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第三章:角笛の音色と新たな夜明け
戦いの果てにあるもの①
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夕闇が訪れニダベリルの一波が引き上げていった後、戦場に残されたのはグランゲルドの兵士と――自らの足では撤退できなかったニダベリルの負傷兵と戦死者だった。
戦場で、必ずしも相手の息の根を止める必要はない。その手間をわざわざかけずとも、戦うことができない程度の手傷を負わせればいい。
だから、死者の数はそう多くない――多くはないが、命を落とした者がいることは、目を背けることのできない事実だった。
フリージアは踏み荒らされた大地を見渡す。月明かりと篝火に照らされて、ところどころに黒ずんだ染みがあるのが見て取れた。それが何なのか、彼女は知っている。
ニダベリル兵も、グランゲルド兵も、流す血の色は同じなのだ。地面に残されているその黒ずみがどちらの兵の残したものなのか、区別はつかない。
戦いが終わると、フリージアの胸の中に滾《たぎ》っていた燃え盛る炎のような感情はすっかり鳴りを潜め、冷たく重苦しいものが取って代わっている。戦っている最中はニダベリル兵が傷付く姿に何も感じなかったのに、今はどちらの軍の者であるかに拘わらず、とにかく誰かが血を流したのだということに胸が疼いた。
戦いには――ヒトがヒトを傷付けるということには、感覚を狂わせる何かがあるのかもしれない。
フリージアは小さく息をつくと仲間に置いていかれたニダベリル兵を一ヵ所に集め、無傷のグランゲルド兵に死者の埋葬と負傷者の手当てをするように指示を出す。応急処置程度なら、軍医を駆り出す必要はないだろう。一般の兵士達でも充分に事足りる。取り敢えず捕虜は拘束しておくとして、その後の処遇をどうするかは、戦いが終わった後に決めればいい。
「こっちはどのくらいやられたの?」
フリージアは軍医が詰めている天幕へと向かいながら、バイダルへ問いかける。捕虜となったニダベリルの兵士は、八十三名だった。そして、橋のこちら側に残されたニダベリル側の死者は八名。橋の向こうに戻りはしたが戦うことはできない者も、多少はいるだろう。それに対して、グランゲルド側の損害はどれほどなのか。
彼女の問いに、バイダルが淡々と答える。
「戦線復帰が困難な者は紅竜軍で十二名、黒鉄軍で九名だ。他にも負傷者はいるが、皆戦闘は継続可能だ。死者は二名――今のところは」
「今のところは……?」
フリージアは胸の痛みを堪えながら、バイダルが付け足したその一言を繰り返す。二名でも、充分だった。それが更に増えるのか。
「一人、かなり危ない者がいるらしい」
「危ない?」
「ああ」
フリージアの足が思わず止まる。
「ジア」
「大丈夫……大丈夫だよ、オル」
彼女の肩に手を置いたオルディンに振り返り、フリージアは笑顔を作った。彼がそれにごまかされたとは思えないが、それ以上言葉を重ねることなくオルディンは手を下ろす。
「早く行こう」
そう言って、また足を踏み出した。フリージアが行ってどうなるものでもない。だが、それでも、行かずにはいられなかった。
負傷兵がいる天幕は、かなり後方に設置されている。フリージアは走っていきたい気持ちをこらえながら、すれ違う兵士達に労う言葉をかけつつ先を急いだ。
初戦を勝利で飾った為か、彼らの士気は戦いが始まる前よりも更に高揚しているようだった。戦いの直後だというのに、彼らは笑顔さえ見せている――フリージアへの溢れんばかりの信頼と共に。
それが、今の彼女には、痛い。握り締めた手のひらに爪が食い込んだが、何も感じなかった。
やがて負傷者の集められている天幕に辿り着いたが、怪我人がいる筈のそこから、苦痛の呻き声は聞こえてこなかった。入口の垂れ幕をよけようとして手を差し入れ、フリージアは一瞬止まる。一つ息をつき、そして中に入った。
