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幸せの増やし方
七
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時間を少し遡る。
弥生との約束までにかなりの時間を残して仕事を終えることができた一輝は、少し早目ではあるが、彼女のアルバイト先に向かった。時間まで、彼女が仕事をしている姿を見ていられる。
彼女がアルバイトを始めてひと月ほど経っているが、常々見てみたいと思いながら、なかなか時間が取れなくて、一輝は、まだ実際にその様子を目に収めたことはなかった。
「弥生様はきっとお子様方に人気でしょうねぇ」
何しろ、母親を亡くしてから二人の弟たちの面倒をみてきた彼女だ。そして、彼らの今を見ていれば、どんな世話を受けてきたのか一目瞭然だった。
「ああ、そうだな」
口元に笑みを浮かべてそう答え、一輝は考えにふける。
今日は、弥生の方からの誘いだった。
一輝の多忙さに気を遣ってか、滅多に彼女から逢いたいと言ってきてくれることはない。それだけに、何か余程話しておきたいことがあるに違いなかった。
――多分、例の記者の件についてだろうな。
小金井という記者が弥生の周りをチョロチョロしているという情報を受けてから、一輝は彼女がいつそのことについて相談してくれるのかとやきもきしていたのだ。ようやく、その気になってくれて、嬉しいような、ホッとしたような気持ちになる。
彼女があんな輩に煩わされていることを知りながら何もせずにいることは、ほとんど拷問に近かったのだ。
彼女が働くこども園に着くと、橘が指示した位置に車は停まった。園の庭を見ることができるが、あちら側からは気付かれにくい場所だ。
子どもたちで溢れた庭の中に、求める姿はすぐに見つかった。小柄な身体に、何人もの子どもたちをまとわりつかせている。あんな華奢な身体でよく耐えられるものだと、一輝は感心する。この車は完璧な防音仕様で窓を開けないと外の音は全く入ってこないが、歓声と共に、弥生の笑い声も聞こえてきそうだった。
彼女のその笑顔は、いつも一輝の前で見せるものとは、違っていた。
一輝の前では、弥生は少しはにかんだような、ふわっとした、柔らかそうな笑顔になる。それは温かくて、心地良く、向けられると一輝の中を満たしてくれる。
一方で、今の彼女からは、全身で笑っているような、『楽しくて仕方がない』という気持ちが溢れ出さんばかりだ。それはスモークガラス越しで色彩を失っているというのに、一目で伝わってくる。
ふと、チクリ、と小さな痛みが一輝の胸を刺した。
あの笑顔は、彼が全く存在しない場所で、現れるものだった。
今この時、弥生にとって、ある意味一輝は存在していない。彼には見せることのない、笑顔なのだ。
どちらがより優れているというものではない。
どちらの笑顔も、弥生が弥生であるために必要なものだ。
しかし、自分がいない場所で自分に見せたことのない顔を彼女がしているということが、彼の胸を疼かせた。
そして、そんな不快感に近い感覚だけではない。
一輝の前で見せてくれる笑顔であれば、彼にも守れる。だが、もう一方は、どうだろう。果たして、それもこの手で守ることができるのだろうか。
不意に、彼の中で何かが揺らめいた。
一輝は己の手を見つめ、そして、固く握り締める。
自分の手は大きく、多くのものを捕まえることができると思っていた。
けれども、弥生に関しては、時折、その自信が揺らいでしまう。守りたいという気持ちが強すぎて、どれだけ力を尽くしても「もう充分」という実感を持てないのだ。
名実ともに彼女を自分のものにできれば、満足――安心できるようになるのだろうか。
「いいや、無理だろうな」
小さく呟き、自嘲の笑みを浮かべる。
そんな物思いに沈み込んでいた一輝を引き上げたのは、橘の声だ。
「一輝様、弥生様がお仕事を終えられるようですが」
言われて顔を上げた一輝の目に、園の建物の中に消えて行く彼女の後ろ姿が入った。腕時計を見ると、時間的にも頃合である。
正門には小金井という記者が張っているから、恐らく裏門に回るのだろう。件《くだん》の記者は柵に寄りかかってタバコをふかしており、弥生が帰り支度を始めていることに気づいていないようだった。
「裏門に車を回せ」
一輝の指示で、車が動き出す。
