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幸せの増やし方
十五
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ふと、小さなため息が耳に届いた。
目を上げると、呆れ返っている心の内をほんの少しも隠そうとしていない静香の顔が向けられている。
「一輝様、今のご自分のお顔を鏡でご覧になればよろしいわ。もう、これでもかという程に未練が溢れ出しておりますのよ?」
揶揄混じりの彼女の台詞に、一輝はグッと唇を引き結ぶ。
そんなことは、鏡など見なくても自分自身でよく判っている。もちろん、全く納得などしていない。納得などできるわけがない。
だが、弥生のためを思えば、一輝のこの選択は必ずしも間違いではない筈だ。
一輝は背を伸ばし、静香と、そして橘を順々に見やった。
「彼女には彼女の夢がある。僕の元にいたのでは、それをうまく叶えられない。僕では、助けになれないことなんだ」
「飛ぶ鳥を落とす勢いの新藤商事を統べる方が、随分と控えめでいらっしゃいますのね」
「弥生さんに必要なのは、権力でも金でもない。僕から手を放して差し上げれば、より彼女は幸せになれる」
誰よりも彼自身がそう信じることができることを願いつつ口にした台詞だったが、望んだ効果は得られなかったようだ。
「あら、意外にお小さい方ですのね。それは、単に、自分の力が及ばないものに弥生様が関わられることがおイヤで、そこからお逃げになりたかっただけではなくて?」
優雅なお嬢様の口調で、静香は容赦なくズバズバと切り込んできた。怯みつつも一輝は更に言い募ろうとする。
「そうじゃない。ただ、もっと彼女の支えになれる者が、いるんだ……」
「まあ、お気の弱いことを! 敵の大きさに目を留められる前に、ご自分の手の方を大きくなさればよろしいのに」
「……」
ついに言葉のなくなった一輝に、静香は深々と息をついた。
「どうされてしまったのです? 一輝様は、他人に対して非常に厳しいわたくしの父に認められたほどのお方。何故、弥生様のことに関しては、そんなにも尻込みなさるのですか」
それは、弥生のことだからこそ、尻込みをするのだ。
彼女のことでは、わずかも間違いたくはない。完璧でありたいのだ。
だが、弥生にとっての『完璧』がどんなカタチなのか、それが一輝には判らない。
頑なに動こうとしない彼に、静香は少し表情を緩める。ふと、幾つも年上の女性のようになった。
「ねえ、一輝様。わたくし達は、金銭に換えられるものならば、簡単に得ることができますわ。けれど、金銭で手に入れられないものほど、得難いものなのです」
顔を上げた一輝に、静香は頷く。
「わたくし達は、確かにある種の『力』があります。その『力』に任せて欲する心のままに多くを望んではならない立場ですが、本当に欲しいと思ったもの、けっして譲れないと思ったものをみつけたのなら、足掻かなければ」
「本当に欲しいもの……」
一輝は低い声で呟く。
彼にとって『欲しい』と思うものは、弥生だけだ。新藤一輝という一個人が自分のものにしたいと思ったのは、大石弥生という少女だけ。
それは、我欲だけで望んでいいものではない。
一人の人間を所有したいなど、考えてはいけないことなのだ。
と、まるで一輝の心を読んだかのように、静香が言う。
「自分のものにしたい――そして、自分もその人のものになりたいとお互いに思える相手など、そうそう見つかるものではありませんことよ?」
一輝はハッと顔を上げ、彼女の静謐な面を見つめた。
「そんな相手に出逢えたのなら、けっして諦めてはいけません」
「だが、相手が自分と同じように想っているなど、判らないだろう?」
弥生は優しい人だから、一輝が求めればきっと拒めない。たとえ、彼女の本当の望みを脇に押しやっても、彼に応じようとしてくれる。
「僕が求めることで、彼女は本来手に入れる筈だった幸福を諦めることになるかもしれないじゃないか」
心が揺らぎ始めた一輝の最後の悪足掻きを、静香は一蹴する。
「まったく、魑魅魍魎のような化け狸の腹の内は完璧にお見通しになるのに、女心はさっぱりお判りにならない方ですのね。もしも弥生様に一輝様よりも大事なものがおありなら、先ほど、あのようにこのお部屋を出てお行きにはなりませんわ」
呆れた声で、あなたの主はどうなっているのかと言わんばかりの眼差しを橘に向ける。彼は苦笑八割の笑みを返しただけで、沈黙を守っていた。
