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第三章:角笛の音色と新たな夜明け
出発前夜②
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バイダルと剣を合わせていたオルディンの視界の隅に、訓練場にひょこりと姿を現したフリージアが入り込む。大勢の兵士がいる中で、彼女はすぐにオルディンの姿を見つけたようだ。視線が合い、フリージアが小さく手を挙げる。
「バイダル、ここまでだ」
打ちかかってきた彼の剣を捻じ伏せながら、オルディンは言った。
「ああ……」
バイダルもフリージアに気付いたようで、オルディンの剣にかかっていた力がフッと抜ける。互いに剣を収め、彼女の方へと足を向けた。
「あ、オル、バイダル、話し合いは終わったよ。考えてても何だか埒が明かないから、後はもう行動あるのみ、かな。予定通り、三日後に出るよ」
「準備は整っている」
答えたのはバイダルだ。フリージアは彼に頷くと、続ける。
「ニダベリル軍が進撃を開始したっていう連絡が来たのは四日前でしょ? ロキスが言うにはグランゲルドとの国境まで辿り着くのに三十日はかかるって。投石器がある分だけ、歩兵以下の速さになっちゃうんだってさ」
「まあ、そうだろうな。あれが倒れたら元に戻すのは一苦労だろう。どうしても歩みは慎重にならざるを得んからな」
オルディンはさもありなんと肩を竦めた。ニダベリルは強固かもしれないが、鈍重だ。そこは付け入る余地がある。
「あたしたちの方がずっと早く国境まで行けるよね。その分、色々有利になると思うんだ」
「何を考えてるんだ?」
オルディンが眉をひそめて見下ろすと、フリージアはニコリと笑った。
「ちょこちょことね。正面切ってぶつかったら絶対勝ち目がないでしょ? 牙狼とか大爪熊とか、普通にやったら仕留められないのと同じに」
「ニダベリルは獣よりは頭があるだろうけどな」
「まあね。だから、実際はやってみないとどう転ぶかわからないんだけどさ。……こういうのってまずいかな、バイダル?」
少々心許なげな眼差しを向けられ、バイダルはかぶりを振った。
「いや、ゲルダも大差はなかった――切り替えと決断は速かったがな」
「切り替えと決断……」
「ああ。そして、行動に迷いがなかった」
バイダルの隻眼が、ヒタとフリージアに向けられている。そこにある光は彼女の中を見通すように鋭い。
フリージアの最大の『弱点』は、迷いがあるところだろう。状況によっては、大を救うために小を切り捨てなければならない時が出てくるかもしれない。あるいは、どうしても救いきれない命も目の当たりにする筈だ。それを乗り切れるかどうかが、彼女にとって一番の山になるに違いない。
元来、巣から落ちた雛一羽に大騒ぎする少女なのだ。
自分の号令一つで傷付き、命を落とすものが出る。
そういう状況でフリージアがどうなるのか――それもまた、その時にならなければわからないのだ。
「オル、何ぼんやりしてるの? 帰るよ?」
フリージアの声で、オルディンは我に返る。
「ああ……」
反応の鈍いオルに気付かぬ様子で、フリージアは歩き出す。そして、唇を尖らせて呟いた。
「今日はもう一つ、大仕事があるんだよね」
それが何を指しているのか、オルディンには判っている。手こずることだろうと、こっそり笑みを漏らした。
「ちょっと……笑ってる場合じゃないんだからね? すんなり聞いてくれるといいんだけどなぁ……」
「そりゃ、無理な話だろ」
「他人事だと思って。いざとなったら、縛り付けてでも置いてかなくちゃ」
フリージアはそう言って、自分自身に気合を入れるように両手を握り締める。
話題はエイルのことだった。今度の戦いにエイルは連れて行かない。