「ロウグ将軍」
彼女が姿を見せると、すぐに軍医は患者に向けて伏せていた顔を上げた。天幕の中には五人の兵が横たえられていて、三人の医者が彼らの手当てを続けている。動ける程度の傷の者は、すでに治療を終えてそれぞれの寝床に戻っているようだ。残っているのは、動かすことができない程の重傷者なのだろう。
「様子はどう? あ、そのままでいいよ。動かないで」
フリージアに気付いて傷付いた兵達が身体を起こそうとするのへ、慌てて声をかける。動いたのは四人だけで、一人はぐったりと横たわったままだった。恐らく、彼が最も怪我がひどいのだろう。フリージアはその一人へと歩み寄る。
「治る? 治せるの?」
傍らにひざまずき、フリージアは軍医へと問いかけた。「もちろん」と答えて欲しかった。けれど、彼は、黙って首を振る。
フリージアは喉の奥にこみ上げてきた塊を押し戻そうと、唾を呑み込んだ。震えそうになる唇をきつく噛み締める。
力なく目を閉じている負傷兵は、紅竜軍の者だ。その腹には包帯が巻かれており、そこには赤いものがべったりと滲み出していた。
彼は、あの時の兵なのだ。
フリージアの脳裏に、部隊の交代を一瞬迷った時のことがよみがえる――紅竜軍の一人が脇腹を貫かれ、馬から転げ落ちた光景を。あの時彼女がもう少し早く決断を下していれば、この男はこんな怪我を負わなくて済んでいたかもしれないのだ。
――あたしの所為だ。
それは明白な事実だった。フリージアの判断の遅れが、彼の命運を決したのだ。
「エイル……」
あの力なら、治せる。
彼女は咄嗟にそう思ったが、立ち上がりそうになったのを腿に爪を立てて辛うじてとどまる。
エイルの力を使うわけにはいかなかった。こうなったのは、フリージアの所為だ。一度それを許せば、彼女がしくじる度にエイルに尻拭いをさせることになる。それを自分に許すわけにはいかなかった。
――ごめん。ごめん。ごめん。
何度彼に謝っても彼女の失態は拭い去れるものではなかったが、それでも胸の中で繰り返す。
と。
「……将軍?」
消え入りそうな声と共に、彼が薄っすらと目を開けた。
「気が付いた?」
フリージアが手を取り笑いかけると、彼も血の気を失った口元を微かに緩める。
「彼の名はダグだ」
小さな声で、バイダルが彼女の耳元で囁く。
「ニダ、ベリル軍は……」
震える声でそう訊いてくるダグに、フリージアは力強く頷いた。
「大丈夫、追い払ったよ。今日のところはこっちの勝ち。ダグが頑張ってくれたからだ」
「そう……ですか……」
ホッとしたように微笑むダグの命の灯は、今にも掻き消えそうだ。それを引き止めるように、フリージアは彼の手を握る指に力を込める。
「きっと、勝つよ。そうしたら帰ろう。ダグのことも絶対に連れて帰るから。絶対に、置いていかない。だからそれまで待っててよ」
「はい……はい――待ってます……」
一瞬、ダグがフリージアの手を握り返してきたような気がした。が、直後それは全ての力を失う。
滑り落ちそうになったその手を捕まえ直して、フリージアはそっと声をかける。
「ダグ……?」
応えは、なかった。フリージアの手の中のダグの指先はまだ温かい。けれど、彼は逝ってしまったのだ。
「ごめ……ありがとう。絶対に、グランゲルドを守ってみせる。そして、君を家に帰すから。君を待っている人のところに、連れ帰るから」
フリージアは囁きながら次第に温もりを失いつつある彼の手を額に押し当て、そして下ろす。両手を彼の胸の上で組ませて毛布を掛けた。
そうしながら、フリージアは胸の中であらん限りの言葉を駆使して罵り続ける。
ニダベリルを、否――彼女自身を。自分の迷いが彼を死なせたのだということを、その胸に刻み込んだ。
不思議なほどに穏やかなダグの顔をもう一度見つめ、フリージアは立ち上がる。
「じゃあ、先生、みんなをお願いね」
そう頭を下げた彼女を軍医は何か言いたそうに見たが、結局頷いただけだった。
「はい、お任せを――他の者は、皆元気になりますから」
