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第三章:角笛の音色と新たな夜明け
フォルスとフレイ①
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マナヘルムにあるエルフィアの里は、その日、意外な客を迎えていた。
「フレイ王?」
数名の供だけを連れて目の前に立つフレイを、フォルスは本当に彼なのだろうかと我が目を疑いながら見つめた。
このエルフィアの里の長であるフォルスでも、彼に会うのはこれが初めてである。
エルフィアがマナヘルムに定住してからフォルスがグランディアに呼び付けられることは無かったし、フレイがこの里を訪れることも無かったのだ。フレイが即位した時は、祝辞を送っただけだった。フォルスがマナヘルムに入ってから会った人間と言えば、ゲルダと先日のフリージア達くらいだった。
二百年以上前にこのマナヘルムに移ってきた時、フォルスはまだ赤子だったが、その時に見たグランゲルド王の顔はうっすらと覚えている。彼は、今目の前にいるフレイ王と、よく似た面差しをしていた。
その繊細な頬は濃い疲労の色を隠せていなかったが、フレイは背筋を伸ばしてフォルスの前に立っている。
「何故、貴方が……」
驚き以上に戸惑いの色を浮かべて、フォルスが問う。今のフレイの印象は、フォルスが抱いていたものとは、少し違っていた。伝え聞いた限りでは、もっと風に吹かれてそよぐ枝のような、ゆるりとした雰囲気の持ち主だと思っていたのだが。
そんな彼の前で、フレイが端的に告げる。
「ニダベリルとの戦が始まった」
「そう、ですか」
一瞬固まり、そしてフォルスは視線を落とす。その戦の一因は、彼らエルフィアなのだ。グランゲルドの民でもない自分達はこの安全な地に引きこもり、彼らを守る為にグランゲルドの人間が戦いに赴いている。
フレイはフォルスの頭の中の声が聞こえたかのように、やんわりと微笑む。
「そなたらが責任を感じる必要はない。戦うことは、余が決めたのだ」
「……ありがとうございます」
フレイにそう言われても、フォルスはやはりいくばくかの罪悪感を覚えてしまう。グランゲルドの民を戦いに駆り出させたことを。そして、その決断をフレイ一人に押し付けたことを。
もちろん、戦の原因はエルフィアの事だけではない。だが、当事者であるにも拘らず傍観者に徹しようとしている自分達を、不甲斐なく思う気持ちは否定できないのだ。
だから、彼はフレイ王の目を真っ直ぐに見返すことができない。
フォルスは、エルフィアさえ守れればいいと思っていた。殻に閉じ込め、細々と、だが絶え間なくこの血をつないでいければいいのだと。
長になってから百年以上もそれだけを考えてきた彼の信念が揺らいだのは、あの緑の目に射抜かれた時だった。彼の十分の一も生きていない、エルフィアにとっては赤子のような少女に畳み掛けるように質問を重ねられて、あの時の彼は返す言葉をろくに持っていなかったのだ。
そして、フリージアのその問いに答えられなかっただけではない。彼女の言葉に心が震えたことを、フォルスは否定できなかった。
ふと気付くと脳裏にあの鮮やかな緑の眼差しが浮かび、彼女の言葉を反芻している時が幾度もあったのだ。
「フォルス」
名を呼ばれて、彼は我に返る。頭の中の残像を打ち消して、フレイに目を向けた。ヒトの王は穏やかで包み込むような優しさを湛えるその眼差しを、フォルスに注いでいる。
「フリージア達はルト川に到着した頃だろう。さほどかからぬうちに、ニダベリル軍も国境を越える」
「そうですか」
フォルスは言葉少なにそう返す他なかった。そんな彼を、フレイが真っ直ぐに見つめてくる。
そして、問い掛けてきた。
「そなたらは、今のこの状況に満足しているのか?」
「どういう、意味でしょう?」
