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幸せの増やし方
八
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あれから弥生は何度か橘に連絡を取ってみたけれど、一輝に逢いたいという彼女の言葉に、彼は申し訳なさそうに「もう少し時間をください」と繰り返すばかりだった。
弥生は携帯電話を閉じて、小さく息をつく。
「まだ、ダメなんだ?」
美香が小声でそう訊いてくるのへ、頷きを返した。
「ん……」
「いっそ、問答無用で押しかけちまえばいいんじゃないのか? 実質、フリーパスなんだろ?」
少しむっとしたように見える森口が弥生の向かいからそう言った。
美香と森口には、先日の宮川と小金井のこと、そして三人で揉めている場面を一輝に見られてしまったことを、話している。
「一輝君は、今、色々考えてるところだと思うの」
「こういう時は二人でちゃんと話し合うべきだろ……付き合ってるんだから」
不満そうな森口の言葉に、美香も頷いていた。
弥生は二人に微笑んでみせる。
「もう少し、待ってみる。時間ができたら、一輝君のほうから連絡くれると思うし」
口ではそう言いながら、弥生の胸の中には不安が充満していた。
――二週間、だよ。一輝君。
胸元のペンダントをもてあそびながら、彼女は心の中でそう呟く。
もう、二週間も彼の声を聞いていない。恋人として付き合い始めてから、こんなことはなかった。海外出張中や重要案件を抱えている時でさえ、三日に一回は必ず電話をくれたのに。
ふと、黙り込んだ自分を見つめている美香と森口の視線に気付き、弥生はニコッと笑いかける。
「あ、ごめんね」
その笑顔に二人は複雑な顔を見せたけれど、何も言わなかった。
彼女たちが気遣ってくれているのが伝わってくるから、弥生は努めて明るい声を出す。
「そろそろバイトの時間だから、行かなくちゃ」
言いながら立ち上がって、手を振った。
彼女たちに背中を向けて歩き出し、しばらくすると、微かに視界が滲む。気付かないうちに視線は下がり、床を見つめながら歩いていた。
弥生は足を止め、何度か瞬きをして、グッと顔を上げる。
――こういう時は二人で話し合うべきだろ。
森口のその言葉が脳裏に響いた。
弥生だって、そう思う。
彼が言うように、弥生と一輝は、付き合っているのだ。
一輝がそうであるように、弥生も彼が好きで大事だから、一人で悩ませたくない。何か問題があるのなら、二人で考え、乗り越えていきたいのに。
きっと、一輝は、他でもない『弥生のために』悩んでくれているのだろうとは思う。何が『弥生にとって』最善なのか――それだけを考えてくれているのだろう。
その気持ちはとても嬉しい。でも、本当は、それは彼一人で考えるものではないと思うのだ。
もしも……もしも、一輝が弥生を閉じ込めることを選ぶのなら、彼女はそれを受け入れる。確かに、保育士になるのは夢なのだけれども、彼には換えられない。一輝か、保育士になる道か、と問われれば、弥生は迷わず一輝を取る――彼を幸せにするのもまた、彼女の夢の一つだったから。
一輝は、多分『完璧な』弥生の幸せを模索しているのだろうけれど、それには彼の存在が欠かせないのだということを伝えなければならない。でも、今は、その手段がないのだ。
――お願いだから、一人だけで決めないで。
同じ空の下にいる筈の一輝に向けて、そう願う。
最終的には、一輝が選んだ道が一番幸せになれるのかもしれないけれど、それでも、弥生は彼と一緒にその道を模索していきたい。
切に、そう望む。
この空を通じて、自分のこの思いが彼に届いてくれればいいのに。
弥生は小さく息をつき、また歩き始めた。
アルバイトの時間まではまだあるので、気持ちを落ち着かせるためにも少しゆっくりめに歩く。
と、さほど経たないうちに、背後から彼女の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
振り返ると、他の人よりも頭半分高い姿がすぐに目に入る。
「森口君」
足を止めた弥生に手を振った彼は、大股に近づいてきた。
「ごめん、バイトあるのに」
「大丈夫だよ、どうしたの?」
長身な彼を見上げると、何やら迷っているようだ。
何なのだろうと注ぎ続けた弥生の視線を受けながら、森口はちょっと困ったような笑みを浮かべた。
「歩きながらでいいよ」
そう言って、先に歩き出す。
歩幅がかなり違うので、並んで歩くとどんどん離れていってしまいそうなものだけれど、森口はいつも慎重に足を運んでくれる。今も、一歩一歩を確かめるように、弥生の速度に合わせてくれていた。
しばらく歩いた後、ようやく彼が口火を切る。
「あのさ、……大石、つらくはないの?」
「え?」
「だから、あいつと付き合うのって、つらくない?」
ああ、と弥生は微かに笑う。そうして、すこし考えてから、答えた。