ソルの方は、「エルフィアの問題でもあるのだから」という彼女の意見ももっともなので、フリージアもやむなく連れて行くことに同意した。元々、ソルがマナヘルムを出てきたのは様々なものを見聞きする為だったし、その考えを拒むことができるフリージアではない。何しろ、彼女自身の行動の根っこに、同じものがあるのだから。
だが、エイルのこととなるとそうはいかないようである。フリージアはエイルの事を守ると心に決めていた。危険な戦場に連れて行くわけにはいかないと、フリージアは固く決めているようだ。
問題は、エイルがそれを聞き入れるかどうかだが――答えは推して知るべし。
エイルを説得することが、フリージアにとって出発前の一番の大仕事になるのかもしれない。
やがて屋敷に着くと、真っ先に出迎えたのはいつもと同じようにエイルだ。
「おかえり」
「ただいま」
一心に見上げてくるエイルの頭をフリージアが撫でてやると、それだけで喜びを露わにする。これを説得するのはさぞかし骨が折れるだろう。オルディンは「頑張れよ」と胸の中で無責任に呟いた。
「えぇっとね、エイル。今日は大事な話があるんだ」
「?」
真面目な顔でエイルの両肩に手を置いたフリージアに、エルヴンの子どもは首をかしげる。その灰銀色の目をしっかりと覗き込んで彼女は続けた。
「戦いが始まるのは知ってるよね?」
フリージアの問いに返されたのは無言の頷き。
「それにエイルは連れて行けないんだ」
「イヤだ」
短くかつ断固とした拒否。
フリージアは一瞬グッと息を呑み、続ける。
「嫌って言ってもダメ」
「何で?」
「危ないから」
「ソルは?」
「ソルは……連れて行く」
「じゃあ、エイルも行く」
「ダメ」
「何で?」
「何でって……危ないから」
グルリと回って、やり取りは振出しに戻った。
フリージアは天を仰いで何やら考えている。そしてまたエイルに目を戻すと、ゆっくりと言い聞かせるように話し始めた。
「あのね、戦いになると、たくさん怪我人が出るんだ。そんな時にエイルが傍にいたら、あたしは絶対頼っちゃう」
「それでもいいよ」
「ダメ。前にも言ったでしょう? エイルの命はエイルのものなんだって。戦場で皆の傷を治してたら、あっという間に使い果たしちゃう。そんなの、あたしは嫌だ。それに、戦場で皆が怪我をしたとしたら、その責任はあたしにあるんだよ。エイルじゃない。エイルに背負わせるものは、全然ないんだ」
キッパリと、フリージアはそう言い切った。
その口調に、オルディンは胸を突かれる。フリージアの中では、着実に覚悟が固まりつつあるのだ。確かに、まだ、揺らぎは感じられる。だが、自分が負うべきものは、負わなければならないものは、ちゃんと見えてきているのだ。
不意に、オルディンは不安を覚える。多分、不安に近いものを。
発作的に彼女の腕を掴んで引き寄せたくなったのを、オルディンは拳をきつく握りこんで堪える。目蓋を閉じた彼の耳に届いたのは、妥協を許さぬフリージアの声だ。
頑なに視線を逸らせようとしているエイルの目を覗き込みながら、フリージアが繰り返す。
「とにかく、エイルは連れてかない。決定。ちゃんと帰ってくるから、おとなしく待っててよ」
フリージアの言葉に、エイルはきつく唇を引き結んでいる。傍から見ていても、エイルのその様子は、納得しているとは到底思えなかった。
何故か一瞬エイルのその様が自分自身と重なったような気がして、そんなバカなとオルディンは頭を振る。
エイルはフリージアに守られる者であり、オルディンはフリージアを守る者なのだ――その立場は正反対の筈。か弱いエイルとフリージアの盾になるべきオルディンが同じであってはならない。
だが、ビグヴィルが二人の前に姿を現してから、フリージアはゆっくりと、だが着実に変わりつつあった。
守られていた者から、守る者へと。
フリージアには、何があっても傷付くことのない強さを手に入れて欲しい。彼女が傷付き、打ちのめされる姿は見たくない。