フォルスは眉根を寄せてフレイに問いを返す。
王が言わんとしていることが、フレイには判らなかった。いや、判っていても、答えを返したくないだけかもしれない。
「そなたたちは再び世に出たいとは思わぬか? 世界と関わって生きていきたいとは?」
穏やかなフレイのその言葉に、フォルスがこれまで踏み固めてきたものが再び揺れる。
それを感じ取ったかのように、フレイは続けた。
「もしもそなたらにその気持ちがあるのであれば、余から話したいことがある。これは、フリージアからの伝言でもあるのだ」
「あの、ゲルダの娘の……?」
「そうだ」
唇を引き結んだフォルスを、フレイは黙って見つめている。彼は答えを迫ったりはしなかった。
フレイの言う『フリージアの伝言』を聞いてしまえば、何かがガラリと変わってしまう気がしてならない。
フォルスは今のエルフィアの状態を変えたくなかった。今の彼らの生活は、フォルスが経験してきた中で一番平和で落ち着いているものだ。ずっと、彼が望んでいたものだった。
今以上の生活があるとは、フォルスには思えなかった。
押し黙ったままの彼に、フレイはその春の木の芽のような色の目を向けている。それに、燦々と太陽を浴びて生い茂る緑のような、真っ直ぐにフォルスに切り込んできた少女の眼差しが重なった。
フレイはただ「話がある」と言っただけだ。
そしてフリージアは疑問をぶつけてきただけだ。
どちらも、フォルスに『要求』はしてこない――『依頼』すらしてこない。
エルフィアがここに受け入れられてから、その数はずいぶんと増えた。皆穏やかで、満ち足りた顔をしている。
それは、フォルスが幼い頃から切望してきたエルフィアの有り様だった。
変化は、恐ろしい。このまま何も変えずにいれば、同じ幸せを甘受したままでいられる。
けれど。
フォルスは一度目を閉じ、そして開いた。そうして、フレイを見る。フォルスの眼差しを、ヒトの王は黙って受け止めた。
しばらく視線を絡ませ、フォルスは小さく息をつく。
「こちらへ」
短くそう促し、彼は裾を翻して踵を返した。
「フレイ王?」
数名の供だけを連れて目の前に立つフレイを、フォルスは本当に彼なのだろうかと我が目を疑いながら見つめた。
このエルフィアの里の長であるフォルスでも、彼に会うのはこれが初めてである。
エルフィアがマナヘルムに定住してからフォルスがグランディアに呼び付けられることは無かったし、フレイがこの里を訪れることも無かったのだ。フレイが即位した時は、祝辞を送っただけだった。フォルスがマナヘルムに入ってから会った人間と言えば、ゲルダと先日のフリージア達くらいだった。
二百年以上前にこのマナヘルムに移ってきた時、フォルスはまだ赤子だったが、その時に見たグランゲルド王の顔はうっすらと覚えている。彼は、今目の前にいるフレイ王と、よく似た面差しをしていた。
その繊細な頬は濃い疲労の色を隠せていなかったが、フレイは背筋を伸ばしてフォルスの前に立っている。
「何故、貴方が……」
驚き以上に戸惑いの色を浮かべて、フォルスが問う。今のフレイの印象は、フォルスが抱いていたものとは、少し違っていた。伝え聞いた限りでは、もっと風に吹かれてそよぐ枝のような、ゆるりとした雰囲気の持ち主だと思っていたのだが。
そんな彼の前で、フレイが端的に告げる。
「ニダベリルとの戦が始まった」
「そう、ですか」
一瞬固まり、そしてフォルスは視線を落とす。その戦の一因は、彼らエルフィアなのだ。グランゲルドの民でもない自分達はこの安全な地に引きこもり、彼らを守る為にグランゲルドの人間が戦いに赴いている。
フレイはフォルスの頭の中の声が聞こえたかのように、やんわりと微笑む。
「そなたらが責任を感じる必要はない。戦うことは、余が決めたのだ」
「……ありがとうございます」