「まったく。早くお行きなさいな。わたくし、あの方をお泣かせしてしまったかもしれないもの」
静香のその台詞に、弥生の泣き顔が一輝の脳裏に浮かぶ。
自分のいないところで、彼女が涙を流すだなんて。
ほんの一瞬、弥生の悲しげな顔を思っただけで、彼の胸は鈍い刃物で切り裂かれたように痛んだ。
ふらりと歩き出した一輝の後を、静香に向けて頭を下げた橘が追う。
「ご成功をお祈りいたしますわ」
そんな声が背に投げられたが、一輝は振り返ることなく廊下を進んだ。
エレベーターに乗り込んだ一輝は、スマートフォンを弄ぶ。
「彼女は、僕に愛想を尽かしたりしていないかな」
「さあ……何しろ二ヶ月無視した挙句に、『女性の影』ですからねぇ。普通の女性は、許してくれないでしょう」
チクチクと棘を持たせた橘の言葉は、これでもかというほどの正論だ。
弥生の『普通ではない』ところに望みをかけるしかないのか。
橘は、無言で一輝を見守っている。
短縮ダイヤルの筆頭に、弥生の携帯電話の番号が登録してある。ほんの少し指を動かせば、すぐに彼女とつながるのだ。
だがしかし。
果たして彼女は出てくれるのだろうか。
出てくれても、怒っているかもしれない。
いや、怒っているならまだいいが、もしも泣いていたら、どうしよう。
電話越しでは、何もできないではないか。
だったら、最初から直接逢いに行った方が――
悶々と思考を巡らせている主に、橘が深々とため息をついた。
「一輝様? 案ずるより産むが易しという諺をご存知ですか?」
遠回しかつにこやかに、彼は「さっさと動け」とせっついてくる。
「まさか、この期に及んでまた後回しにしようとか思っていらっしゃいませんよね? 時間が経てば経つほど、こういう問題は修復が難しくなるんですよ? 時が解決してくれるとか、有り得ませんから」
「……解かっている」
もしかしたら、時間を置いて話をしたら、弥生は何もなかったように、以前のように接してくれるのではないだろうか。
ほんの一瞬、そんなズルい考えが一輝の頭の中をよぎってしまったことは否定できない。
――ああ、そうだ。多分、彼女は赦してくれるだろう。何ヶ月も彼が無視してきたことも、他の女性が彼と親しげにしていたことも、なかったことにしてくれる。
一輝がそう望めば、きっと、弥生はそうしてくれる。
だが、彼女の寛容さに甘えることは、できない。してはならなかった。
目を上げると、呆れ返っている心の内をほんの少しも隠そうとしていない静香の顔が向けられている。
「一輝様、今のご自分のお顔を鏡でご覧になればよろしいわ。もう、これでもかという程に未練が溢れ出しておりますのよ?」
揶揄混じりの彼女の台詞に、一輝はグッと唇を引き結ぶ。
そんなことは、鏡など見なくても自分自身でよく判っている。もちろん、全く納得などしていない。納得などできるわけがない。
だが、弥生のためを思えば、一輝のこの選択は必ずしも間違いではない筈だ。
一輝は背を伸ばし、静香と、そして橘を順々に見やった。
「彼女には彼女の夢がある。僕の元にいたのでは、それをうまく叶えられない。僕では、助けになれないことなんだ」
「飛ぶ鳥を落とす勢いの新藤商事を統べる方が、随分と控えめでいらっしゃいますのね」
「弥生さんに必要なのは、権力でも金でもない。僕から手を放して差し上げれば、より彼女は幸せになれる」
誰よりも彼自身がそう信じることができることを願いつつ口にした台詞だったが、望んだ効果は得られなかったようだ。
「あら、意外にお小さい方ですのね。それは、単に、自分の力が及ばないものに弥生様が関わられることがおイヤで、そこからお逃げになりたかっただけではなくて?」
優雅なお嬢様の口調で、静香は容赦なくズバズバと切り込んできた。怯みつつも一輝は更に言い募ろうとする。
「そうじゃない。ただ、もっと彼女の支えになれる者が、いるんだ……」
「まあ、お気の弱いことを! 敵の大きさに目を留められる前に、ご自分の手の方を大きくなさればよろしいのに」
「……」
ついに言葉のなくなった一輝に、静香は深々と息をついた。
「どうされてしまったのです? 一輝様は、他人に対して非常に厳しいわたくしの父に認められたほどのお方。何故、弥生様のことに関しては、そんなにも尻込みなさるのですか」
それは、弥生のことだからこそ、尻込みをするのだ。
彼女のことでは、わずかも間違いたくはない。完璧でありたいのだ。
だが、弥生にとっての『完璧』がどんなカタチなのか、それが一輝には判らない。
