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第二章:大いなる冬の訪れ
対立②
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「良いかな? 子どもの喧嘩ではあるまいし、外交というものは、気に入らないから嫌だ、というわけにはいかんのだ。ニダベリルは強大ですぞ。特にこの数年は益々力を増しており、武力の乏しい我が国など、敵うべくもありませぬ」
「はなから敵わないと決め付けて、何もしないで諦めるのか? それが『オトナ』のやり方だって?」
このミミルと顔を合わせた当初は『です』『ます』程度は心がけていたフリージアも、今はすっかりこんな口調だ。老爺の石頭ぶりに『丁寧な言葉遣い』などしようと思っていたら話なんてできやしない。
「駆け引きは必要です。国を背負うものは、一か八かを試すわけにはいきません。ニダベリルとて、本気で食料とエルフィアの両方をせしめる気はない筈。取り敢えず二つ出し、こちらがどちらを選ぶのかを見ているのでしょう。グランゲルドは元々豊かな土壌を持っておりますからな、多少エルフィアがいなくなったところで、問題はありませぬ。ただ、十六年前の状態に戻るだけで。それよりも、恒久的に法外な量の作物を要求される方が、後々厄介なことになりましょうぞ」
「露店の交渉じゃあるまいし……そんなの、納得できない。比べられるものじゃないんだから、どちらかなんて選べないよ」
譲らないフリージアにミミルが微かなため息を漏らすのを、その場の誰もが耳にした。
この三日、二人の言い分は平行線を伸ばすばかりでさっぱり交わる気配がないのだ。
無言で睨み合う少女と老人の間に、遠慮がちな咳払いが入り込む。
「えぇと、その、ですな。そろそろ昼時でもあることだし、本日の協議はこれで……」
「そうですわね。空腹だと、余計にイライラしてしまいましてよ」
ビグヴィルの仲裁にやんわりとした声で賛同したのは、王妃のサーガだ。彼女は優雅に扇子を口元に添えながら、一同に微笑みかける。
「しばらく、日にちを置いてからお話合いをする方がよろしいかもしれなくてよ?」
ね? と、サーガがフリージアに笑みを向ける。その目が「頭を冷やしなさい」と言っているようで、フリージアはムッと唇を引き結んで椅子に腰を下ろした。交代でミミルが立ち上がる。
「では、七日ほど、置くことにしましょうか。ロウグ将軍には、一個人ではなく国の要人としての自覚をお持ちになっていただかないと」
部屋を出て行き際のミミルの台詞にフリージアは眉を逆立てたが、彼女が椅子を蹴倒す前に今度はビグヴィルが機先を制して口を開く。始まったやり取りには微塵も興味を示すことなく、ミミルはさっさと会議室から姿を消す。
「おおっと、そうだ。今日はうちのが昼飯に仔牛のシチューを作って待っとりましてな。フリージア殿、どうですか。貴女がいらっしゃれば、あれも喜びます」
ビグヴィルは自分の台詞に頷きながら、フリージアに笑みを向ける。
彼の妻、シフはほっそりとしたたおやかな貴婦人だ。フリージアが王都に到着して真っ先に向かったのはビグヴィルの屋敷で、そこで初めて彼女に会った。普通、ビグヴィルほどの地位の者になれば、家の中のことは使用人任せで女主人が家事をするなどということはない。だが、シフは夫の世話を焼くことが趣味のようで、甲斐甲斐しく食事を作ったり身支度を整えたりしてくれるらしい。
シフも当然ゲルダのことを知っていて、初顔合わせでフリージアがペコリと頭を下げた時には、涙ぐまれてしまった。
「仔牛のシチューって、あたしがここに来た日に出してくれたヤツ? 嬉しいな。あれ、すっごく美味しかった」
その時のことを思い出すだけで、フリージアの腹は鳴き声をあげそうになる。
「行く行く! 絶対、行く!」
目を輝かせるフリージアに、ビグヴィルも相好を崩した。そして、卓の向こう側に立っているスキルナに目を向けた。
「スキルナ殿も、いかがですかな?」
声をかけられて、スキルナは穏やかに微笑む。
「私は――いえ、そうですね、ご相伴にあずかりましょうか」
フリージアやビグヴィルと同様将軍職に就いているスキルナ・ザインは王妃であるサーガの実の父親なのだが、それに驕ることなくいつも控えめに皆の後ろにいる。
金髪碧眼はサーガと同じ色合いだったが、華やかな美貌を誇る彼女とは裏腹に、目を逸らしたらすぐにどんな顔をしていたか忘れてしまいそうな印象の薄さだ。会議の間も、ミミルを擁護する姿勢はあるが、特に発言することはない。
