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第一章:戦乙女の召還
プロローグ
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艶やかに笑いながら、その女は、情けなく地面に尻をついている彼に鋭い切っ先を向けていた。
有り得ない。
こんなことは、有り得ない。
組織の中では一、二を争う腕前の自分がこんなにもたやすく敗北を喫するなど、決して有り得ないことだった。
彼が『一人前』となって四年は経つが、その間に下された命は星の数ほどある。それら全てを、彼は、正確無比にしくじりなくこなしてきた。
だからこそ、彼は今まで生きてこられたのだ。
それなのに、たった今、標的に忍び寄った彼の剣は不意にどこからともなく現れたこの女に無造作に打ち払われ、気が付けば、この状況となっていたのだ。
標的には逃げられ、剣を取り落とし、情けなく尻餅をつき、鼻先に刃があるという状況に。
桁違いの、腕。
それは、悔しささえ感じられないほどの、圧倒的な差だった。
「どうした、少年? 何か言うことはないのか? それとも、さっさと自害するか?」
頬にかかった燃え立つ炎のような髪を片手で払い、彼女は愉しそうにそう問いを重ねた。その目は、真夏の空のような深い青だ。
「……殺さねぇのかよ。それとも拷問にでもかけるか? けどな、俺は何も知らないぜ。雇い主のことは上のヤツしか知らねぇ」
どうせ、失敗すれば待っているのは死だけだ。アジトに帰ってから殺されるのも、今この場で殺されるのも、大差はない。
潔くというより投げやりに、彼は地面に大の字になった。女は、その形の良い眉を軽く持ち上げる。
「何だ、ずいぶんあっさりしているんだな。後ろにいる奴なんて、お前に訊くまでもないよ。見当はついてる」
そう言うと、つまらなそうに、彼女は剣を引っ込める。それこそ、そんなに簡単に気を抜いていいのかよ、と彼は思ったが、剣を持っていようが持っていまいが、きっとこの女には歯が立たないだろう。彼女も、その力の差が判っているのだ。
仕方がない。
俺の人生など、どうせたいしたものじゃない。
はあ、とため息とも深呼吸ともつかない深い息を吐きだし、彼は身体の力を抜いて見下ろしてくる青い瞳を見返した。
「ふうん……」
彼女が目をすがめる。
そうして、言った。
「お前、生きてないね」
「は?」
「生きる理由がないんだろ?」
「何のことだよ。意味解かんねぇよ」
眉間にしわを寄せる彼には頓着せずに、彼女は笑う。
青空よりも、晴れやかに。
「お前に、『それ』をやろう」
「『それ』って、何だよ」
「『理由』さ。生きる理由を、お前に与えてやるよ」
「ああ?」
一人で勝手に話を進めていく彼女に、彼は更に渋面になる。そんな彼の前で彼女は警戒心の欠片もなく後ろを振り返ると、どこへともなく声をかけた。
「ほら、もういいから出ておいで」
と、少し離れた茂みが、ガサガサと音を立てる。そして、ひょこりと、何かが飛び出した――子どもだ。
まだ幼い、子ども。
彼の『標的』だったもの。
どこからどう見ても男児の服装を身に着けた、まだ三つかそこらの女の子だ。目の前の女と同じ髪の色だが、目は違う。大きなその目は、真夏に繁る新緑の色をしている。
幼女はトットットッと駆け寄ってくると、女の足にガシリとしがみついた。その陰から、彼をジッと見つめてくる。
女は子どもを抱き上げると、愛おしそうに――この上なく愛おしそうに、頬ずりをした。幼女はくすぐったそうに声を上げて笑い、女の頭にしがみつく。
凶手である彼の存在など、まるで無視した光景だ。
ひとしきり子どもを慈しんだ後、彼女がようやく彼に目を戻した。そして、唐突に言う。
「この子を連れて行きなよ」
「……は?」
「これから一年、この子を連れ歩け。その先は、お前の好きにしたらいい。放り出してもいいし、殺してもいい」
「俺はそいつを殺しに来たんだぜ?」
「ああ。だから、それを一年だけ待ってくれ」