フリージアに言い含めるように、そう断言する。多分、それは彼女を励ます意図も含んでいるのだろう。それが感じられ、フリージアは医師に笑顔を見せた。
「ありがとう」
戦場で、必ずしも相手の息の根を止める必要はない。その手間をわざわざかけずとも、戦うことができない程度の手傷を負わせればいい。
だから、死者の数はそう多くない――多くはないが、命を落とした者がいることは、目を背けることのできない事実だった。
フリージアは踏み荒らされた大地を見渡す。月明かりと篝火に照らされて、ところどころに黒ずんだ染みがあるのが見て取れた。それが何なのか、彼女は知っている。
ニダベリル兵も、グランゲルド兵も、流す血の色は同じなのだ。地面に残されているその黒ずみがどちらの兵の残したものなのか、区別はつかない。
戦いが終わると、フリージアの胸の中に滾《たぎ》っていた燃え盛る炎のような感情はすっかり鳴りを潜め、冷たく重苦しいものが取って代わっている。戦っている最中はニダベリル兵が傷付く姿に何も感じなかったのに、今はどちらの軍の者であるかに拘わらず、とにかく誰かが血を流したのだということに胸が疼いた。
戦いには――ヒトがヒトを傷付けるということには、感覚を狂わせる何かがあるのかもしれない。
フリージアは小さく息をつくと仲間に置いていかれたニダベリル兵を一ヵ所に集め、無傷のグランゲルド兵に死者の埋葬と負傷者の手当てをするように指示を出す。応急処置程度なら、軍医を駆り出す必要はないだろう。一般の兵士達でも充分に事足りる。取り敢えず捕虜は拘束しておくとして、その後の処遇をどうするかは、戦いが終わった後に決めればいい。
「こっちはどのくらいやられたの?」
フリージアは軍医が詰めている天幕へと向かいながら、バイダルへ問いかける。捕虜となったニダベリルの兵士は、八十三名だった。そして、橋のこちら側に残されたニダベリル側の死者は八名。橋の向こうに戻りはしたが戦うことはできない者も、多少はいるだろう。それに対して、グランゲルド側の損害はどれほどなのか。
彼女の問いに、バイダルが淡々と答える。
「戦線復帰が困難な者は紅竜軍で十二名、黒鉄軍で九名だ。他にも負傷者はいるが、皆戦闘は継続可能だ。死者は二名――今のところは」
「今のところは……?」
フリージアは胸の痛みを堪えながら、バイダルが付け足したその一言を繰り返す。二名でも、充分だった。それが更に増えるのか。
「一人、かなり危ない者がいるらしい」
「危ない?」
「ああ」
フリージアの足が思わず止まる。
「ジア」
「大丈夫……大丈夫だよ、オル」
彼女の肩に手を置いたオルディンに振り返り、フリージアは笑顔を作った。彼がそれにごまかされたとは思えないが、それ以上言葉を重ねることなくオルディンは手を下ろす。
「早く行こう」
そう言って、また足を踏み出した。フリージアが行ってどうなるものでもない。だが、それでも、行かずにはいられなかった。
負傷兵がいる天幕は、かなり後方に設置されている。フリージアは走っていきたい気持ちをこらえながら、すれ違う兵士達に労う言葉をかけつつ先を急いだ。
初戦を勝利で飾った為か、彼らの士気は戦いが始まる前よりも更に高揚しているようだった。戦いの直後だというのに、彼らは笑顔さえ見せている――フリージアへの溢れんばかりの信頼と共に。
それが、今の彼女には、痛い。握り締めた手のひらに爪が食い込んだが、何も感じなかった。
やがて負傷者の集められている天幕に辿り着いたが、怪我人がいる筈のそこから、苦痛の呻き声は聞こえてこなかった。入口の垂れ幕をよけようとして手を差し入れ、フリージアは一瞬止まる。一つ息をつき、そして中に入った。
「ロウグ将軍」
彼女が姿を見せると、すぐに軍医は患者に向けて伏せていた顔を上げた。天幕の中には五人の兵が横たえられていて、三人の医者が彼らの手当てを続けている。動ける程度の傷の者は、すでに治療を終えてそれぞれの寝床に戻っているようだ。残っているのは、動かすことができない程の重傷者なのだろう。
