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第二章:大いなる冬の訪れ
プロローグ
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ニダベリル。
そこは、岩山と荒野の国だ。
耕そうとしても鍬の刃を立てることもできない硬い大地、ろくに雨が降らない大気には常に埃が舞っている。
民の腹を満たすための作物が実る土地は乏しく、その限られた土地から可能な限り効率的に収穫を得る為に、彼らは様々な技術を発展させた。農地から採れる穀物の代わりに、岩山から採れる豊富な鉱物を用いて。
元来は荒野を潤し耕す為に生み出され、磨かれた技術だったが、やがてそれは戦う為の力へと転用されていく。
人よりも多くのものを運び、馬よりも重いものを動かし――剣よりも多くの敵を斃す為の力へ。
ニダベリルはその技術を使って、どんなに手を尽くしても豊かにはならない国土の代わりを、国の外に求め始めた。特にここ二代の王は精力的に力を駆使し、次々と周辺の土地を呑み込んでいったのだ。
そうして、より強大な武力国家へと成長していく。
*
岩山を切り拓いて造られたニダベリルの王都ニダドゥンは、質実剛健な都市だ。
剥き出しのままでは土埃が立ち込めてしまう道には石畳が敷き詰められ、装飾のない建物は狭い土地に効率よく人が住めるように造られている。
そのニダドゥンの最奥、山肌を掘り抜いて造られた王宮の中、玉座の上で頬杖を突きながら、アウストル・ゴウン・ニダルは宰相ヴィトル・ディールからの報告を受けていた。外は真夏の太陽がギラギラと照りつけているが、岩室の中に作られたこの謁見室はひんやりとしている。
「今年も作物のできのほどは芳しくありませんな。秋の収穫時まであとひと月ほどですが、国内だけで賄えば、民の四割は飢えましょうぞ」
「おい……年々落ちていないか?」
「おっしゃる通りで。五年ほど前は、せいぜい二割、というところでしたな」
渋面の王の言葉に、齢七十に届こうとしているヴィトルは白髭をしごきながら頷いた。
アウストルが三十半ばで王の座に就いたのは昨年のことである。それまでの彼は、国内にいるよりも遠征先で剣を振るっている時間の方が多いくらいだった。それでも、国の中の状況も、充分に把握している。
一言で表現するならば、この国は、貧しいのだ。
今年の夏も雨はろくに降らず、ありとあらゆる作物は充分な実を結んではいない。ヒトの力で川の流れを変え、田畑に水を引こうとしても、そもそもその川に水をもたらすのは天だ。ニダベリルの優秀な技術者たちは様々な機械を考え出してはくれたが、流石に、地から水を湧き出させ、空から雨を降らせるほどの技術など、ありはしない。
「やはり、奴らが根こそぎ亡命したことが影響しているのか」
人差し指でこめかみを叩きつつ、深い緑の目に憂いの色を浮かべたアウストルはぼやく。
ニダベリルの民のほとんどは暗色系の髪と目の色をしているが、彼の目は冬でも枯れないニダベリルの樹木のような緑色をしている。
何代か前の祖先にそんな色の者がいたというから、恐らく先祖返りなのだろう。明るい気分の時にはその緑も明るくなるが、今のような気分では黒にも近いほど濃くなっている。
アウストルはその目を閉ざして過去へと思いを馳せた。
そうした彼の頭の中に浮かぶのは、十六年前の出来事だ。従順な羊に過ぎないと思っていた者どもの、突然の逃亡。
今のニダベリルの荒廃は、あの時から加速したのだ。
そして、その政治的な事変と切り離せない、もう一つの記憶が彼にはある。
それは、燃えるような深紅の髪と、晴れ渡る真夏の空のような、青い目。
十六年という、ヒトには決して短いとは言えない年月が過ぎた今でも、ほんのわずかも色褪せることなく彼の脳裏によみがえる。
逃亡者たちを追って隣国との境界を侵した時、『彼女』はアウストルの前に立ちはだかった。
確か、当時十九歳だった彼よりも同じかいくつか年下だった筈だ。
華奢な、まだ少女と言ってもいいほどの、グランゲルドの女将軍。
それは、数限りない戦を経てきたアウストルが、唯一敗北を喫した相手だった。退却を勧告してきた時の『彼女』の艶やかな笑みは、今でも鮮明に彼の記憶の中にある。
――もう一度、相まみえるのか。
そう思ったアウストルの中で、血がザワリと波立った。
全身に走った身震いをごまかすように立ち上がると、彼は宣言する。
「そろそろ、我らのものを返してもらうとしよう」
「では、宣戦布告を?」
「ああ。そうだな……冬が明けたら出撃だ。それまで、グランゲルドには考える時間をくれてやる」
そうやって、侵略を重ねながら自らを潤すニダベリルの王の名を他国の者が呼ぶ時、その声に含まれるのは怨嗟の響きばかりだということは、彼も充分に承知している。
だが、アウストル・ゴウン・ニダルはこのニダベリルの王なのだ。
国を栄えさせる為なら、どんなことでもしよう――国あっての民なのだから。
国が潤えばこそ、民も豊かになれる。
このニダベリルの民は、強い自国を誇りに思っている。
国の為に民は戦い、そうすることで民は豊かになる――身も、心も。
アウストルは彼らの支柱であり、屋根だった。
「我らに、勝利を」
誰にともなくそう言い放ったアウストルに、ヴィトルは無言でこうべを垂れた。
*