園をグルリと回り込むと意外に時間がかかり、裏門に着いた時には、すでに弥生は少し離れた場所を歩いていた。一輝は近付くように指示を出しかけて、撤回する。彼女を呼び止めた人物がいたからだ。二十代後半ほどの、精悍な顔つきで落ち着いた風情のある男性だ。
少しだけウィンドウを下ろすと、「宮川さん」と呼ぶ弥生の声が届く。
あれが、臨床心理士だという宮川寛之という男らしい。彼女の話を聴く限り、彼は『一輝がいない弥生の世界』で大きな位置を占めている存在だ。
そう思った一輝の胸の中を炎に似た感覚が舐めていく。
弥生の周りには、一輝の他にも数人の男がチラホラうろついていた。森口や伊集院――純粋にしろ不純にしろ、彼女に言い寄ろうとした輩だ。
彼らには、あまり一輝は心を波立てられたことがない。彼が子どもの頃は森口の存在に苛立ちを覚えたことがあったが、今では彼を彼女の友人として受け入れているし、伊集院に至ってはまるきり対象外だ。
だが、今宮川と笑顔を交わしている姿には、やけに胸がざわついた。
――多分これは、嫉妬というものなのだろう。
一輝はそれを自覚している。
だが、判ったからといって治まるわけではない。
彼は拳を握り込んで、堪える。
弥生は宮川から何かを受け取っていた。横顔でも、目を輝かせているのは充分に見て取れる。彼を仕事の先輩として尊敬しているのだろうということが、伝わってきた。
そんな彼女に、一輝の胸がキリリと身体的な痛みを訴える。
見たくないのに目を逸らせない二人の姿を、彼はジッと見守る。
と、楽しそうに話していた二人の雲行きが、怪しくなってきた。眼差しを険しくした宮川に、弥生は、何か困惑しているようだ。
思わず車を降りて彼らのもとに行こうとした一輝を、橘が引き止める。
「一輝様」
彼が目で示した先には、ぶらぶらと歩いてくる小金井の姿があった。
今、一輝があの場に姿を現せば、余計に厄介なことになるのは目に見えている。
一輝は内心で舌打ちをして、ドアを開けようとしていた手を下ろした。彼が見ている前で、だらしない歩き方をした男は二人に近づいていく。
やがて、三人は何かを話し始めたが、その中に、普段滅多に怒ることのない弥生の昂ぶった声が混じる。
一輝は今すぐに彼らの元に行き、小金井の襟首を引っ掴んで彼女の傍から引き剥がしてやりたい衝動を辛うじてこらえる。
弥生を困惑させた宮川にも、憤らせている小金井にも腹が立った。だが、結局、一番腹立たしいのは、元凶であるにも拘らず、何もできずにただこうやって見ているだけの自分なのだ。
さほど間を置かずして、弥生に何かを言われた小金井が去っていく。
残された宮川はそのまま留まり――弥生の肩に手を置いた。彼女を覗き込んで詰問している様子だ。何を話しているのかは、声が届いてこなくても容易に知れる。
一輝の目の前で、弥生が宮川の手を振りきり、身を翻そうとする。
が。
次の瞬間展開したその光景に、一輝は、爪が手のひらに食い込むほどに両手を握り締める。
大柄な宮川に、すっぽりと抱きすくめられている弥生。
――あんなふうに彼女に触れていい者は、この自分だけだ。
そんな熱くて苦い思いが、一輝の胸の中で渦を巻く。
今すぐに車から飛び出して、宮川の腕の中の弥生を奪い返したい。
一輝の中の感情的で利己的な部分は、そう望む。しかし、もう一方の冷静で理性的な彼は、その気持ちに抑制をかけた。
果たして、自分にはその権利と資格があるのだろうか、と。
弥生は確かに一輝のことを想ってくれている。
それは、間違いないし、これ以上はないというほど確信している。
だが、先ほど園児たちの中で彼女が浮かべていた満面の笑み。
弥生が見せる二つの笑顔の両方を守れるのは、いったい、誰なのか。
自分か、それとも――。
理性と、感情と。
己の中でせめぎ合う二つの勢力に囚われ、一輝は動けなくなる。
車の外では、いつしか宮川から逃れた弥生が地面に座り込んでいた。
一輝は詰めていた息をホッと吐き出すと、運転手に向けて短い指示を出す。
「出せ」
「一輝様……」
橘が、気遣わしげな眼差しを向ける。
「いい。行け」
再度の命令に、車が動き出す。
恐らく弥生たちはエンジン音に気付いただろうとは思ったが、振り返ることはしなかった。
自分の中で渦巻いている混乱の片を着けてからでなければ、弥生とはきちんと向き合えない。
――そう、思った。
