ていることは、到底できそうも無かった。
そのまま正門に向かい、監視の目に付かないようにして外に出る。
地面に手を触れたイチは、そこに刻まれた無数の気配からただ一人のものを選び出して、そこから繋がる糸を辿った。
ここからそう遠くないところに、その人は、居た。
*
会議用のテントを後にし、省吾は少し頭を冷やそうと、人気の無いところを探してうろついていた。
あの時、自分がどんなに愚かなことをしようとしていたかは、年長者に言われなくても充分に理解している。しかし、再び同じ状況になったとして、あのような行動を取らないと完全には言い切れない己がいることもまた、明確な事実だった。
周囲に誰もいないことを確認し、手近な倒木に腰を下ろした。
「冷静になれよ。でないと、あの子には逢えない……あの子を連れ出すことなんて、できないんだ」
じっくりと馬鹿な頭に言い聞かせた、その時、背後で木の葉が擦れる音がした。
獣でも寄ってきたかと、振り向きざまに銃を抜き、音のした方へと向けた省吾は、次の瞬間、信じられないものを目にし、危うく手の中の銃を取り落としそうになった。
*
あの人の気配がどんどん強くなる。
イチは時々砦の方の様子を探りながら、殆ど小走りといってもいいほどの速さで森の中を進んでいた。
今、この瞬間も、あの人が自分のことを考えているということが伝わってくる。その感じは軍の人たちが彼女に向けるようなものではなく、もっと温かくて、イチを強く引き付けるものだった。
もうすぐそこだと、と、イチは目の前の茂みをそっと掻き分ける。
いた。
その姿を視界に入れた途端、どきりと、胸が高鳴った。
銃口が真っ直ぐに自分に向けられているのが見えたけれど、そんなものよりも、その人の表情の方が余程怖かった。
彼の黒い目は、信じられないものを見たように大きく開かれている。
やはり、彼もわたしが『怖い』のだろうか。
そう思いかけたイチに、彼の想いが一気に吹き付けられた。
──逢いたい、逢えた、逢えた。
それは、洪水のようにイチを包み込む。どうしたらいいのか判らなくて、まるで氷の中に閉じ込められたように身動き一つできず、呼吸することすら忘れていた。
「どうして、ここに……」
彼がそう呟くのが聞こえたけれども、イチ自身よく解らない衝動に突き動かされて来てしまったのだから、答えることなどできる筈もなかった。
押し黙ったままのイチに、彼が一歩を踏み出す。
「逃げるな!」
思わず後退ったイチを、その声の中の必死な響きが射竦めた。
ピタリと動きを止めたイチに、彼は少し困ったような顔になる。
「違う……怖がらないでくれ……傷付けたりするつもりは、全然無いんだ。俺の名前は省吾──省吾だ」
固まったままのイチの耳に、省吾の名前が温かく染み込んでいく。じっと、不思議な優しい温もりを胸の中で抱き締めていたイチだったけれど、次に続いた彼の言葉が彼女に混乱をもたらした。
「あんたは……? あんたは、何て名前なんだ?」
何故、即座に答えることができないのか。
大きな目を更に見開いて、瞬き一つできなかった。
キーツが付けた『イチ』という『名前』。それを告げればいいということは解っている。しかし、どうしてか喉元で引っ掛かり、その『名前』は口から出てこない。
言うことが見つからなくて、イチはただひたすら省吾を見つめた。
「何で、そんな顔をするんだ?」
彼のそんな言葉が聞こえたが、イチには自分が今どんな顔をしているのかも判らない。
イチが見つめる中、省吾が動いた。
誰もが気味悪がるイチの真紅の瞳が真っ直ぐに向けられていることを疎む気配など微塵も見せず、一歩一歩、ゆっくりと、だが確実に近付いてくる。
彼の目は、真っ黒だった。
その目は、イチの紅い目を捉えて離さない。
あと、一歩。
そして。
――気付けば、イチは省吾が伸ばしていた手を全身で拒絶していた。
今にもイチに触れようとしていた省吾の手を拒んだ『壁』はそれだけに止まらず、省吾は丸ごと弾き飛ばされ、背後の大木へと叩き付けられた。
「省吾!」
飛び出してきた大柄な男が省吾を抱き起こしたのが目の端に映ったけれど、ほぼ同時に、イチは身を翻して走り出していた。
何かを叫ぶ省吾の声を、背中で受ける。
何故、あんなことをしてしまったのか。
彼を傷付けたくはなかったのに。
混乱した思いが、どうしようもなくイチを突き動かす。
触れて欲しかった。でも、触れられるのが、怖かった。
相反する気持ちが、イチの頭の中を掻き乱す。
何もかもがぐちゃぐちゃだったが、唯一つ、これでもう、あの人は他の人たちと同じような目で自分を見るようになるだろうということだけははっきりしていた。
そう、それだけは解っている。
喉元につかえた熱く重い塊が、苦しかった。
寝台に横たわって目を閉じる。
無意識のうちに両手が上がり、奇妙にざわめく胸の上に置かれた。
自分よりは年上の、けれどもこの砦にいる他の男たちほど大人ではない、あの人。
目を開けて、あの時掴まれたところを見る。
まだはっきりと覚えている感触に、何かが残っているのかと目を凝らしてみたが、そこには何も見つからない。
彼の手は少し汗ばんで、熱でもあるかのように熱かった。
そして、その目はイチの紅い瞳を真っ直ぐに見つめて──
