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第二章:大いなる冬の訪れ
オルディンの決意①
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時間を見計らってバイダルとの手合わせを終え、オルディンは会議室へと続く廊下を足早に歩いていた。
そろそろ今日の議題にもけりが着いている頃合いの筈だ。迎えに行くとは言っておいたが、フリージアがおとなしく待っているとは限らない。
都に足を踏み入れて以来、王宮やロウグの屋敷の中であればさしたる危険はあるまいと、オルディンは考えていた。誰かしらの目があるから、何かあったとしてもさほど緊急の事態になることはないだろう、と。
だが、先日ゲルダの死にまつわる話をサーガより聞かされてから、どうにも不安が拭い去れずにいた。
ゲルダの命を奪った毒。
その威力を、彼はよく知っている。標的が気にも留めないような小さな傷から侵入し、じわじわと内臓を壊した末に死をもたらすのだ。
オルディンも同じその毒を用いていくつもの命を奪った――そう、ゲルダを襲った刺客は、かつて彼が属していた組織の者だ。
彼が幼い頃のフリージアの命を狙ったということは、すでにオルディン自身の口で彼女に伝えてある。それが二人を出会わせ、彼女を母の元から旅立たせるきっかけになったのだということを。
ビグヴィルがフリージアを迎えに来たあの日からしばらくして、オルディンは彼女に全てを明かしたのだ。その当時、裏の仕事を請け負う組織にいたのだということも――両手の指でも足りない程の人間を、彼がその手で殺《あや》めたのだということも。
それを聞いた後フリージアはしばらく黙って考えていたが、やがて彼の目を真っ直ぐに見つめて言ったのだ。
「でも、今は殺してない。そうでしょ? あたしと一緒に過ごすようになって、意味もなく人を傷付けたことはないよね」
頷いたオルディンに、フリージアは続けた。
「あたしがその頃のオルの傍にいたら、殴り付けてでも止めたのになぁ」
そして、大きく一つ息をして。
「ねえ、オル。オルはその頃の自分のことをどう思ってるの? 殺しちゃった人のことは?」
ヒタと見据えてくる緑瞳は、わずかなごまかしも赦しはしなかった。オルディンはその目を見返しながら、答えた。
「愚かだったと、思っている。時を戻せるものなら戻したいさ」
彼が奪った命の中には、そうされて当然の者もいた――だが、そうではない者もまた、いたのだ。幼い頃のフリージアのように。
オルディンは無造作にそれらの命を刈っていた。何も考えず、ただ命じられるがままに。
彼に頭は付いていたけれど、それは無いも同然のものだったのだ。
人を殺したということと、それが自ら考え選んだ行為ではなかったということ。
そのどちらの方が、より責められるべきなのだろう。
――オルディンには、どちらも同じ重さに思える。
「俺は、救いようのない愚か者だったんだ」
呟くと、フリージアは小さく首をかしげて彼を見上げてきた。
全てを貫く眼差しで。
オルディンは、黙ってそれを受け止めた。
受け止めながら。
彼女がいなければ、きっと、未だにオルディンは愚かなままでいただろう。
彼女がいなければ、きっとオルディンは未だに誰かに言われるがままに動くだけの木偶人形から変われずにいたに違いない。
そう思うと、ゾッとした。
オルディンがフリージアを連れ出した時、彼女はまだ三歳だった。背など彼の腰にも届かず、片手で襟首を掴んで持ち上げられるようなちっぽけな存在だった。だが、そんな頃から、彼女は己の頭で考え、そして動いていたのだ――十代半ばを越えても自分の考えというものを持たなかった彼とは違って。
オルディンの考えも及ばないような突拍子もないことをフリージアがしでかす度に、彼は呆れ、驚き、そして笑った。全てがそれまでの生活とは一変し、見える世界の色さえ違うような気持ちになったのだ。
フリージアと共に過ごし彼女を見守るうちに、オルディンは、自ら考え、決定し、動くということを学んでいった。
ゲルダは旅立つ時、娘を一年間だけ連れ回せと、オルディンに言った。そして、そうすることで彼女の幼い娘が彼の生きる理由になるだろう、とも。
その予言の成就には、実際のところ、一年も必要とはしなかった。
今は、フリージアがオルディンの生きる理由であり、彼女を護ることが今の彼の全てだった。
だから、フリージアに彼の過去を打ち明けることが恐ろしかった。
他者を大事に想う彼女にとって、オルディンがしてきたことは到底受け入れられないようなものだということが判っていたから。
フリージアに背を向けられたら、きっとオルディンは生きていかれないだろう。
しかし、彼の過去を聞いてフリージアが彼を糾弾し、拒むのならば、それを甘んじて受けるつもりだった。彼女の前から姿を消し、陰から守り続けようと、思っていた。