「あんた、馬鹿か?」
「いいや、頭は良い方だよ。だから、判る。一年後に、お前は私に感謝している筈だってな。賭けてもいいぞ?」
楽しそうに輝くその目は、しかし、奥深くに真剣な光を宿している。それは鋭い矢のように真っ直ぐ、彼に突き刺さった。
「一年間、この子を護れ」
唇を引き結んだ彼に、女はもう一度繰り返す。ふざけた様子など、微塵もない口調で。
よりにもよって暗殺者にそんなことを頼むだなどと、この女はどうかしている。彼は心の底からそう思った。普通は、頷きはしない。
そう、普通なら。
――だが。
「わかった」
彼は、そう答えていた。何が彼をそうさせたのかは判らない。けれど、気付けば承諾が口を突いて出ていたのだ。
彼の答えに、彼女が笑う。パッと大輪の花が咲いたように、鮮やかに。
「そうか!」
そうして、彼女は子どもを首から離し、その目を覗き込む。
「いいか? 今日からこいつと一緒にいるんだ。お前を護ってくれるから」
「かあさまは? いっしょ?」
「いいや、母様は行かない。お前だけだ」
「じゃあ、やだ」
「行くんだよ」
「かあさまといっしょがいい」
「聴きなさい」
子どもを地面に下ろし、彼女自身は片膝を突いて身を屈める。
「母様は一緒に行けない。けどな、誰よりもお前のことを愛している。身体はお前と一緒にいなくても、必ず心はお前の傍にいる。お前の中にいるよ」
彼女が懇々と諭しても、子どもはイヤイヤと頭を振るばかりだ。
「無理じゃねぇの? そんなガキに親と離れろなんてよ」
「私がこの子から片時も離れずにいることは不可能だ。私には、この子を護りきれない。ここに置いたままでは、この子は護れないんだよ。奴に気付かれたからには、遅かれ早かれ喪われることになるだろう……どれだけ私が目を凝らしていてもな」
そう言って彼に振り返った彼女の眼差しには、それまでの軽さはなかった。
彼女は首に手を回し、何かを外す。繊細な意匠の銀の台座に小さな蒼玉がはめられた、首飾りだ。星の入ったその石は、女の目の色に良く似ている。彼女は、それをそのまま子どもの首にかけた。そうして掌に載せ、再び子どもに言い聞かせる。
「これが母様だ。母様は、いつもこの中にいる」
「ここに? ホント?」
「ああ、本当だ。ほら、母様の目と、同じ色だろ?」
「うん」
女の言葉に、子どもは大きく頷くと、頬にえくぼを刻んで嬉しそうに笑う。それは、女のことを信じ切った笑顔だった。
女はどこか苦し気な笑みを頬に刻み、もう一度子どもを抱き寄せた。自分と同じ色の髪に頬を埋め、目を閉じる。
「母様は、そこからお前を見ている。いつでも、どんな時でも」
そうして、無理やり引きはがすようにして子どもを離すと、彼に向けて押し出した。
「ほら、お行き」
子どもはタタッと数歩走り、何かを思い出したようにクルリと振り返る。
「いつ、おむかえにきてくれるの?」
女はフッと視線を揺るがせ、そして少し歪な笑顔を浮かべた。
「すぐだよ……すぐだ」
そうして、彼に目を向ける。
「いいか、一年。一年だ」
「わかってる。その先は、好きにしてもいいんだな」
「ああ」
その短いやり取りの間に、子どもが彼の元に辿り着いていた。小さく首をかしげて、遥か高い位置にある彼の顔を見上げる。
「あたし、ジアよ」
そう言うと、ニコッと笑う。
屈託の欠片もない、彼への信頼を丸出しにした笑顔。
その途端、彼の胃の辺りが何かに掴まれたような感覚を覚えた。それは痛みに近いが、違う。これまで経験したことのないものだった。
いったい何なのだろうと訝しみながらも、彼は片腕を伸ばして子どもをすくい上げる。幼女は慣れた仕草で彼の首に腕を回してきた。
触れたことのない柔らかさと温かさに戸惑いつつ、彼は女に視線を投げる。
「じゃあな」
「ああ……頼む」
短いその台詞に、万感の想いが込められていることが、否が応でも伝わってくる。彼女に背を向けて歩き出した彼に、腕の中の子どもが声を上げた。
「ねえ、あなたのおなまえは?」