それはオルディンの中にある偽らざる気持ちだ。だから、フリージアのその変化は、諸手を上げて歓迎すべきことだし、実際に歓迎している。
だが、そんな自分の中に潜む小さなしこりの存在を、オルディンは確かに感じていた。
「バイダル、ここまでだ」
打ちかかってきた彼の剣を捻じ伏せながら、オルディンは言った。
「ああ……」
バイダルもフリージアに気付いたようで、オルディンの剣にかかっていた力がフッと抜ける。互いに剣を収め、彼女の方へと足を向けた。
「あ、オル、バイダル、話し合いは終わったよ。考えてても何だか埒が明かないから、後はもう行動あるのみ、かな。予定通り、三日後に出るよ」
「準備は整っている」
答えたのはバイダルだ。フリージアは彼に頷くと、続ける。
「ニダベリル軍が進撃を開始したっていう連絡が来たのは四日前でしょ? ロキスが言うにはグランゲルドとの国境まで辿り着くのに三十日はかかるって。投石器がある分だけ、歩兵以下の速さになっちゃうんだってさ」
「まあ、そうだろうな。あれが倒れたら元に戻すのは一苦労だろう。どうしても歩みは慎重にならざるを得んからな」
オルディンはさもありなんと肩を竦めた。ニダベリルは強固かもしれないが、鈍重だ。そこは付け入る余地がある。
「あたしたちの方がずっと早く国境まで行けるよね。その分、色々有利になると思うんだ」
「何を考えてるんだ?」
オルディンが眉をひそめて見下ろすと、フリージアはニコリと笑った。
「ちょこちょことね。正面切ってぶつかったら絶対勝ち目がないでしょ? 牙狼とか大爪熊とか、普通にやったら仕留められないのと同じに」
「ニダベリルは獣よりは頭があるだろうけどな」
「まあね。だから、実際はやってみないとどう転ぶかわからないんだけどさ。……こういうのってまずいかな、バイダル?」
少々心許なげな眼差しを向けられ、バイダルはかぶりを振った。
「いや、ゲルダも大差はなかった――切り替えと決断は速かったがな」
「切り替えと決断……」
「ああ。そして、行動に迷いがなかった」
バイダルの隻眼が、ヒタとフリージアに向けられている。そこにある光は彼女の中を見通すように鋭い。
フリージアの最大の『弱点』は、迷いがあるところだろう。状況によっては、大を救うために小を切り捨てなければならない時が出てくるかもしれない。あるいは、どうしても救いきれない命も目の当たりにする筈だ。それを乗り切れるかどうかが、彼女にとって一番の山になるに違いない。
元来、巣から落ちた雛一羽に大騒ぎする少女なのだ。
自分の号令一つで傷付き、命を落とすものが出る。
そういう状況でフリージアがどうなるのか――それもまた、その時にならなければわからないのだ。
「オル、何ぼんやりしてるの? 帰るよ?」
フリージアの声で、オルディンは我に返る。
「ああ……」
反応の鈍いオルに気付かぬ様子で、フリージアは歩き出す。そして、唇を尖らせて呟いた。
「今日はもう一つ、大仕事があるんだよね」
それが何を指しているのか、オルディンには判っている。手こずることだろうと、こっそり笑みを漏らした。
「ちょっと……笑ってる場合じゃないんだからね? すんなり聞いてくれるといいんだけどなぁ……」
「そりゃ、無理な話だろ」
「他人事だと思って。いざとなったら、縛り付けてでも置いてかなくちゃ」
フリージアはそう言って、自分自身に気合を入れるように両手を握り締める。
話題はエイルのことだった。今度の戦いにエイルは連れて行かない。
ソルの方は、「エルフィアの問題でもあるのだから」という彼女の意見ももっともなので、フリージアもやむなく連れて行くことに同意した。元々、ソルがマナヘルムを出てきたのは様々なものを見聞きする為だったし、その考えを拒むことができるフリージアではない。何しろ、彼女自身の行動の根っこに、同じものがあるのだから。