「まあ、ずるいわ」
と、父親の返事を聞いて、サーガが不満そうな声をあげる。席を立ったサーガはフリージアの元まで歩み寄ると彼女の頬を両手で包み込んだ。
絹のようなその手のひらの感触に、フリージアは少しドギマギしてしまう。
サーガはゲルダよりもいくつか若いくらいの年で、それはつまり、フリージアの母親くらいの年だということにもなる。もっとも、外見だけでは姉と言っても通りそうではあるが。
可憐な王妃はそのままフリージアの額にかすめるような口付けを落とすと、陽光を照り返す湖水のように目を輝かせて言った。
「今度、わたくしとお茶会をしましょうね? 来てくれなくては、イヤよ? あなたにお母様のことをたくさん話して差し上げたいわ。とても素敵な方だったのよ?」
フリージアに向けるサーガの眼差しは彼女を通り越してその奥にいる誰かを見つめているようで、少し居心地が悪くなる。そんなにも母親と似ているのだろうかと、一瞬、フリージアは鏡の中を覗き込みたくなる衝動に駆られた。
時折――本当に時折、この人々が見ているのは自分なのか、それとも母親なのか、フリージアには判らなくなる時がある。
フリージアはサーガに頬を挟まれたまま、束の間、オルディンを探して視線を彷徨わせた。
彼にいつものように自分を見てもらえたら――そう望んでも、彼は今この場にはいない。
フリージアは胸の中のモヤモヤしたものを振り払い、サーガに笑顔を向けた。
「母さんのこと、あたしも聞きたいです」
ビグヴィルやオルディンから、とても強い人だったということは、聞いている。
彼女は、ただ、強い人だったのだろうか。それとも、何かの為に、強くなろうとして強くなった人だったのだろうか。
フリージアがオルディン相手に剣の腕を磨いたのは、単純に楽しかったからだ。別に目的などない。
だから、フリージアは母が何の為に強くなろうとしていたのかを知りたかった。そして、何を思いながら将軍という職に就いていたのかを。
フリージアは、ゲルダの強さを称賛する言葉ではなく、彼女の心を知る為の言葉が欲しかった。
「母さんのことを、知りたいです」
噛み締めるように繰り返したフリージアに、ふと、サーガが笑みを変えた。どこか悲しげな、切なげな笑みに。
それはまるで恋い慕う相手を想うような色を含んでいて、フリージアはドキリとする。
サーガのその笑みは瞬きいくつか分のうちに消え失せて、再び艶やかな微笑みが戻る。彼女のその消し去ってしまった表情の理由を探ろうとしたフリージアを、サーガは腕を回してキュッと抱き締めてきた。
「そうね、わたくしが知る限りのあの方のことを、全部話して差し上げてよ」
銀の鈴を鳴らしたようなその声が微かに震えているように思われたのは、フリージアの気の所為だろうか。
こんなに綺麗な女性にこんなふうに抱擁されるのは、フリージアには初めてのことだ。
彼女はどんな反応を返したらいいのか判らず、思わず視線を彷徨わせた。と、優美な曲線を描く肩越しに、少し離れていたところにいたフレイと目が合う。
フリージアと視線が絡んだことに気付いた王は、まるで何か苦いものでも口にしたかのように、フッと目元を微かに歪ませた。そして、一瞬にしてそれを拭い去ると、サーガに向けて声をかける。
「サーガ、放しておやり。困った顔をしているよ」
「まあ、そう? ごめんなさいね。わたくし、つい嬉しくて」
手はフリージアに触れたまま身体を離したサーガは、小さく首をかしげて彼女を見つめてくる。そんな彼女に、フリージアは頭を振りつつ笑顔を返した。
「ううん、あたしも嬉しい。母さんのこと、何も知らないから……王妃様がいてくれて、良かったです」
「あら、サーガって呼んでね? ゲルダ様の娘なら、わたくしにとっても娘のようなものですもの。お茶会、約束でしてよ? 必ずね?」
そう言ってサーガはもう一度フリージアの額に唇で触れると、サッと身を翻した。薄絹のドレスをなびかせて王の元に戻った彼女は、フレイの腕にするりと自分の腕をからめると、優雅に膝を折って一礼する。
「では、皆様ごきげんよう、また明日」
大輪の花が咲くような笑顔を一堂に残し、フレイと連れ立ってサーガは出て行った。
「我々も行くとしましょうかの」
王たちを見送ってその姿が完全に視界から消えると、ビグヴィルが残った二人に目を向けて促した。
「じゃあ、あたしはオルディンを連れて行くから、先に行っててよ」
「承知した。お早くな」
「うん!」