だが、長い間黙り込んでいた彼女が口にしたのは、別の台詞だったのだ。
「その頃のオルは、自分で考えていなかったんだよね? 命令されたことを、そのままやってたんだよね?」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、ちゃんと自分の頭で考えるようになった今なら、もう、絶対に同じことはしないよね?」
「ああ」
また、無言。そして。
「バッカだよねぇ。その頃って、今のあたしよりも年上だったんでしょ? そんないい歳して、自分の頭を使ってなかったんだから」
耳と心に突き刺さる台詞を呆れたように言い放ち、不意に、フリージアは腕を伸ばして彼に抱き付いてきた。
「あたしの知らないオルがやったことは、確かに赦されない事なんだけど、でも、あたしは、今のオルしか知らないんだもん。どうやったって、オルを嫌いになんかなれないし」
その時の彼には、フリージアを抱き締め返すことができなかった。ただ、彼女の温もりが胸に染み入ってくるのを感じるだけで。
どれだけの時間、そうしていたか。
フリージアはひょこんと顔を上げ、彼にいつもと変わらぬ笑みを向けたのだ。
「過ぎたことは取り戻せない。どうやっても赦されるもんじゃないよ。過去を消し去ることなんて、絶対にできないんだし。だから、ずっと昔の事で、これから先のオルのことを決めるなんて、できない。あたしは、償うっていうのは、今と未来をちゃんと生きてくってことじゃないかと思うんだ。だからさ、これからを頑張ろう? 多分、これからオルがどれだけたくさんの人を幸せにできるのかってことに、かかってると思うんだ。それだったら、あたしも手伝えるからさ」
胸が、痛かった。締め付けられるように痛かった。
他の誰が赦さなくても、きっと、フリージアだけはオルディンを赦すのだろう。全ての者が彼に向けて謗りの声を上げたとしても、彼女だけは彼の隣に立っていてくれる。
その時、オルディンはぼんやりとそんなことを思ったものだった。
フリージアは、この国を護る将軍となる。オルディンは彼女を守る者となる。そしてそれは即ち、彼自身もこの国の人々を護るということにはなるのではないだろうか。彼女がそうすればいい、と言ったように。
フリージアを守る――その為に剣を振るうということに、もう一つ新たな『目的』が備わったのは、その時だった。
茫漠と過去に舞い戻っていたオルディンだったが、廊下の先から歩いてくる老人に気付いて足を止める。
そろそろ今日の議題にもけりが着いている頃合いの筈だ。迎えに行くとは言っておいたが、フリージアがおとなしく待っているとは限らない。
都に足を踏み入れて以来、王宮やロウグの屋敷の中であればさしたる危険はあるまいと、オルディンは考えていた。誰かしらの目があるから、何かあったとしてもさほど緊急の事態になることはないだろう、と。
だが、先日ゲルダの死にまつわる話をサーガより聞かされてから、どうにも不安が拭い去れずにいた。
ゲルダの命を奪った毒。
その威力を、彼はよく知っている。標的が気にも留めないような小さな傷から侵入し、じわじわと内臓を壊した末に死をもたらすのだ。
オルディンも同じその毒を用いていくつもの命を奪った――そう、ゲルダを襲った刺客は、かつて彼が属していた組織の者だ。
彼が幼い頃のフリージアの命を狙ったということは、すでにオルディン自身の口で彼女に伝えてある。それが二人を出会わせ、彼女を母の元から旅立たせるきっかけになったのだということを。
ビグヴィルがフリージアを迎えに来たあの日からしばらくして、オルディンは彼女に全てを明かしたのだ。その当時、裏の仕事を請け負う組織にいたのだということも――両手の指でも足りない程の人間を、彼がその手で殺《あや》めたのだということも。
それを聞いた後フリージアはしばらく黙って考えていたが、やがて彼の目を真っ直ぐに見つめて言ったのだ。
「でも、今は殺してない。そうでしょ? あたしと一緒に過ごすようになって、意味もなく人を傷付けたことはないよね」
頷いたオルディンに、フリージアは続けた。
「あたしがその頃のオルの傍にいたら、殴り付けてでも止めたのになぁ」
そして、大きく一つ息をして。
「ねえ、オル。オルはその頃の自分のことをどう思ってるの? 殺しちゃった人のことは?」
ヒタと見据えてくる緑瞳は、わずかなごまかしも赦しはしなかった。オルディンはその目を見返しながら、答えた。
「愚かだったと、思っている。時を戻せるものなら戻したいさ」
彼が奪った命の中には、そうされて当然の者もいた――だが、そうではない者もまた、いたのだ。幼い頃のフリージアのように。
オルディンは無造作にそれらの命を刈っていた。何も考えず、ただ命じられるがままに。
