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第一章:戦乙女の召還
先触れ①
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ザッと茂みを割って、一つの影が飛び出した。
小柄な身体、編んだ長い赤毛が尻尾のように数瞬置いて後を追う。
少女だ。
身に着けているものは色気も素っ気もない男物だが、華奢な肩は明らかに少年の骨格ではない。右手に剥き出しの細身の剣を携え、少女は森の緑よりも鮮やかな色のその目を煌めかせて、ちらりと背後を窺った。
葉擦れの音だけでなく、バキン、ボキンと枝の折られる音がものすごい勢いで近付いてくる。
彼女の後を追って茂みから現れたのは、仔牛ほどの体躯に黒灰色の毛皮をまとう牙狼だ。下顎を越すほどの長い牙の先から涎を滴らせ、鋼鉄の熊手のような鉤爪で地面を蹴立てて彼女に迫る。
捕まれば、一瞬にして噛み砕かれ、引き裂かれるだろう。
剣を持っていても、こんな細腕の少女に太刀打ちできる筈がない。だが、かと言って、いつまでも走り続けるわけにもいかないのだ。人間と牙狼では持久力が違いすぎる。少女が力尽きるのは、時間の問題だった。
と、不意に。
何を思ったのか少女が足を止め、クルリと牙狼に向き直る。
牙狼の方はといえば、勢いの付いた巨体をそう簡単に止めることはできず、脚を絡ませながら彼女に突進し続ける。それを最小限の身のこなしでかわし、少女は隙なく牙狼の動きを目で追った。
少女の脇を通り過ぎた牙狼は落ち葉を蹴立てて何とか方向を変えると、頭を低くして唸り声を上げる。
少女は牙狼をヒタと見据えたまま、首に下げていた笛をくわえた。そして、吹く――が、音は鳴り響かない。無音であることに頓着せず、彼女は口から笛を落とすとゆっくりと剣を構えた。
牙狼の唸り声、そして跳躍。飢えた獣の身のこなしは素早い。
人であれば十歩はかかるその距離を、一跳びで縮めてくる。
とうてい勝てる筈がないモノを前に、至って冷静に、少女は鋭く剣を振るった。
直後。
「キャウン!」
まるで仔犬のような悲鳴が、杭のような牙が並ぶ口から漏れる。少女の刃は、狙い違わず、牙狼のむき出しで敏感な鼻先を切り裂いていたのだ。
ジリジリと少女は慎重に後ずさりし、悶絶する牙狼と距離を取る。
ひとしきり情けない声を上げていた牙狼だったが、やがて血液混じりの赤い涎を垂らしながら、その濁った眼にそれまでの餌に対する欲求だけではなく、明らかな怒りの色を滾らせて少女を睨み付けてきた。
このままでは、彼女に勝算はない。
しかし、少女は息一つ乱すことなく巨大な獣に対峙している。そこに恐怖や不安は微塵も感じられない。
牙狼も懲りたと見えて、猛々しい唸り声を轟かせながらも安易に跳びかかろうとはしない。互いに相手の動きを窺い、ピクリとも身じろぎしなかった。
どれほどの時間が過ぎた頃だろうか。ふと、少女の口元が緩んだ。そして、小さく呟く。
「――来た」
その言葉と共に、一歩を踏み出す。それが引き金になったかのように、少女目がけて巨体が跳んだ。
少女は逃げようとしない。
鋭い鉤爪が、濡れて光る長大な牙が、少女に届かんとした、その時。
ザザッと頭上の木々の梢を揺らし、一人と一匹の上に何かが舞い降りる。そして、次の瞬間、牙狼の頭を、少女が手にする剣の数倍の太さを持つ刃が貫き、地面に縫い止めていた。
ドウ、と音を立てて巨体が地面に倒れ伏す。その背に立つ大剣の主は、黒衣に身を包んだ青年だ。彼は完全に沈黙した黒灰色の身体からゆっくりと下りると、慎重に剣を引き抜いた。
しゃがみこみ、牙狼が完全に息絶えたことを確認する彼の背後で、少女が鈴を振るったような声を上げる。
