大事なあなた

トウリン

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幸せの増やし方

十七

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 駅の改札を出た弥生は、家への帰り道をトボトボと歩いていた。
 頭の中では、執務室での光景と遣り取りがグルグルと回り続けている。

 ――今まで、一輝君のお部屋で『お友達』と会ったことなんてなかった。

 というよりも、彼の個人的な知り合いそのものを、弥生は知らない。

 ――お付き合い、してるんだと思ってたんだけどな。

 一輝との関係は、『恋人』と呼べるものだと思っていたのだ――弥生の方は。仕事の関係者でもないのに彼の執務室に入れるのは、『特別』だからだと思っていた。
 けれど、他にも自分と同じように出入りできる女の子がいる。

 ということは、つまり。

 弥生は胸元をキュッと抑えた。

 考えて、出てくる答えは、どうしても一つしかない。
 なんだか、胸の奥がひりひりする。

「これって、やきもち、かな」
 呟いて、小さく笑った。

 丁度そのタイミングで、携帯電話が振動する。電車の中でマナーモードに切り替えたままだった。
 ディスプレイに映し出された名前に、弥生は固まる。
 それは、今、ものすごく逢いたくて、そして誰よりも一番逢いたくない人だった。

 どんな話なのだろうか。

 ――もう、二度と会わない、とか……?

 何度か深呼吸して、弥生は恐る恐る通話ボタンを押す。
「はい」
「弥生さん?」
 耳元で囁くように、名前を呼ばれた。

 きん、と胸が痛む。

 二ヶ月ぶりに聞く、一輝の声だった。それだけで、涙がこぼれそうになる。彼は弥生に口を挟む間を与えず、言葉を重ねてきた。
「え? ……あのネックレス? うん……」
 無意識に空いている手が上がり、胸元のネックレスに触れる。一輝からは幾つも贈り物をもらっているけれど、このネックレスは特別なものだった。彼への気持ちに気付くことになった出来事の、記念のようなものでもある。常に、肌身離さず身に着けていた。

 一輝はほとんど弥生の返事を聞かずに、一方的にまくしたてて電話を切ってしまう。
 結局、どんな話があるのかは判らず、心の中には不安が溜まるばかりだった。

「やっぱり……さよなら……?」
 口に出すと、それが現実味を帯びてくる。
 ほぼ惰性で足が動き、家は勝手に近付いてきた。角を曲がれば、もう、着いてしまう。まだ家族には会いたくないと思いながらも、道を曲がった。

 と。

「大石」
 思わず、その場で立ち止まった。
『大石金型製作所』という看板がかかっている門扉に寄りかかっていた人物が、彼女の姿を目にして身体を起こす。

「宮川さん……どうして、ここに?」
 本当に、どうして、だ。弥生は呆気に取られて返す言葉もない。
 けれど、宮川の方はホッとしたように頬を緩めて手を振ってくる。弥生は少し小走りに近寄って、彼を見上げて問いかけた。

「どうしたんですか?」
「それは、俺の台詞だって。今日、バイト休んだだろ? 今まで皆勤だったから、どうしたのかと」
「あ……今日は、ちょっと用事があって……」
 言葉を濁す弥生を、宮川が見下ろす。その視線は、彼女の表情を窺っているような感じがした。
「ふうん。――少し話せるか?」
 一瞬、断ろうかと思った。けれども、結局、弥生は頷きを返す。浮上しきらない気持ちのままで家族に会うよりは、他人の宮川の方がまだ気が楽な気がしたのだ。
 それに、もしかしたら、このまま家にいて一輝を待つのが怖いという気持ちもあったかもしれない。

「じゃあ、近くの公園にでも行きましょうか」
 そう言って、歩いて十分ほどのところにある公園に向けて、弥生は先に立って歩き出す。
 どちらも何も言わず、ただ足を動かした。