確かに、名前を知らなければ色々不自由だろう。少なくとも一年間は、共に過ごすのだから。
「ああ、俺は――」
彼は、自分の名を告げた。
有り得ない。
こんなことは、有り得ない。
組織の中では一、二を争う腕前の自分がこんなにもたやすく敗北を喫するなど、決して有り得ないことだった。
彼が『一人前』となって四年は経つが、その間に下された命は星の数ほどある。それら全てを、彼は、正確無比にしくじりなくこなしてきた。
だからこそ、彼は今まで生きてこられたのだ。
それなのに、たった今、標的に忍び寄った彼の剣は不意にどこからともなく現れたこの女に無造作に打ち払われ、気が付けば、この状況となっていたのだ。
標的には逃げられ、剣を取り落とし、情けなく尻餅をつき、鼻先に刃があるという状況に。
桁違いの、腕。
それは、悔しささえ感じられないほどの、圧倒的な差だった。
「どうした、少年? 何か言うことはないのか? それとも、さっさと自害するか?」
頬にかかった燃え立つ炎のような髪を片手で払い、彼女は愉しそうにそう問いを重ねた。その目は、真夏の空のような深い青だ。
「……殺さねぇのかよ。それとも拷問にでもかけるか? けどな、俺は何も知らないぜ。雇い主のことは上のヤツしか知らねぇ」
どうせ、失敗すれば待っているのは死だけだ。アジトに帰ってから殺されるのも、今この場で殺されるのも、大差はない。
潔くというより投げやりに、彼は地面に大の字になった。女は、その形の良い眉を軽く持ち上げる。
「何だ、ずいぶんあっさりしているんだな。後ろにいる奴なんて、お前に訊くまでもないよ。見当はついてる」
そう言うと、つまらなそうに、彼女は剣を引っ込める。それこそ、そんなに簡単に気を抜いていいのかよ、と彼は思ったが、剣を持っていようが持っていまいが、きっとこの女には歯が立たないだろう。彼女も、その力の差が判っているのだ。
仕方がない。
俺の人生など、どうせたいしたものじゃない。
はあ、とため息とも深呼吸ともつかない深い息を吐きだし、彼は身体の力を抜いて見下ろしてくる青い瞳を見返した。
「ふうん……」
彼女が目をすがめる。
そうして、言った。
「お前、生きてないね」
「は?」
「生きる理由がないんだろ?」
「何のことだよ。意味解かんねぇよ」
眉間にしわを寄せる彼には頓着せずに、彼女は笑う。
青空よりも、晴れやかに。
「お前に、『それ』をやろう」
「『それ』って、何だよ」
「『理由』さ。生きる理由を、お前に与えてやるよ」
「ああ?」
一人で勝手に話を進めていく彼女に、彼は更に渋面になる。そんな彼の前で彼女は警戒心の欠片もなく後ろを振り返ると、どこへともなく声をかけた。
「ほら、もういいから出ておいで」
と、少し離れた茂みが、ガサガサと音を立てる。そして、ひょこりと、何かが飛び出した――子どもだ。
まだ幼い、子ども。
彼の『標的』だったもの。
どこからどう見ても男児の服装を身に着けた、まだ三つかそこらの女の子だ。目の前の女と同じ髪の色だが、目は違う。大きなその目は、真夏に繁る新緑の色をしている。
幼女はトットットッと駆け寄ってくると、女の足にガシリとしがみついた。その陰から、彼をジッと見つめてくる。
女は子どもを抱き上げると、愛おしそうに――この上なく愛おしそうに、頬ずりをした。幼女はくすぐったそうに声を上げて笑い、女の頭にしがみつく。
凶手である彼の存在など、まるで無視した光景だ。
ひとしきり子どもを慈しんだ後、彼女がようやく彼に目を戻した。そして、唐突に言う。
「この子を連れて行きなよ」
「……は?」
「これから一年、この子を連れ歩け。その先は、お前の好きにしたらいい。放り出してもいいし、殺してもいい」
「俺はそいつを殺しに来たんだぜ?」
「ああ。だから、それを一年だけ待ってくれ」
「あんた、馬鹿か?」
「いいや、頭は良い方だよ。だから、判る。一年後に、お前は私に感謝している筈だってな。賭けてもいいぞ?」
楽しそうに輝くその目は、しかし、奥深くに真剣な光を宿している。それは鋭い矢のように真っ直ぐ、彼に突き刺さった。