「様子はどう? あ、そのままでいいよ。動かないで」
フリージアに気付いて傷付いた兵達が身体を起こそうとするのへ、慌てて声をかける。動いたのは四人だけで、一人はぐったりと横たわったままだった。恐らく、彼が最も怪我がひどいのだろう。フリージアはその一人へと歩み寄る。
「治る? 治せるの?」
傍らにひざまずき、フリージアは軍医へと問いかけた。「もちろん」と答えて欲しかった。けれど、彼は、黙って首を振る。
フリージアは喉の奥にこみ上げてきた塊を押し戻そうと、唾を呑み込んだ。震えそうになる唇をきつく噛み締める。
力なく目を閉じている負傷兵は、紅竜軍の者だ。その腹には包帯が巻かれており、そこには赤いものがべったりと滲み出していた。
彼は、あの時の兵なのだ。
フリージアの脳裏に、部隊の交代を一瞬迷った時のことがよみがえる――紅竜軍の一人が脇腹を貫かれ、馬から転げ落ちた光景を。あの時彼女がもう少し早く決断を下していれば、この男はこんな怪我を負わなくて済んでいたかもしれないのだ。
――あたしの所為だ。
それは明白な事実だった。フリージアの判断の遅れが、彼の命運を決したのだ。
「エイル……」
あの力なら、治せる。
彼女は咄嗟にそう思ったが、立ち上がりそうになったのを腿に爪を立てて辛うじてとどまる。
エイルの力を使うわけにはいかなかった。こうなったのは、フリージアの所為だ。一度それを許せば、彼女がしくじる度にエイルに尻拭いをさせることになる。それを自分に許すわけにはいかなかった。
――ごめん。ごめん。ごめん。
何度彼に謝っても彼女の失態は拭い去れるものではなかったが、それでも胸の中で繰り返す。
と。
「……将軍?」
消え入りそうな声と共に、彼が薄っすらと目を開けた。
「気が付いた?」
フリージアが手を取り笑いかけると、彼も血の気を失った口元を微かに緩める。
「彼の名はダグだ」
小さな声で、バイダルが彼女の耳元で囁く。
「ニダ、ベリル軍は……」
震える声でそう訊いてくるダグに、フリージアは力強く頷いた。
「大丈夫、追い払ったよ。今日のところはこっちの勝ち。ダグが頑張ってくれたからだ」
「そう……ですか……」
ホッとしたように微笑むダグの命の灯は、今にも掻き消えそうだ。それを引き止めるように、フリージアは彼の手を握る指に力を込める。
「きっと、勝つよ。そうしたら帰ろう。ダグのことも絶対に連れて帰るから。絶対に、置いていかない。だからそれまで待っててよ」
「はい……はい――待ってます……」
一瞬、ダグがフリージアの手を握り返してきたような気がした。が、直後それは全ての力を失う。
滑り落ちそうになったその手を捕まえ直して、フリージアはそっと声をかける。
「ダグ……?」
応えは、なかった。フリージアの手の中のダグの指先はまだ温かい。けれど、彼は逝ってしまったのだ。
「ごめ……ありがとう。絶対に、グランゲルドを守ってみせる。そして、君を家に帰すから。君を待っている人のところに、連れ帰るから」
フリージアは囁きながら次第に温もりを失いつつある彼の手を額に押し当て、そして下ろす。両手を彼の胸の上で組ませて毛布を掛けた。
そうしながら、フリージアは胸の中であらん限りの言葉を駆使して罵り続ける。
ニダベリルを、否――彼女自身を。自分の迷いが彼を死なせたのだということを、その胸に刻み込んだ。
不思議なほどに穏やかなダグの顔をもう一度見つめ、フリージアは立ち上がる。
「じゃあ、先生、みんなをお願いね」
そう頭を下げた彼女を軍医は何か言いたそうに見たが、結局頷いただけだった。
「はい、お任せを――他の者は、皆元気になりますから」
フリージアに言い含めるように、そう断言する。多分、それは彼女を励ます意図も含んでいるのだろう。それが感じられ、フリージアは医師に笑顔を見せた。
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