 公園の入口まで来て、弥生は思わず立ち止まる。
 何年か前に、一輝や弟たちとこの公園の広場でピクニックをしたことがある。あれはまだ、彼と出会って間もない時分で。

 ――あの頃は、こんなふうに迷ったり悩んだりすることはなかったのに。

 弟と同い年の一輝は全然子どもらしくなくて、弥生は何かをしてあげたいと思ったのだ。余計なお世話だったかもしれないけれど、もっと、何か『楽しい』と思えるようなことを体験して欲しかった。
 礼儀正しい微笑みしか浮かべない彼に、もっとちゃんと笑って欲しかった。

 それは、弟たちに感じるような気持ちと、同じものだったのだろうか。

 ――それとも、あの頃からもう一輝君のことは『特別』だったのかな。

 判らないけれど、今でもやっぱり、彼には笑っていて欲しいと思う。

「どうした?」
 動かない弥生に、数歩先に行っていた宮川が振り返った。
「あ、いえ……なんでもない、です」
 小さくかぶりを振って、歩き出す。

 宮川と並んで子どもたちの歓声が響く広場を抜け、やがて遊歩道の方にあるベンチに辿り着く。
 そこに腰を下ろすと、待っていたかのように宮川が口火を切った。

「で、何があったんだ?」
「え? ……何って……」
「ごまかすなよ。何かあったんだろ? 顔に思いっきり出てる」
 ジッと見下ろされて、思わず弥生は両手で頬を覆った。そんなことをしても、隠したことにはならないのだが。
「何も、ないですよ……?」
 取り敢えず、そう言ってみる。が、その台詞は一蹴された。
「ウソつけ。自分の顔を鏡で見てみろよ」
 弥生はグッと言葉に詰まる。
 黙りこんだ彼女に、宮川が深く溜息をついた。

「また、あいつ絡みなんだろ? あの――新藤一輝の」
 多分、つい、情けない顔になってしまったのだろう。
 不意にその名前を出されてしまったから、取り繕う余裕がなかった。
 一瞬宮川がギュッと眉間に皺を寄せて、弥生が、あ、と思った時は、もう遅かった。大きな手に腕を掴まれて広い胸に引き寄せられる。

「あ……ちょっと、待って……」
 咄嗟に身をよじって逃れようとしたけれど、彼の力には全く歯が立たず、背後から抱きすくめられてしまった。腕まで閉じ込められて、振りほどこうにもびくともしない。
「宮川さん、放してください――!」
 弥生がもがくほどに、それを押さえ込もうとするのか、彼の力は強くなった。

 彼女を捉えたまま、宮川は呻くように言う。
「もっと楽な恋愛があるだろ? お前、どんどんつらそうになる一方じゃないか。最近、前のように笑えてないの、気付いてないんだろう? 何で、そこまでそいつに義理立てするんだよ」

 ――義理立て? この気持ちって、『義理』なの?

 義理で、一輝の傍にいたいと思っているのだろうか?
 義理で、彼に触れられたいと思っているのだろうか?

 違う。
 それは違うと思った。

「『義理』なんかじゃ、ないんです。一輝君の傍にいたいっていうのは、わたしのわがままなんです。一輝君の傍にいられるなら、つらいことなんて、ない。大変なことはあるけど、少しもつらくなんて……ッ」
 彼女の言葉を遮るように、宮川の腕が締め付ける。
「俺なら、もっとお前を笑わせてやれる。もっと本来のお前でいさせてやれる……」
 笑えるかもしれないけれど、それは、一輝がくれるものには敵わない。弥生が欲しいものとは、違う。

「宮川さん……宮川さんが嫌いとか、そんなんではないんです。ただ……わたしが、一輝君じゃないと、ダメなんです」
 胸の前に回された彼の腕を、ギュッと掴む。
「なんで、そんなに……」
 宮川の言葉に、弥生は小さく苦笑する。
「わたしもたくさん考えたんですけど、やっぱり解かりませんでした」

 でも、自分の心が彼でないとダメだというのなら、仕方がないではないか。

「わたしは、やっぱり、一輝君と一緒にいたい……」
 地面を見つめてポツリと零された、弥生の呟き。
 それは、宮川と彼女自身の耳にしか届かないと思われた。

 が。

「それを聞いて、安心しました」

 その声。

 弥生は、ハッと顔を上げる。
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