「オル!」
名を呼ばれ、青年は振り返った――その目に怒りを湛えながら。
小柄な身体、編んだ長い赤毛が尻尾のように数瞬置いて後を追う。
少女だ。
身に着けているものは色気も素っ気もない男物だが、華奢な肩は明らかに少年の骨格ではない。右手に剥き出しの細身の剣を携え、少女は森の緑よりも鮮やかな色のその目を煌めかせて、ちらりと背後を窺った。
葉擦れの音だけでなく、バキン、ボキンと枝の折られる音がものすごい勢いで近付いてくる。
彼女の後を追って茂みから現れたのは、仔牛ほどの体躯に黒灰色の毛皮をまとう牙狼だ。下顎を越すほどの長い牙の先から涎を滴らせ、鋼鉄の熊手のような鉤爪で地面を蹴立てて彼女に迫る。
捕まれば、一瞬にして噛み砕かれ、引き裂かれるだろう。
剣を持っていても、こんな細腕の少女に太刀打ちできる筈がない。だが、かと言って、いつまでも走り続けるわけにもいかないのだ。人間と牙狼では持久力が違いすぎる。少女が力尽きるのは、時間の問題だった。
と、不意に。
何を思ったのか少女が足を止め、クルリと牙狼に向き直る。
牙狼の方はといえば、勢いの付いた巨体をそう簡単に止めることはできず、脚を絡ませながら彼女に突進し続ける。それを最小限の身のこなしでかわし、少女は隙なく牙狼の動きを目で追った。
少女の脇を通り過ぎた牙狼は落ち葉を蹴立てて何とか方向を変えると、頭を低くして唸り声を上げる。
少女は牙狼をヒタと見据えたまま、首に下げていた笛をくわえた。そして、吹く――が、音は鳴り響かない。無音であることに頓着せず、彼女は口から笛を落とすとゆっくりと剣を構えた。
牙狼の唸り声、そして跳躍。飢えた獣の身のこなしは素早い。
人であれば十歩はかかるその距離を、一跳びで縮めてくる。
とうてい勝てる筈がないモノを前に、至って冷静に、少女は鋭く剣を振るった。
直後。
「キャウン!」
まるで仔犬のような悲鳴が、杭のような牙が並ぶ口から漏れる。少女の刃は、狙い違わず、牙狼のむき出しで敏感な鼻先を切り裂いていたのだ。
ジリジリと少女は慎重に後ずさりし、悶絶する牙狼と距離を取る。
ひとしきり情けない声を上げていた牙狼だったが、やがて血液混じりの赤い涎を垂らしながら、その濁った眼にそれまでの餌に対する欲求だけではなく、明らかな怒りの色を滾らせて少女を睨み付けてきた。
このままでは、彼女に勝算はない。
しかし、少女は息一つ乱すことなく巨大な獣に対峙している。そこに恐怖や不安は微塵も感じられない。
牙狼も懲りたと見えて、猛々しい唸り声を轟かせながらも安易に跳びかかろうとはしない。互いに相手の動きを窺い、ピクリとも身じろぎしなかった。
どれほどの時間が過ぎた頃だろうか。ふと、少女の口元が緩んだ。そして、小さく呟く。
「――来た」
その言葉と共に、一歩を踏み出す。それが引き金になったかのように、少女目がけて巨体が跳んだ。
少女は逃げようとしない。
鋭い鉤爪が、濡れて光る長大な牙が、少女に届かんとした、その時。
ザザッと頭上の木々の梢を揺らし、一人と一匹の上に何かが舞い降りる。そして、次の瞬間、牙狼の頭を、少女が手にする剣の数倍の太さを持つ刃が貫き、地面に縫い止めていた。
ドウ、と音を立てて巨体が地面に倒れ伏す。その背に立つ大剣の主は、黒衣に身を包んだ青年だ。彼は完全に沈黙した黒灰色の身体からゆっくりと下りると、慎重に剣を引き抜いた。
しゃがみこみ、牙狼が完全に息絶えたことを確認する彼の背後で、少女が鈴を振るったような声を上げる。
「オル!」
名を呼ばれ、青年は振り返った――その目に怒りを湛えながら。
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