それがいつになるのか――果たして可能なことなのか、一輝自身、全く予測ができなかったけれども。
弥生との約束までにかなりの時間を残して仕事を終えることができた一輝は、少し早目ではあるが、彼女のアルバイト先に向かった。時間まで、彼女が仕事をしている姿を見ていられる。
彼女がアルバイトを始めてひと月ほど経っているが、常々見てみたいと思いながら、なかなか時間が取れなくて、一輝は、まだ実際にその様子を目に収めたことはなかった。
「弥生様はきっとお子様方に人気でしょうねぇ」
何しろ、母親を亡くしてから二人の弟たちの面倒をみてきた彼女だ。そして、彼らの今を見ていれば、どんな世話を受けてきたのか一目瞭然だった。
「ああ、そうだな」
口元に笑みを浮かべてそう答え、一輝は考えにふける。
今日は、弥生の方からの誘いだった。
一輝の多忙さに気を遣ってか、滅多に彼女から逢いたいと言ってきてくれることはない。それだけに、何か余程話しておきたいことがあるに違いなかった。
――多分、例の記者の件についてだろうな。
小金井という記者が弥生の周りをチョロチョロしているという情報を受けてから、一輝は彼女がいつそのことについて相談してくれるのかとやきもきしていたのだ。ようやく、その気になってくれて、嬉しいような、ホッとしたような気持ちになる。
彼女があんな輩に煩わされていることを知りながら何もせずにいることは、ほとんど拷問に近かったのだ。
彼女が働くこども園に着くと、橘が指示した位置に車は停まった。園の庭を見ることができるが、あちら側からは気付かれにくい場所だ。
子どもたちで溢れた庭の中に、求める姿はすぐに見つかった。小柄な身体に、何人もの子どもたちをまとわりつかせている。あんな華奢な身体でよく耐えられるものだと、一輝は感心する。この車は完璧な防音仕様で窓を開けないと外の音は全く入ってこないが、歓声と共に、弥生の笑い声も聞こえてきそうだった。
彼女のその笑顔は、いつも一輝の前で見せるものとは、違っていた。
一輝の前では、弥生は少しはにかんだような、ふわっとした、柔らかそうな笑顔になる。それは温かくて、心地良く、向けられると一輝の中を満たしてくれる。
一方で、今の彼女からは、全身で笑っているような、『楽しくて仕方がない』という気持ちが溢れ出さんばかりだ。それはスモークガラス越しで色彩を失っているというのに、一目で伝わってくる。
ふと、チクリ、と小さな痛みが一輝の胸を刺した。
あの笑顔は、彼が全く存在しない場所で、現れるものだった。
今この時、弥生にとって、ある意味一輝は存在していない。彼には見せることのない、笑顔なのだ。
どちらがより優れているというものではない。
どちらの笑顔も、弥生が弥生であるために必要なものだ。
しかし、自分がいない場所で自分に見せたことのない顔を彼女がしているということが、彼の胸を疼かせた。
そして、そんな不快感に近い感覚だけではない。
一輝の前で見せてくれる笑顔であれば、彼にも守れる。だが、もう一方は、どうだろう。果たして、それもこの手で守ることができるのだろうか。
不意に、彼の中で何かが揺らめいた。
一輝は己の手を見つめ、そして、固く握り締める。
自分の手は大きく、多くのものを捕まえることができると思っていた。
けれども、弥生に関しては、時折、その自信が揺らいでしまう。守りたいという気持ちが強すぎて、どれだけ力を尽くしても「もう充分」という実感を持てないのだ。
名実ともに彼女を自分のものにできれば、満足――安心できるようになるのだろうか。
「いいや、無理だろうな」
小さく呟き、自嘲の笑みを浮かべる。
そんな物思いに沈み込んでいた一輝を引き上げたのは、橘の声だ。
「一輝様、弥生様がお仕事を終えられるようですが」
言われて顔を上げた一輝の目に、園の建物の中に消えて行く彼女の後ろ姿が入った。腕時計を見ると、時間的にも頃合である。
正門には小金井という記者が張っているから、恐らく裏門に回るのだろう。件《くだん》の記者は柵に寄りかかってタバコをふかしており、弥生が帰り支度を始めていることに気づいていないようだった。
「裏門に車を回せ」
一輝の指示で、車が動き出す。
園をグルリと回り込むと意外に時間がかかり、裏門に着いた時には、すでに弥生は少し離れた場所を歩いていた。一輝は近付くように指示を出しかけて、撤回する。彼女を呼び止めた人物がいたからだ。二十代後半ほどの、精悍な顔つきで落ち着いた風情のある男性だ。