フレイにそう言われても、フォルスはやはりいくばくかの罪悪感を覚えてしまう。グランゲルドの民を戦いに駆り出させたことを。そして、その決断をフレイ一人に押し付けたことを。
もちろん、戦の原因はエルフィアの事だけではない。だが、当事者であるにも拘らず傍観者に徹しようとしている自分達を、不甲斐なく思う気持ちは否定できないのだ。
だから、彼はフレイ王の目を真っ直ぐに見返すことができない。
フォルスは、エルフィアさえ守れればいいと思っていた。殻に閉じ込め、細々と、だが絶え間なくこの血をつないでいければいいのだと。
長になってから百年以上もそれだけを考えてきた彼の信念が揺らいだのは、あの緑の目に射抜かれた時だった。彼の十分の一も生きていない、エルフィアにとっては赤子のような少女に畳み掛けるように質問を重ねられて、あの時の彼は返す言葉をろくに持っていなかったのだ。
そして、フリージアのその問いに答えられなかっただけではない。彼女の言葉に心が震えたことを、フォルスは否定できなかった。
ふと気付くと脳裏にあの鮮やかな緑の眼差しが浮かび、彼女の言葉を反芻している時が幾度もあったのだ。
「フォルス」
名を呼ばれて、彼は我に返る。頭の中の残像を打ち消して、フレイに目を向けた。ヒトの王は穏やかで包み込むような優しさを湛えるその眼差しを、フォルスに注いでいる。
「フリージア達はルト川に到着した頃だろう。さほどかからぬうちに、ニダベリル軍も国境を越える」
「そうですか」
フォルスは言葉少なにそう返す他なかった。そんな彼を、フレイが真っ直ぐに見つめてくる。
そして、問い掛けてきた。
「そなたらは、今のこの状況に満足しているのか?」
「どういう、意味でしょう?」
フォルスは眉根を寄せてフレイに問いを返す。
王が言わんとしていることが、フレイには判らなかった。いや、判っていても、答えを返したくないだけかもしれない。
「そなたたちは再び世に出たいとは思わぬか? 世界と関わって生きていきたいとは?」
穏やかなフレイのその言葉に、フォルスがこれまで踏み固めてきたものが再び揺れる。
それを感じ取ったかのように、フレイは続けた。
「もしもそなたらにその気持ちがあるのであれば、余から話したいことがある。これは、フリージアからの伝言でもあるのだ」
「あの、ゲルダの娘の……?」
「そうだ」
唇を引き結んだフォルスを、フレイは黙って見つめている。彼は答えを迫ったりはしなかった。
フレイの言う『フリージアの伝言』を聞いてしまえば、何かがガラリと変わってしまう気がしてならない。
フォルスは今のエルフィアの状態を変えたくなかった。今の彼らの生活は、フォルスが経験してきた中で一番平和で落ち着いているものだ。ずっと、彼が望んでいたものだった。
今以上の生活があるとは、フォルスには思えなかった。
押し黙ったままの彼に、フレイはその春の木の芽のような色の目を向けている。それに、燦々と太陽を浴びて生い茂る緑のような、真っ直ぐにフォルスに切り込んできた少女の眼差しが重なった。
フレイはただ「話がある」と言っただけだ。
そしてフリージアは疑問をぶつけてきただけだ。
どちらも、フォルスに『要求』はしてこない――『依頼』すらしてこない。
エルフィアがここに受け入れられてから、その数はずいぶんと増えた。皆穏やかで、満ち足りた顔をしている。
それは、フォルスが幼い頃から切望してきたエルフィアの有り様だった。
変化は、恐ろしい。このまま何も変えずにいれば、同じ幸せを甘受したままでいられる。
けれど。
フォルスは一度目を閉じ、そして開いた。そうして、フレイを見る。フォルスの眼差しを、ヒトの王は黙って受け止めた。
しばらく視線を絡ませ、フォルスは小さく息をつく。
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