だが、エイルのこととなるとそうはいかないようである。フリージアはエイルの事を守ると心に決めていた。危険な戦場に連れて行くわけにはいかないと、フリージアは固く決めているようだ。
問題は、エイルがそれを聞き入れるかどうかだが――答えは推して知るべし。
エイルを説得することが、フリージアにとって出発前の一番の大仕事になるのかもしれない。
やがて屋敷に着くと、真っ先に出迎えたのはいつもと同じようにエイルだ。
「おかえり」
「ただいま」
一心に見上げてくるエイルの頭をフリージアが撫でてやると、それだけで喜びを露わにする。これを説得するのはさぞかし骨が折れるだろう。オルディンは「頑張れよ」と胸の中で無責任に呟いた。
「えぇっとね、エイル。今日は大事な話があるんだ」
「?」
真面目な顔でエイルの両肩に手を置いたフリージアに、エルヴンの子どもは首をかしげる。その灰銀色の目をしっかりと覗き込んで彼女は続けた。
「戦いが始まるのは知ってるよね?」
フリージアの問いに返されたのは無言の頷き。
「それにエイルは連れて行けないんだ」
「イヤだ」
短くかつ断固とした拒否。
フリージアは一瞬グッと息を呑み、続ける。
「嫌って言ってもダメ」
「何で?」
「危ないから」
「ソルは?」
「ソルは……連れて行く」
「じゃあ、エイルも行く」
「ダメ」
「何で?」
「何でって……危ないから」
グルリと回って、やり取りは振出しに戻った。
フリージアは天を仰いで何やら考えている。そしてまたエイルに目を戻すと、ゆっくりと言い聞かせるように話し始めた。
「あのね、戦いになると、たくさん怪我人が出るんだ。そんな時にエイルが傍にいたら、あたしは絶対頼っちゃう」
「それでもいいよ」
「ダメ。前にも言ったでしょう? エイルの命はエイルのものなんだって。戦場で皆の傷を治してたら、あっという間に使い果たしちゃう。そんなの、あたしは嫌だ。それに、戦場で皆が怪我をしたとしたら、その責任はあたしにあるんだよ。エイルじゃない。エイルに背負わせるものは、全然ないんだ」
キッパリと、フリージアはそう言い切った。
その口調に、オルディンは胸を突かれる。フリージアの中では、着実に覚悟が固まりつつあるのだ。確かに、まだ、揺らぎは感じられる。だが、自分が負うべきものは、負わなければならないものは、ちゃんと見えてきているのだ。
不意に、オルディンは不安を覚える。多分、不安に近いものを。
発作的に彼女の腕を掴んで引き寄せたくなったのを、オルディンは拳をきつく握りこんで堪える。目蓋を閉じた彼の耳に届いたのは、妥協を許さぬフリージアの声だ。
頑なに視線を逸らせようとしているエイルの目を覗き込みながら、フリージアが繰り返す。
「とにかく、エイルは連れてかない。決定。ちゃんと帰ってくるから、おとなしく待っててよ」
フリージアの言葉に、エイルはきつく唇を引き結んでいる。傍から見ていても、エイルのその様子は、納得しているとは到底思えなかった。
何故か一瞬エイルのその様が自分自身と重なったような気がして、そんなバカなとオルディンは頭を振る。
エイルはフリージアに守られる者であり、オルディンはフリージアを守る者なのだ――その立場は正反対の筈。か弱いエイルとフリージアの盾になるべきオルディンが同じであってはならない。
だが、ビグヴィルが二人の前に姿を現してから、フリージアはゆっくりと、だが着実に変わりつつあった。
守られていた者から、守る者へと。
フリージアには、何があっても傷付くことのない強さを手に入れて欲しい。彼女が傷付き、打ちのめされる姿は見たくない。
それはオルディンの中にある偽らざる気持ちだ。だから、フリージアのその変化は、諸手を上げて歓迎すべきことだし、実際に歓迎している。
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