少しだけウィンドウを下ろすと、「宮川さん」と呼ぶ弥生の声が届く。
あれが、臨床心理士だという宮川寛之という男らしい。彼女の話を聴く限り、彼は『一輝がいない弥生の世界』で大きな位置を占めている存在だ。
そう思った一輝の胸の中を炎に似た感覚が舐めていく。
弥生の周りには、一輝の他にも数人の男がチラホラうろついていた。森口や伊集院――純粋にしろ不純にしろ、彼女に言い寄ろうとした輩だ。
彼らには、あまり一輝は心を波立てられたことがない。彼が子どもの頃は森口の存在に苛立ちを覚えたことがあったが、今では彼を彼女の友人として受け入れているし、伊集院に至ってはまるきり対象外だ。
だが、今宮川と笑顔を交わしている姿には、やけに胸がざわついた。
――多分これは、嫉妬というものなのだろう。
一輝はそれを自覚している。
だが、判ったからといって治まるわけではない。
彼は拳を握り込んで、堪える。
弥生は宮川から何かを受け取っていた。横顔でも、目を輝かせているのは充分に見て取れる。彼を仕事の先輩として尊敬しているのだろうということが、伝わってきた。
そんな彼女に、一輝の胸がキリリと身体的な痛みを訴える。
見たくないのに目を逸らせない二人の姿を、彼はジッと見守る。
と、楽しそうに話していた二人の雲行きが、怪しくなってきた。眼差しを険しくした宮川に、弥生は、何か困惑しているようだ。
思わず車を降りて彼らのもとに行こうとした一輝を、橘が引き止める。
「一輝様」
彼が目で示した先には、ぶらぶらと歩いてくる小金井の姿があった。
今、一輝があの場に姿を現せば、余計に厄介なことになるのは目に見えている。
一輝は内心で舌打ちをして、ドアを開けようとしていた手を下ろした。彼が見ている前で、だらしない歩き方をした男は二人に近づいていく。
やがて、三人は何かを話し始めたが、その中に、普段滅多に怒ることのない弥生の昂ぶった声が混じる。
一輝は今すぐに彼らの元に行き、小金井の襟首を引っ掴んで彼女の傍から引き剥がしてやりたい衝動を辛うじてこらえる。
弥生を困惑させた宮川にも、憤らせている小金井にも腹が立った。だが、結局、一番腹立たしいのは、元凶であるにも拘らず、何もできずにただこうやって見ているだけの自分なのだ。
さほど間を置かずして、弥生に何かを言われた小金井が去っていく。
残された宮川はそのまま留まり――弥生の肩に手を置いた。彼女を覗き込んで詰問している様子だ。何を話しているのかは、声が届いてこなくても容易に知れる。
一輝の目の前で、弥生が宮川の手を振りきり、身を翻そうとする。
が。
次の瞬間展開したその光景に、一輝は、爪が手のひらに食い込むほどに両手を握り締める。
大柄な宮川に、すっぽりと抱きすくめられている弥生。
――あんなふうに彼女に触れていい者は、この自分だけだ。
そんな熱くて苦い思いが、一輝の胸の中で渦を巻く。
今すぐに車から飛び出して、宮川の腕の中の弥生を奪い返したい。
一輝の中の感情的で利己的な部分は、そう望む。しかし、もう一方の冷静で理性的な彼は、その気持ちに抑制をかけた。
果たして、自分にはその権利と資格があるのだろうか、と。
弥生は確かに一輝のことを想ってくれている。
それは、間違いないし、これ以上はないというほど確信している。
だが、先ほど園児たちの中で彼女が浮かべていた満面の笑み。
弥生が見せる二つの笑顔の両方を守れるのは、いったい、誰なのか。
自分か、それとも――。
理性と、感情と。
己の中でせめぎ合う二つの勢力に囚われ、一輝は動けなくなる。
車の外では、いつしか宮川から逃れた弥生が地面に座り込んでいた。
一輝は詰めていた息をホッと吐き出すと、運転手に向けて短い指示を出す。
「出せ」
「一輝様……」
橘が、気遣わしげな眼差しを向ける。
「いい。行け」
再度の命令に、車が動き出す。
恐らく弥生たちはエンジン音に気付いただろうとは思ったが、振り返ることはしなかった。
自分の中で渦巻いている混乱の片を着けてからでなければ、弥生とはきちんと向き合えない。
――そう、思った。
それがいつになるのか――果たして可能なことなのか、一輝自身、全く予測ができなかったけれども。
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