フリージアの腹の虫も、今にも鳴き出さんばかりなのだ。一刻も早く仔牛のシチューにありつきたい気持ちは、もしかしたら三人のうちの誰よりも強いかもしれない。
「じゃあ、またね」
そう残すと、フリージアはオルディンがいる訓練場めがけて走り出した。
「はなから敵わないと決め付けて、何もしないで諦めるのか? それが『オトナ』のやり方だって?」
このミミルと顔を合わせた当初は『です』『ます』程度は心がけていたフリージアも、今はすっかりこんな口調だ。老爺の石頭ぶりに『丁寧な言葉遣い』などしようと思っていたら話なんてできやしない。
「駆け引きは必要です。国を背負うものは、一か八かを試すわけにはいきません。ニダベリルとて、本気で食料とエルフィアの両方をせしめる気はない筈。取り敢えず二つ出し、こちらがどちらを選ぶのかを見ているのでしょう。グランゲルドは元々豊かな土壌を持っておりますからな、多少エルフィアがいなくなったところで、問題はありませぬ。ただ、十六年前の状態に戻るだけで。それよりも、恒久的に法外な量の作物を要求される方が、後々厄介なことになりましょうぞ」
「露店の交渉じゃあるまいし……そんなの、納得できない。比べられるものじゃないんだから、どちらかなんて選べないよ」
譲らないフリージアにミミルが微かなため息を漏らすのを、その場の誰もが耳にした。
この三日、二人の言い分は平行線を伸ばすばかりでさっぱり交わる気配がないのだ。
無言で睨み合う少女と老人の間に、遠慮がちな咳払いが入り込む。
「えぇと、その、ですな。そろそろ昼時でもあることだし、本日の協議はこれで……」
「そうですわね。空腹だと、余計にイライラしてしまいましてよ」
ビグヴィルの仲裁にやんわりとした声で賛同したのは、王妃のサーガだ。彼女は優雅に扇子を口元に添えながら、一同に微笑みかける。
「しばらく、日にちを置いてからお話合いをする方がよろしいかもしれなくてよ?」
ね? と、サーガがフリージアに笑みを向ける。その目が「頭を冷やしなさい」と言っているようで、フリージアはムッと唇を引き結んで椅子に腰を下ろした。交代でミミルが立ち上がる。
「では、七日ほど、置くことにしましょうか。ロウグ将軍には、一個人ではなく国の要人としての自覚をお持ちになっていただかないと」
部屋を出て行き際のミミルの台詞にフリージアは眉を逆立てたが、彼女が椅子を蹴倒す前に今度はビグヴィルが機先を制して口を開く。始まったやり取りには微塵も興味を示すことなく、ミミルはさっさと会議室から姿を消す。
「おおっと、そうだ。今日はうちのが昼飯に仔牛のシチューを作って待っとりましてな。フリージア殿、どうですか。貴女がいらっしゃれば、あれも喜びます」
ビグヴィルは自分の台詞に頷きながら、フリージアに笑みを向ける。
彼の妻、シフはほっそりとしたたおやかな貴婦人だ。フリージアが王都に到着して真っ先に向かったのはビグヴィルの屋敷で、そこで初めて彼女に会った。普通、ビグヴィルほどの地位の者になれば、家の中のことは使用人任せで女主人が家事をするなどということはない。だが、シフは夫の世話を焼くことが趣味のようで、甲斐甲斐しく食事を作ったり身支度を整えたりしてくれるらしい。
シフも当然ゲルダのことを知っていて、初顔合わせでフリージアがペコリと頭を下げた時には、涙ぐまれてしまった。
「仔牛のシチューって、あたしがここに来た日に出してくれたヤツ? 嬉しいな。あれ、すっごく美味しかった」
その時のことを思い出すだけで、フリージアの腹は鳴き声をあげそうになる。
「行く行く! 絶対、行く!」
目を輝かせるフリージアに、ビグヴィルも相好を崩した。そして、卓の向こう側に立っているスキルナに目を向けた。
「スキルナ殿も、いかがですかな?」
声をかけられて、スキルナは穏やかに微笑む。
「私は――いえ、そうですね、ご相伴にあずかりましょうか」
フリージアやビグヴィルと同様将軍職に就いているスキルナ・ザインは王妃であるサーガの実の父親なのだが、それに驕ることなくいつも控えめに皆の後ろにいる。
金髪碧眼はサーガと同じ色合いだったが、華やかな美貌を誇る彼女とは裏腹に、目を逸らしたらすぐにどんな顔をしていたか忘れてしまいそうな印象の薄さだ。会議の間も、ミミルを擁護する姿勢はあるが、特に発言することはない。
「まあ、ずるいわ」
と、父親の返事を聞いて、サーガが不満そうな声をあげる。席を立ったサーガはフリージアの元まで歩み寄ると彼女の頬を両手で包み込んだ。
絹のようなその手のひらの感触に、フリージアは少しドギマギしてしまう。