「一年間、この子を護れ」
唇を引き結んだ彼に、女はもう一度繰り返す。ふざけた様子など、微塵もない口調で。
よりにもよって暗殺者にそんなことを頼むだなどと、この女はどうかしている。彼は心の底からそう思った。普通は、頷きはしない。
そう、普通なら。
――だが。
「わかった」
彼は、そう答えていた。何が彼をそうさせたのかは判らない。けれど、気付けば承諾が口を突いて出ていたのだ。
彼の答えに、彼女が笑う。パッと大輪の花が咲いたように、鮮やかに。
「そうか!」
そうして、彼女は子どもを首から離し、その目を覗き込む。
「いいか? 今日からこいつと一緒にいるんだ。お前を護ってくれるから」
「かあさまは? いっしょ?」
「いいや、母様は行かない。お前だけだ」
「じゃあ、やだ」
「行くんだよ」
「かあさまといっしょがいい」
「聴きなさい」
子どもを地面に下ろし、彼女自身は片膝を突いて身を屈める。
「母様は一緒に行けない。けどな、誰よりもお前のことを愛している。身体はお前と一緒にいなくても、必ず心はお前の傍にいる。お前の中にいるよ」
彼女が懇々と諭しても、子どもはイヤイヤと頭を振るばかりだ。
「無理じゃねぇの? そんなガキに親と離れろなんてよ」
「私がこの子から片時も離れずにいることは不可能だ。私には、この子を護りきれない。ここに置いたままでは、この子は護れないんだよ。奴に気付かれたからには、遅かれ早かれ喪われることになるだろう……どれだけ私が目を凝らしていてもな」
そう言って彼に振り返った彼女の眼差しには、それまでの軽さはなかった。
彼女は首に手を回し、何かを外す。繊細な意匠の銀の台座に小さな蒼玉がはめられた、首飾りだ。星の入ったその石は、女の目の色に良く似ている。彼女は、それをそのまま子どもの首にかけた。そうして掌に載せ、再び子どもに言い聞かせる。
「これが母様だ。母様は、いつもこの中にいる」
「ここに? ホント?」
「ああ、本当だ。ほら、母様の目と、同じ色だろ?」
「うん」
女の言葉に、子どもは大きく頷くと、頬にえくぼを刻んで嬉しそうに笑う。それは、女のことを信じ切った笑顔だった。
女はどこか苦し気な笑みを頬に刻み、もう一度子どもを抱き寄せた。自分と同じ色の髪に頬を埋め、目を閉じる。
「母様は、そこからお前を見ている。いつでも、どんな時でも」
そうして、無理やり引きはがすようにして子どもを離すと、彼に向けて押し出した。
「ほら、お行き」
子どもはタタッと数歩走り、何かを思い出したようにクルリと振り返る。
「いつ、おむかえにきてくれるの?」
女はフッと視線を揺るがせ、そして少し歪な笑顔を浮かべた。
「すぐだよ……すぐだ」
そうして、彼に目を向ける。
「いいか、一年。一年だ」
「わかってる。その先は、好きにしてもいいんだな」
「ああ」
その短いやり取りの間に、子どもが彼の元に辿り着いていた。小さく首をかしげて、遥か高い位置にある彼の顔を見上げる。
「あたし、ジアよ」
そう言うと、ニコッと笑う。
屈託の欠片もない、彼への信頼を丸出しにした笑顔。
その途端、彼の胃の辺りが何かに掴まれたような感覚を覚えた。それは痛みに近いが、違う。これまで経験したことのないものだった。
いったい何なのだろうと訝しみながらも、彼は片腕を伸ばして子どもをすくい上げる。幼女は慣れた仕草で彼の首に腕を回してきた。
触れたことのない柔らかさと温かさに戸惑いつつ、彼は女に視線を投げる。
「じゃあな」
「ああ……頼む」
短いその台詞に、万感の想いが込められていることが、否が応でも伝わってくる。彼女に背を向けて歩き出した彼に、腕の中の子どもが声を上げた。
「ねえ、あなたのおなまえは?」
確かに、名前を知らなければ色々不自由だろう。少なくとも一年間は、共に過ごすのだから。
「ああ、俺は――」
彼は、自分の名を告げた。
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