「ええっと、つらいっていうのとは違うと思う。ただ、ちょっと、『寂しい』かな」
「寂しい?」
「うん。一輝君は、いつも自分で決断しなくちゃいけない人でしょう? わたしの事も『最良の道』を独りで決めちゃおうとするの。そこに一輝君自身の事もちゃんと入れてくれればいいのだけど、それは二の次だから。わたしは、『わたしにとって番良い』一じゃなくて、『二人にとって一番良い』にしたいんだよ。そのために、二人で支え合っていきたいの」
それを二人で分かち合ってくれないから、『寂しい』。
「あいつとのことをやめるっていう選択肢は、ないわけか」
軽く、冗談めいた口調でそう言った森口に、弥生は笑みを返す。
「あはは、ないなぁ。あのね、前に、わたしが自分の気持ちに気付いていなくて――気付きたくなくて、逃げようとした時があったでしょう? あの時、一輝君は諦めずにわたしのことを捕まえてくれたの。だから、わたしも諦めない。一輝君がわたしのことを嫌いになったなら仕方がないけど、そうじゃないもの」
自信に満ちてそう断言する弥生に、森口が苦笑する。
「すっごいノロケ。こりゃ、ダメみたいだな」
「え?」
「別に。ただ、『あわよくば』と思ったんだよ」
彼はそう言って、弥生を見つめる。
「森口、君……」
弥生が名前を呟くと、フッと、彼は微笑んだ。
森口のその言葉、その眼差しにあるものに気付いて、つい、弥生はうつむいてしまう。
ごまかすことは、できなかった。何も知らなかった――知ろうとしなかったあの時とは違い、今の弥生は多くのことを知ったのだから。
伏せた顔をまた持ち上げて、彼女は森口を真っ直ぐに見つめる。
「あのね、森口君がいてくれて、良かった。あの時、森口君が背中を押してくれなかったら、今もわたしは逃げていたと思うの。美香ちゃんと森口君が励ましてくれるから、わたしも頑張れるんだ」
弥生の言葉に、彼は苦笑する。
「見事な『塩』だろ?」
「うん。わたしにとっても、貴重なものだったよ。森口君と同じ気持ちにはなれないけど、わたし、森口君のことをずっと大事にしたいと思ってる」
森口は、少し唇をゆがめて、笑っているような、少し、泣いているような、複雑な顔をした。そして、ごにょごにょと口の中で呟く。
「まあ、ね。考えようによっちゃ、彼氏は別れたらそれっきり会えなくなるかもだけど、友達なら一生モンだもんな……」
聞かせる意図のないその台詞は、弥生の耳には届かなかったけれど。
「まあ、いいさ。いざとなったら、あっちに乗り込んで行って、大石の前にあいつを引きずり出してやるからな」
見下ろしてくる彼の笑顔に、弥生も晴れやかな笑みを返した。
弥生は携帯電話を閉じて、小さく息をつく。
「まだ、ダメなんだ?」
美香が小声でそう訊いてくるのへ、頷きを返した。
「ん……」
「いっそ、問答無用で押しかけちまえばいいんじゃないのか? 実質、フリーパスなんだろ?」
少しむっとしたように見える森口が弥生の向かいからそう言った。
美香と森口には、先日の宮川と小金井のこと、そして三人で揉めている場面を一輝に見られてしまったことを、話している。
「一輝君は、今、色々考えてるところだと思うの」
「こういう時は二人でちゃんと話し合うべきだろ……付き合ってるんだから」
不満そうな森口の言葉に、美香も頷いていた。
弥生は二人に微笑んでみせる。
「もう少し、待ってみる。時間ができたら、一輝君のほうから連絡くれると思うし」
口ではそう言いながら、弥生の胸の中には不安が充満していた。
――二週間、だよ。一輝君。
胸元のペンダントをもてあそびながら、彼女は心の中でそう呟く。
もう、二週間も彼の声を聞いていない。恋人として付き合い始めてから、こんなことはなかった。海外出張中や重要案件を抱えている時でさえ、三日に一回は必ず電話をくれたのに。
ふと、黙り込んだ自分を見つめている美香と森口の視線に気付き、弥生はニコッと笑いかける。
「あ、ごめんね」
その笑顔に二人は複雑な顔を見せたけれど、何も言わなかった。
彼女たちが気遣ってくれているのが伝わってくるから、弥生は努めて明るい声を出す。
「そろそろバイトの時間だから、行かなくちゃ」
言いながら立ち上がって、手を振った。
彼女たちに背中を向けて歩き出し、しばらくすると、微かに視界が滲む。気付かないうちに視線は下がり、床を見つめながら歩いていた。
弥生は足を止め、何度か瞬きをして、グッと顔を上げる。
――こういう時は二人で話し合うべきだろ。
森口のその言葉が脳裏に響いた。
弥生だって、そう思う。
彼が言うように、弥生と一輝は、付き合っているのだ。
一輝がそうであるように、弥生も彼が好きで大事だから、一人で悩ませたくない。何か問題があるのなら、二人で考え、乗り越えていきたいのに。
きっと、一輝は、他でもない『弥生のために』悩んでくれているのだろうとは思う。何が『弥生にとって』最善なのか――それだけを考えてくれているのだろう。