サーガはゲルダよりもいくつか若いくらいの年で、それはつまり、フリージアの母親くらいの年だということにもなる。もっとも、外見だけでは姉と言っても通りそうではあるが。
可憐な王妃はそのままフリージアの額にかすめるような口付けを落とすと、陽光を照り返す湖水のように目を輝かせて言った。
「今度、わたくしとお茶会をしましょうね? 来てくれなくては、イヤよ? あなたにお母様のことをたくさん話して差し上げたいわ。とても素敵な方だったのよ?」
フリージアに向けるサーガの眼差しは彼女を通り越してその奥にいる誰かを見つめているようで、少し居心地が悪くなる。そんなにも母親と似ているのだろうかと、一瞬、フリージアは鏡の中を覗き込みたくなる衝動に駆られた。
時折――本当に時折、この人々が見ているのは自分なのか、それとも母親なのか、フリージアには判らなくなる時がある。
フリージアはサーガに頬を挟まれたまま、束の間、オルディンを探して視線を彷徨わせた。
彼にいつものように自分を見てもらえたら――そう望んでも、彼は今この場にはいない。
フリージアは胸の中のモヤモヤしたものを振り払い、サーガに笑顔を向けた。
「母さんのこと、あたしも聞きたいです」
ビグヴィルやオルディンから、とても強い人だったということは、聞いている。
彼女は、ただ、強い人だったのだろうか。それとも、何かの為に、強くなろうとして強くなった人だったのだろうか。
フリージアがオルディン相手に剣の腕を磨いたのは、単純に楽しかったからだ。別に目的などない。
だから、フリージアは母が何の為に強くなろうとしていたのかを知りたかった。そして、何を思いながら将軍という職に就いていたのかを。
フリージアは、ゲルダの強さを称賛する言葉ではなく、彼女の心を知る為の言葉が欲しかった。
「母さんのことを、知りたいです」
噛み締めるように繰り返したフリージアに、ふと、サーガが笑みを変えた。どこか悲しげな、切なげな笑みに。
それはまるで恋い慕う相手を想うような色を含んでいて、フリージアはドキリとする。
サーガのその笑みは瞬きいくつか分のうちに消え失せて、再び艶やかな微笑みが戻る。彼女のその消し去ってしまった表情の理由を探ろうとしたフリージアを、サーガは腕を回してキュッと抱き締めてきた。
「そうね、わたくしが知る限りのあの方のことを、全部話して差し上げてよ」
銀の鈴を鳴らしたようなその声が微かに震えているように思われたのは、フリージアの気の所為だろうか。
こんなに綺麗な女性にこんなふうに抱擁されるのは、フリージアには初めてのことだ。
彼女はどんな反応を返したらいいのか判らず、思わず視線を彷徨わせた。と、優美な曲線を描く肩越しに、少し離れていたところにいたフレイと目が合う。
フリージアと視線が絡んだことに気付いた王は、まるで何か苦いものでも口にしたかのように、フッと目元を微かに歪ませた。そして、一瞬にしてそれを拭い去ると、サーガに向けて声をかける。
「サーガ、放しておやり。困った顔をしているよ」
「まあ、そう? ごめんなさいね。わたくし、つい嬉しくて」
手はフリージアに触れたまま身体を離したサーガは、小さく首をかしげて彼女を見つめてくる。そんな彼女に、フリージアは頭を振りつつ笑顔を返した。
「ううん、あたしも嬉しい。母さんのこと、何も知らないから……王妃様がいてくれて、良かったです」
「あら、サーガって呼んでね? ゲルダ様の娘なら、わたくしにとっても娘のようなものですもの。お茶会、約束でしてよ? 必ずね?」
そう言ってサーガはもう一度フリージアの額に唇で触れると、サッと身を翻した。薄絹のドレスをなびかせて王の元に戻った彼女は、フレイの腕にするりと自分の腕をからめると、優雅に膝を折って一礼する。
「では、皆様ごきげんよう、また明日」
大輪の花が咲くような笑顔を一堂に残し、フレイと連れ立ってサーガは出て行った。
「我々も行くとしましょうかの」
王たちを見送ってその姿が完全に視界から消えると、ビグヴィルが残った二人に目を向けて促した。
「じゃあ、あたしはオルディンを連れて行くから、先に行っててよ」
「承知した。お早くな」
「うん!」
フリージアの腹の虫も、今にも鳴き出さんばかりなのだ。一刻も早く仔牛のシチューにありつきたい気持ちは、もしかしたら三人のうちの誰よりも強いかもしれない。
「じゃあ、またね」
そう残すと、フリージアはオルディンがいる訓練場めがけて走り出した。
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