大事なあなた

トウリン

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幸せの増やし方

十四

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 一時間で終わる筈の会議が十五分ほど延び、予定よりも幾分遅れて執務室の扉を開けると、そこには余計なものがいた。

「ごきげんよう、一輝《かずき》様、橘《たちばな》様」

 余計なもの――静香《しずか》は、手にしていた紅茶のカップをテーブルに置くと、優雅に一礼した。その姿はすっかりこの場に馴染んでいるが、一輝としては決して許容しているわけではない。
 答える気も起きずにため息混じりにデスクへ向かおうとした彼だったが、橘の呆然とした声に引き止められる。

「あれ……静香様……?」
 視線をそちらに向ければ、一輝の隣で、何故か橘が蒼い顔をしていた。その目には珍しく焦りの色があるように見える。

「どうした?」
 一輝のその問いかけには答えず、橘は静香を凝視している。そして、主人を無視したまま、恐る恐るといった風情で彼女に尋ねた。

「静香様、いつからこちらに?」
「三時半頃からかしら」
 小首をかしげた静香のその返事に、橘が喉の奥で変な音を立てる。

「橘、お前いったいどうしたんだ?」
「いえ、その――静香様、あの……もしや……どなたか……?」
 橘らしくない曖昧な言い方に、静香は察し良く頷きを返す。
「お客様でしょうか? ええ、来られましたわ。高校生か――もしかしたら中学生でいらしたかしら? お可愛らしい女性の方がお見えになられて」

「女性?」
 一輝は訳が解からず首を捻る。と、橘が片手で顔を覆っている姿が目に入る。

「橘?」

「――申し訳ありません」

「?」

「弥生様です」

 一瞬、一輝には橘が何を言っているのか理解できなかった。

「――何?」

 眉間に皺を寄せて問い返した彼に、橘は深々と頭を下げる。
「申し訳ありません。まさか、こんなことになろうとは……今日、弥生様がここに来られることになっていたのです」
「何故!?」
「どうしても、一輝様とお話したい、と」
 次いで一輝に向けられた橘の視線は咎めるものだ。

「二ヶ月もお逃げになられて……弥生様が痺れを切らされるのも、もっともです」
「だからと言って、何故、僕に黙って……」
「お伝えしたら、またなんだかんだと逃げてしまわれるじゃないですか」
 橘の声には呆れ返っている響きが含まれている。実際のところ、まさに彼の言う通りなので、一輝は反論できる言葉を持っていない。

 二人が口を閉ざした瞬間に滑り込むように、静香が口を挟んだ。
「あの、先ほどの方……弥生様? もしかして、一輝様の……?」
 静香の問いかける眼差しに頷いたのは、橘だった。それを目にした彼女は、珍しく焦りを帯びた表情になる。

「まあ……それは、申し訳ないことをしてしまいましたわ。わたくし、きっとあの方に誤解を抱かせてしまいました」
「誤解?」

 非常に、嫌な予感がする。

 目を細めた一輝の促しに、静香は申し訳なさそうに答える。
「一輝様と親しくさせていただいている、と申してしまいましたの。末永く……とも。ほら、父と一輝様はお仕事でご一緒なさるでしょう? 今後、その機会も益々増えていく筈ですから……」
「それは……」
 肩をすぼめて消え入りそうな静香に、橘も渋面になった。
「すぐに追いかけられた方がよろしいのではなくて? お家はご存知なのでしょう?」

 ほらほら、と静香が急かす。

 確かに今頃弥生は呆然としていることだろう。
 散々逢うのを拒んできて、この事態だ。彼女が最悪の状況を考えていたとしても不思議ではない。というより、そうされて当然の事を一輝は今までしてきてしまった。

 ――説明、しなければ。

 それは明らかだ。
 が、一輝は動けなかった。これで自分に愛想を尽かしてくれるなら、むしろその方がいいのではないのだろうか。今は悲しませてしまうけれど、一輝を忘れることが、少しは楽になるのではないだろうか。

 つい、そんなことを考えてしまう。

 煮え切らない一輝に、静香の眼差しが鋭くなった。
「一輝様、何を考えていらっしゃいますの?」

 のろのろと視線を上げた一輝は、束の間彼女と目を合わせ、また逸らした。
「……このままの方が、彼女にとっては良いことなのではないかと」

「え?」
 訝しげな声は静香からのものだったが、見れば橘が驚愕に満ち満ちた眼差しを一輝に注いでいる。

 一輝は窓の外に目をやり、続ける。
「彼女は、僕の世界に引き入れない方が、幸せになれるのではないかと思っていたところでした。今回、彼女の方から離れていかれるのであれば、このまま……」
「お別れに?」
 静香が、淡々とした眼差しを一輝に向ける。

 彼は頷くことも首を振ることもしなかった。

 口にした台詞は、一輝の本心というよりも、彼が悟った事実だった。

 今は弥生も傷付いているだろう。
 だが、その傷が癒えた後、彼女は、もっとふさわしい相手を手に入れる。彼女に彼女らしい幸せを与えてやれる、相手を。

 ――その男は、僕よりも彼女を慈しむことができるだろうか?

 いや、それは不可能だろう。

 一輝には、今彼が弥生に対して抱いているよりも深い気持ちが存在するとは思えなかった。

 押し黙っている彼に、痛いほどに視線が突き刺さる。
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