その気持ちはとても嬉しい。でも、本当は、それは彼一人で考えるものではないと思うのだ。
もしも……もしも、一輝が弥生を閉じ込めることを選ぶのなら、彼女はそれを受け入れる。確かに、保育士になるのは夢なのだけれども、彼には換えられない。一輝か、保育士になる道か、と問われれば、弥生は迷わず一輝を取る――彼を幸せにするのもまた、彼女の夢の一つだったから。
一輝は、多分『完璧な』弥生の幸せを模索しているのだろうけれど、それには彼の存在が欠かせないのだということを伝えなければならない。でも、今は、その手段がないのだ。
――お願いだから、一人だけで決めないで。
同じ空の下にいる筈の一輝に向けて、そう願う。
最終的には、一輝が選んだ道が一番幸せになれるのかもしれないけれど、それでも、弥生は彼と一緒にその道を模索していきたい。
切に、そう望む。
この空を通じて、自分のこの思いが彼に届いてくれればいいのに。
弥生は小さく息をつき、また歩き始めた。
アルバイトの時間まではまだあるので、気持ちを落ち着かせるためにも少しゆっくりめに歩く。
と、さほど経たないうちに、背後から彼女の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
振り返ると、他の人よりも頭半分高い姿がすぐに目に入る。
「森口君」
足を止めた弥生に手を振った彼は、大股に近づいてきた。
「ごめん、バイトあるのに」
「大丈夫だよ、どうしたの?」
長身な彼を見上げると、何やら迷っているようだ。
何なのだろうと注ぎ続けた弥生の視線を受けながら、森口はちょっと困ったような笑みを浮かべた。
「歩きながらでいいよ」
そう言って、先に歩き出す。
歩幅がかなり違うので、並んで歩くとどんどん離れていってしまいそうなものだけれど、森口はいつも慎重に足を運んでくれる。今も、一歩一歩を確かめるように、弥生の速度に合わせてくれていた。
しばらく歩いた後、ようやく彼が口火を切る。
「あのさ、……大石、つらくはないの?」
「え?」
「だから、あいつと付き合うのって、つらくない?」
ああ、と弥生は微かに笑う。そうして、すこし考えてから、答えた。
「ええっと、つらいっていうのとは違うと思う。ただ、ちょっと、『寂しい』かな」
「寂しい?」
「うん。一輝君は、いつも自分で決断しなくちゃいけない人でしょう? わたしの事も『最良の道』を独りで決めちゃおうとするの。そこに一輝君自身の事もちゃんと入れてくれればいいのだけど、それは二の次だから。わたしは、『わたしにとって番良い』一じゃなくて、『二人にとって一番良い』にしたいんだよ。そのために、二人で支え合っていきたいの」
それを二人で分かち合ってくれないから、『寂しい』。
「あいつとのことをやめるっていう選択肢は、ないわけか」
軽く、冗談めいた口調でそう言った森口に、弥生は笑みを返す。
「あはは、ないなぁ。あのね、前に、わたしが自分の気持ちに気付いていなくて――気付きたくなくて、逃げようとした時があったでしょう? あの時、一輝君は諦めずにわたしのことを捕まえてくれたの。だから、わたしも諦めない。一輝君がわたしのことを嫌いになったなら仕方がないけど、そうじゃないもの」
自信に満ちてそう断言する弥生に、森口が苦笑する。
「すっごいノロケ。こりゃ、ダメみたいだな」
「え?」
「別に。ただ、『あわよくば』と思ったんだよ」
彼はそう言って、弥生を見つめる。
「森口、君……」
弥生が名前を呟くと、フッと、彼は微笑んだ。
森口のその言葉、その眼差しにあるものに気付いて、つい、弥生はうつむいてしまう。
ごまかすことは、できなかった。何も知らなかった――知ろうとしなかったあの時とは違い、今の弥生は多くのことを知ったのだから。
伏せた顔をまた持ち上げて、彼女は森口を真っ直ぐに見つめる。
「あのね、森口君がいてくれて、良かった。あの時、森口君が背中を押してくれなかったら、今もわたしは逃げていたと思うの。美香ちゃんと森口君が励ましてくれるから、わたしも頑張れるんだ」
弥生の言葉に、彼は苦笑する。
「見事な『塩』だろ?」
「うん。わたしにとっても、貴重なものだったよ。森口君と同じ気持ちにはなれないけど、わたし、森口君のことをずっと大事にしたいと思ってる」
森口は、少し唇をゆがめて、笑っているような、少し、泣いているような、複雑な顔をした。そして、ごにょごにょと口の中で呟く。
「まあ、ね。考えようによっちゃ、彼氏は別れたらそれっきり会えなくなるかもだけど、友達なら一生モンだもんな……」
聞かせる意図のないその台詞は、弥生の耳には届かなかったけれど。
「まあ、いいさ。いざとなったら、あっちに乗り込んで行って、大石の前にあいつを引きずり出してやるからな」
見下ろしてくる彼の笑顔に、弥生も晴れやかな笑みを返した。
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