ニダベリルの中枢にグランゲルドの女将軍死去の報せが届いたのは、それからしばらくしてのことである。
そこは、岩山と荒野の国だ。
耕そうとしても鍬の刃を立てることもできない硬い大地、ろくに雨が降らない大気には常に埃が舞っている。
民の腹を満たすための作物が実る土地は乏しく、その限られた土地から可能な限り効率的に収穫を得る為に、彼らは様々な技術を発展させた。農地から採れる穀物の代わりに、岩山から採れる豊富な鉱物を用いて。
元来は荒野を潤し耕す為に生み出され、磨かれた技術だったが、やがてそれは戦う為の力へと転用されていく。
人よりも多くのものを運び、馬よりも重いものを動かし――剣よりも多くの敵を斃す為の力へ。
ニダベリルはその技術を使って、どんなに手を尽くしても豊かにはならない国土の代わりを、国の外に求め始めた。特にここ二代の王は精力的に力を駆使し、次々と周辺の土地を呑み込んでいったのだ。
そうして、より強大な武力国家へと成長していく。
*
岩山を切り拓いて造られたニダベリルの王都ニダドゥンは、質実剛健な都市だ。
剥き出しのままでは土埃が立ち込めてしまう道には石畳が敷き詰められ、装飾のない建物は狭い土地に効率よく人が住めるように造られている。
そのニダドゥンの最奥、山肌を掘り抜いて造られた王宮の中、玉座の上で頬杖を突きながら、アウストル・ゴウン・ニダルは宰相ヴィトル・ディールからの報告を受けていた。外は真夏の太陽がギラギラと照りつけているが、岩室の中に作られたこの謁見室はひんやりとしている。
「今年も作物のできのほどは芳しくありませんな。秋の収穫時まであとひと月ほどですが、国内だけで賄えば、民の四割は飢えましょうぞ」
「おい……年々落ちていないか?」
「おっしゃる通りで。五年ほど前は、せいぜい二割、というところでしたな」
渋面の王の言葉に、齢七十に届こうとしているヴィトルは白髭をしごきながら頷いた。
アウストルが三十半ばで王の座に就いたのは昨年のことである。それまでの彼は、国内にいるよりも遠征先で剣を振るっている時間の方が多いくらいだった。それでも、国の中の状況も、充分に把握している。
一言で表現するならば、この国は、貧しいのだ。
今年の夏も雨はろくに降らず、ありとあらゆる作物は充分な実を結んではいない。ヒトの力で川の流れを変え、田畑に水を引こうとしても、そもそもその川に水をもたらすのは天だ。ニダベリルの優秀な技術者たちは様々な機械を考え出してはくれたが、流石に、地から水を湧き出させ、空から雨を降らせるほどの技術など、ありはしない。
「やはり、奴らが根こそぎ亡命したことが影響しているのか」
人差し指でこめかみを叩きつつ、深い緑の目に憂いの色を浮かべたアウストルはぼやく。
ニダベリルの民のほとんどは暗色系の髪と目の色をしているが、彼の目は冬でも枯れないニダベリルの樹木のような緑色をしている。
何代か前の祖先にそんな色の者がいたというから、恐らく先祖返りなのだろう。明るい気分の時にはその緑も明るくなるが、今のような気分では黒にも近いほど濃くなっている。
アウストルはその目を閉ざして過去へと思いを馳せた。
そうした彼の頭の中に浮かぶのは、十六年前の出来事だ。従順な羊に過ぎないと思っていた者どもの、突然の逃亡。
今のニダベリルの荒廃は、あの時から加速したのだ。
そして、その政治的な事変と切り離せない、もう一つの記憶が彼にはある。
それは、燃えるような深紅の髪と、晴れ渡る真夏の空のような、青い目。
十六年という、ヒトには決して短いとは言えない年月が過ぎた今でも、ほんのわずかも色褪せることなく彼の脳裏によみがえる。
逃亡者たちを追って隣国との境界を侵した時、『彼女』はアウストルの前に立ちはだかった。
確か、当時十九歳だった彼よりも同じかいくつか年下だった筈だ。
華奢な、まだ少女と言ってもいいほどの、グランゲルドの女将軍。
それは、数限りない戦を経てきたアウストルが、唯一敗北を喫した相手だった。退却を勧告してきた時の『彼女』の艶やかな笑みは、今でも鮮明に彼の記憶の中にある。
――もう一度、相まみえるのか。
そう思ったアウストルの中で、血がザワリと波立った。
全身に走った身震いをごまかすように立ち上がると、彼は宣言する。
「そろそろ、我らのものを返してもらうとしよう」
「では、宣戦布告を?」
「ああ。そうだな……冬が明けたら出撃だ。それまで、グランゲルドには考える時間をくれてやる」
そうやって、侵略を重ねながら自らを潤すニダベリルの王の名を他国の者が呼ぶ時、その声に含まれるのは怨嗟の響きばかりだということは、彼も充分に承知している。
だが、アウストル・ゴウン・ニダルはこのニダベリルの王なのだ。
国を栄えさせる為なら、どんなことでもしよう――国あっての民なのだから。
国が潤えばこそ、民も豊かになれる。
このニダベリルの民は、強い自国を誇りに思っている。
国の為に民は戦い、そうすることで民は豊かになる――身も、心も。
アウストルは彼らの支柱であり、屋根だった。
「我らに、勝利を」
誰にともなくそう言い放ったアウストルに、ヴィトルは無言でこうべを垂れた。
*
ニダベリルの中枢にグランゲルドの女将軍死去の報せが届いたのは、それからしばらくしてのことである。
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