彼に頭は付いていたけれど、それは無いも同然のものだったのだ。
人を殺したということと、それが自ら考え選んだ行為ではなかったということ。
そのどちらの方が、より責められるべきなのだろう。
――オルディンには、どちらも同じ重さに思える。
「俺は、救いようのない愚か者だったんだ」
呟くと、フリージアは小さく首をかしげて彼を見上げてきた。
全てを貫く眼差しで。
オルディンは、黙ってそれを受け止めた。
受け止めながら。
彼女がいなければ、きっと、未だにオルディンは愚かなままでいただろう。
彼女がいなければ、きっとオルディンは未だに誰かに言われるがままに動くだけの木偶人形から変われずにいたに違いない。
そう思うと、ゾッとした。
オルディンがフリージアを連れ出した時、彼女はまだ三歳だった。背など彼の腰にも届かず、片手で襟首を掴んで持ち上げられるようなちっぽけな存在だった。だが、そんな頃から、彼女は己の頭で考え、そして動いていたのだ――十代半ばを越えても自分の考えというものを持たなかった彼とは違って。
オルディンの考えも及ばないような突拍子もないことをフリージアがしでかす度に、彼は呆れ、驚き、そして笑った。全てがそれまでの生活とは一変し、見える世界の色さえ違うような気持ちになったのだ。
フリージアと共に過ごし彼女を見守るうちに、オルディンは、自ら考え、決定し、動くということを学んでいった。
ゲルダは旅立つ時、娘を一年間だけ連れ回せと、オルディンに言った。そして、そうすることで彼女の幼い娘が彼の生きる理由になるだろう、とも。
その予言の成就には、実際のところ、一年も必要とはしなかった。
今は、フリージアがオルディンの生きる理由であり、彼女を護ることが今の彼の全てだった。
だから、フリージアに彼の過去を打ち明けることが恐ろしかった。
他者を大事に想う彼女にとって、オルディンがしてきたことは到底受け入れられないようなものだということが判っていたから。
フリージアに背を向けられたら、きっとオルディンは生きていかれないだろう。
しかし、彼の過去を聞いてフリージアが彼を糾弾し、拒むのならば、それを甘んじて受けるつもりだった。彼女の前から姿を消し、陰から守り続けようと、思っていた。
だが、長い間黙り込んでいた彼女が口にしたのは、別の台詞だったのだ。
「その頃のオルは、自分で考えていなかったんだよね? 命令されたことを、そのままやってたんだよね?」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、ちゃんと自分の頭で考えるようになった今なら、もう、絶対に同じことはしないよね?」
「ああ」
また、無言。そして。
「バッカだよねぇ。その頃って、今のあたしよりも年上だったんでしょ? そんないい歳して、自分の頭を使ってなかったんだから」
耳と心に突き刺さる台詞を呆れたように言い放ち、不意に、フリージアは腕を伸ばして彼に抱き付いてきた。
「あたしの知らないオルがやったことは、確かに赦されない事なんだけど、でも、あたしは、今のオルしか知らないんだもん。どうやったって、オルを嫌いになんかなれないし」
その時の彼には、フリージアを抱き締め返すことができなかった。ただ、彼女の温もりが胸に染み入ってくるのを感じるだけで。
どれだけの時間、そうしていたか。
フリージアはひょこんと顔を上げ、彼にいつもと変わらぬ笑みを向けたのだ。
「過ぎたことは取り戻せない。どうやっても赦されるもんじゃないよ。過去を消し去ることなんて、絶対にできないんだし。だから、ずっと昔の事で、これから先のオルのことを決めるなんて、できない。あたしは、償うっていうのは、今と未来をちゃんと生きてくってことじゃないかと思うんだ。だからさ、これからを頑張ろう? 多分、これからオルがどれだけたくさんの人を幸せにできるのかってことに、かかってると思うんだ。それだったら、あたしも手伝えるからさ」
胸が、痛かった。締め付けられるように痛かった。
他の誰が赦さなくても、きっと、フリージアだけはオルディンを赦すのだろう。全ての者が彼に向けて謗りの声を上げたとしても、彼女だけは彼の隣に立っていてくれる。
その時、オルディンはぼんやりとそんなことを思ったものだった。
フリージアは、この国を護る将軍となる。オルディンは彼女を守る者となる。そしてそれは即ち、彼自身もこの国の人々を護るということにはなるのではないだろうか。彼女がそうすればいい、と言ったように。
フリージアを守る――その為に剣を振るうということに、もう一つ新たな『目的』が備わったのは、その時だった。
茫漠と過去に舞い戻っていたオルディンだったが、廊下の先から歩いてくる老人に気付いて足を止める。
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