頑なに動こうとしない彼に、静香は少し表情を緩める。ふと、幾つも年上の女性のようになった。
「ねえ、一輝様。わたくし達は、金銭に換えられるものならば、簡単に得ることができますわ。けれど、金銭で手に入れられないものほど、得難いものなのです」
顔を上げた一輝に、静香は頷く。
「わたくし達は、確かにある種の『力』があります。その『力』に任せて欲する心のままに多くを望んではならない立場ですが、本当に欲しいと思ったもの、けっして譲れないと思ったものをみつけたのなら、足掻かなければ」
「本当に欲しいもの……」
一輝は低い声で呟く。
彼にとって『欲しい』と思うものは、弥生だけだ。新藤一輝という一個人が自分のものにしたいと思ったのは、大石弥生という少女だけ。
それは、我欲だけで望んでいいものではない。
一人の人間を所有したいなど、考えてはいけないことなのだ。
と、まるで一輝の心を読んだかのように、静香が言う。
「自分のものにしたい――そして、自分もその人のものになりたいとお互いに思える相手など、そうそう見つかるものではありませんことよ?」
一輝はハッと顔を上げ、彼女の静謐な面を見つめた。
「そんな相手に出逢えたのなら、けっして諦めてはいけません」
「だが、相手が自分と同じように想っているなど、判らないだろう?」
弥生は優しい人だから、一輝が求めればきっと拒めない。たとえ、彼女の本当の望みを脇に押しやっても、彼に応じようとしてくれる。
「僕が求めることで、彼女は本来手に入れる筈だった幸福を諦めることになるかもしれないじゃないか」
心が揺らぎ始めた一輝の最後の悪足掻きを、静香は一蹴する。
「まったく、魑魅魍魎のような化け狸の腹の内は完璧にお見通しになるのに、女心はさっぱりお判りにならない方ですのね。もしも弥生様に一輝様よりも大事なものがおありなら、先ほど、あのようにこのお部屋を出てお行きにはなりませんわ」
呆れた声で、あなたの主はどうなっているのかと言わんばかりの眼差しを橘に向ける。彼は苦笑八割の笑みを返しただけで、沈黙を守っていた。
「まったく。早くお行きなさいな。わたくし、あの方をお泣かせしてしまったかもしれないもの」
静香のその台詞に、弥生の泣き顔が一輝の脳裏に浮かぶ。
自分のいないところで、彼女が涙を流すだなんて。
ほんの一瞬、弥生の悲しげな顔を思っただけで、彼の胸は鈍い刃物で切り裂かれたように痛んだ。
ふらりと歩き出した一輝の後を、静香に向けて頭を下げた橘が追う。
「ご成功をお祈りいたしますわ」
そんな声が背に投げられたが、一輝は振り返ることなく廊下を進んだ。
エレベーターに乗り込んだ一輝は、スマートフォンを弄ぶ。
「彼女は、僕に愛想を尽かしたりしていないかな」
「さあ……何しろ二ヶ月無視した挙句に、『女性の影』ですからねぇ。普通の女性は、許してくれないでしょう」
チクチクと棘を持たせた橘の言葉は、これでもかというほどの正論だ。
弥生の『普通ではない』ところに望みをかけるしかないのか。
橘は、無言で一輝を見守っている。
短縮ダイヤルの筆頭に、弥生の携帯電話の番号が登録してある。ほんの少し指を動かせば、すぐに彼女とつながるのだ。
だがしかし。
果たして彼女は出てくれるのだろうか。
出てくれても、怒っているかもしれない。
いや、怒っているならまだいいが、もしも泣いていたら、どうしよう。
電話越しでは、何もできないではないか。
だったら、最初から直接逢いに行った方が――
悶々と思考を巡らせている主に、橘が深々とため息をついた。
「一輝様? 案ずるより産むが易しという諺をご存知ですか?」
遠回しかつにこやかに、彼は「さっさと動け」とせっついてくる。
「まさか、この期に及んでまた後回しにしようとか思っていらっしゃいませんよね? 時間が経てば経つほど、こういう問題は修復が難しくなるんですよ? 時が解決してくれるとか、有り得ませんから」
「……解かっている」
もしかしたら、時間を置いて話をしたら、弥生は何もなかったように、以前のように接してくれるのではないだろうか。
ほんの一瞬、そんなズルい考えが一輝の頭の中をよぎってしまったことは否定できない。
――ああ、そうだ。多分、彼女は赦してくれるだろう。何ヶ月も彼が無視してきたことも、他の女性が彼と親しげにしていたことも、なかったことにしてくれる。
一輝がそう望めば、きっと、弥生はそうしてくれる。
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