胸のざわめきはより一層強くなり、じっとしていることができなくなった。
起き上がり、寝台から下りたイチは、窓に足を向ける。
ここは三階だけれども、イチにとってはたいした問題ではなかった。
開け放った窓から、ふわりと身を躍らせる。
その行動がキーツから言われたことに反しているということは充分解っていたけれど、部屋に戻っておとなしく寝ていることは、到底できそうも無かった。
そのまま正門に向かい、監視の目に付かないようにして外に出る。
地面に手を触れたイチは、そこに刻まれた無数の気配からただ一人のものを選び出して、そこから繋がる糸を辿った。
ここからそう遠くないところに、その人は、居た。
*
会議用のテントを後にし、省吾は少し頭を冷やそうと、人気の無いところを探してうろついていた。
あの時、自分がどんなに愚かなことをしようとしていたかは、年長者に言われなくても充分に理解している。しかし、再び同じ状況になったとして、あのような行動を取らないと完全には言い切れない己がいることもまた、明確な事実だった。
周囲に誰もいないことを確認し、手近な倒木に腰を下ろした。
「冷静になれよ。でないと、あの子には逢えない……あの子を連れ出すことなんて、できないんだ」
じっくりと馬鹿な頭に言い聞かせた、その時、背後で木の葉が擦れる音がした。
獣でも寄ってきたかと、振り向きざまに銃を抜き、音のした方へと向けた省吾は、次の瞬間、信じられないものを目にし、危うく手の中の銃を取り落としそうになった。
*
あの人の気配がどんどん強くなる。
イチは時々砦の方の様子を探りながら、殆ど小走りといってもいいほどの速さで森の中を進んでいた。
今、この瞬間も、あの人が自分のことを考えているということが伝わってくる。その感じは軍の人たちが彼女に向けるようなものではなく、もっと温かくて、イチを強く引き付けるものだった。
もうすぐそこだと、と、イチは目の前の茂みをそっと掻き分ける。
いた。
その姿を視界に入れた途端、どきりと、胸が高鳴った。
銃口が真っ直ぐに自分に向けられているのが見えたけれど、そんなものよりも、その人の表情の方が余程怖かった。
彼の黒い目は、信じられないものを見たように大きく開かれている。
やはり、彼もわたしが『怖い』のだろうか。
そう思いかけたイチに、彼の想いが一気に吹き付けられた。
──逢いたい、逢えた、逢えた。
それは、洪水のようにイチを包み込む。どうしたらいいのか判らなくて、まるで氷の中に閉じ込められたように身動き一つできず、呼吸することすら忘れていた。
「どうして、ここに……」
彼がそう呟くのが聞こえたけれども、イチ自身よく解らない衝動に突き動かされて来てしまったのだから、答えることなどできる筈もなかった。
押し黙ったままのイチに、彼が一歩を踏み出す。
「逃げるな!」
思わず後退ったイチを、その声の中の必死な響きが射竦めた。
ピタリと動きを止めたイチに、彼は少し困ったような顔になる。
「違う……怖がらないでくれ……傷付けたりするつもりは、全然無いんだ。俺の名前は省吾──省吾だ」
固まったままのイチの耳に、省吾の名前が温かく染み込んでいく。じっと、不思議な優しい温もりを胸の中で抱き締めていたイチだったけれど、次に続いた彼の言葉が彼女に混乱をもたらした。
「あんたは……? あんたは、何て名前なんだ?」
何故、即座に答えることができないのか。
大きな目を更に見開いて、瞬き一つできなかった。
キーツが付けた『イチ』という『名前』。それを告げればいいということは解っている。しかし、どうしてか喉元で引っ掛かり、その『名前』は口から出てこない。
言うことが見つからなくて、イチはただひたすら省吾を見つめた。
「何で、そんな顔をするんだ?」
彼のそんな言葉が聞こえたが、イチには自分が今どんな顔をしているのかも判らない。
イチが見つめる中、省吾が動いた。
誰もが気味悪がるイチの真紅の瞳が真っ直ぐに向けられていることを疎む気配など微塵も見せず、一歩一歩、ゆっくりと、だが確実に近付いてくる。
彼の目は、真っ黒だった。
その目は、イチの紅い目を捉えて離さない。
あと、一歩。
そして。
――気付けば、イチは省吾が伸ばしていた手を全身で拒絶していた。
今にもイチに触れようとしていた省吾の手を拒んだ『壁』はそれだけに止まらず、省吾は丸ごと弾き飛ばされ、背後の大木へと叩き付けられた。
「省吾!」
飛び出してきた大柄な男が省吾を抱き起こしたのが目の端に映ったけれど、ほぼ同時に、イチは身を翻して走り出していた。
何かを叫ぶ省吾の声を、背中で受ける。
何故、あんなことをしてしまったのか。
彼を傷付けたくはなかったのに。
混乱した思いが、どうしようもなくイチを突き動かす。
触れて欲しかった。でも、触れられるのが、怖かった。
相反する気持ちが、イチの頭の中を掻き乱す。
何もかもがぐちゃぐちゃだったが、唯一つ、これでもう、あの人は他の人たちと同じような目で自分を見るようになるだろうということだけははっきりしていた。
そう、それだけは解っている。
喉元につかえた熱く重い塊が、苦しかった。
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