大事なあなた

トウリン

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幸せの増やし方

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「ねえ、そろそろ『彼』に相談してみたら?」
 小声でそう弥生に提案してきたのは、加山美香かやま みか。高校からの友人で、弥生と一輝のことを知っている数少ない者のうちの一人だ。その隣にいるのは森口裕輔もりぐち ゆうすけで、美香と同様に、一輝と面識がある。彼も、無言で頷いていた。

『相談』のネタは、当然、小金井健のことだ。

「うん……」

 確かに、そろそろ限界かもしれない。
 じわじわとその自覚が頭の中を満たし始めていた弥生は、小さなため息をこぼした。
 この間なんて、小金井のことが気になって、せっかくの一輝の誘いも断ってしまった。海外への出張から帰ってきた彼と、一週間ぶりに逢えるところだったのに。

 ――これって、本末転倒、だよね。

 肩を落とした弥生に、友人二人が心配そうな眼差しを向けている。
 もしかしたら、一輝も何か気付いているのかもしれない。断りの電話を入れた時、携帯電話の向こうの彼は、何か言いたげだったから。

 ――わたしから言うのを、待ってくれてるんだよね……。

 何かあったら、弥生から一輝に相談する。そうすることが、彼に対する信頼の表れでもある筈だ。これ以上黙っていたら、きっと、もっと一輝を傷付けることになる。

 それは、良くない。
 一輝の邪魔をするのと一輝を傷付けるのとでは、圧倒的に前者の方がマシだ。

 弥生は覚悟を決めて顔を上げると、美香と森口にニコッと笑いかけた。
「相談、してみるよ」
 彼女の笑顔に、二人も、ホッとしたように頬を緩める。
「うん、絶対その方がいいって」
「ああ。男としても、何も言ってくれない方が、つらいし、悔しいよ」
 親友たちの力強い後押しを受けて、弥生も深く頷いた。
「今日、バイトが終わったら会えるかどうか、訊いてみる」
 さっそく携帯電話を取り出して、橘宛にメールを送る。さほど待つことなく、返信メールが入った。

「どう?」
「今日、会えるって」
「そっか。良かったね」
「うん」
 弥生は心底から頷く。現金なもので、気持ちと一緒に、身体も軽くなったような気がした。

 ――そうだよね。二人のことなんだもの、ちゃんと、相談するべきだよね。

 そう決めてしまえば、一輝に会えるのが待ち遠しい。この間も逢いたくてたまらなかったのに、絶えず視界をちらつく小金井の姿に、泣く泣く約束を断ったのだ。

「じゃあ、わたし、バイトに行くね!」
 バイバイ、と美香と森口に手を振って、弥生は園に向かう。

 大学の正門を出る彼女に気付いた小金井が、いつものように柵に寄りかかってニッと笑いかけてきたけれど、これまでと同じように無視を決め込んだ。

 ――あれは電信柱。もしくは看板。
 口の中でそう唱えて、弥生はブラブラと付いてくる男の姿を頭から追いやった。

 こども園の中に足を踏み入れた途端、荷物を置く間もなく、いつものように子どもたちが押し寄せてくる。

「やよいちゃん、あそんで」
「やよいちゃん、だっこ」
「やよいちゃん、おしっこ」
 一秒ごとに、そんな声が追いかけてきた。
 昔、高校の修学旅行で奈良公園の鹿に餌をあげたことがあるけれど、あの状況に似ているかもしれない――手ぶらであることを除けば。あの時、せんべいを持った彼女は鹿の群れに襲われて、友人に助け出される羽目になったのだ。

 末の弟の葉月《はづき》はほとんど弥生が育てたようなものなのだけれど、彼は大人しい子だったので、こんなふうに走り回ったり弥生によじ登ってきたりするようなことはしなかった。
 一瞬たりともジッとしていない子どもたちの体力に、弥生は改めて驚くばかりだ。一人を抱き上げると、ぼくもわたしもと群がってくる。

 そんなふうに息をつく間もないような状況だったから、時間はあっという間に過ぎていった。

 気付けば、十六時五分前。
 アルバイトが終わるまでのあと五分を、そわそわしながら待ちかねて。

 時間になると、保育士達の「また明日」を背中で聞きながら園を後にした。
 正門には小金井が陣取っているので、彼がいない裏門を出て、橘との待ち合わせ場所に向かう。

 が、出てすぐのところで、別の人物に呼び止められてしまった。

「大石!」
 その声に振り返ると、そこに立っていたのは宮川寛之――園に出入りしている臨床心理士だ。

「宮川さん。こんにちは」
 彼に向き直った弥生は、笑顔で会釈する。

 宮川は小走りに近寄ってくると、A4サイズの紙袋に包まれた物を彼女に差し出した。
「これ、前に言ってた児童心理学の本。読み易くて面白いよ」
「わあ、ありがとうございます! 楽しみにしてました」
 弥生は、顔を輝かせてそれを受け取る。いくつか質問したい事もあったのだけれど、残念ながら、一輝との約束の時間まで、あまりない。この先の路地で、橘が手配してくれた車が待っている筈だった。

 時計を気にする弥生の様子に気付いたのか、宮川が眉をひそめる。
「これから、予定が?」
「あ、ええ、はい」
 適当にごまかせばよかったのかもしれないけれど、それができないのが、弥生だ。詳しくは教えたくない、という気持ちが露骨に顔に出てしまう。

「例の、彼?」
 案の定、窺うような面持ちで、宮川がそう尋ねてきた。

 さすがに話を聴くのがうまい彼は、弥生からもチョコチョコ情報を引き出していた。いつの間にか、彼女が『とても忙しくて滅多に逢えない男と数年来の付き合いだ』というところまで知られてしまっている。

「ええっと……――はい」
 言い繕おうとして果たせず、弥生は若干目を逸らしつつ、結局頷いた。できたらこれ以上突っ込まず、解放して欲しい。そう願ったが、それは叶わなかった。

 何やら考え込んでいた宮川が、不意に言った。
「会ってみたいな」
「ええ!?」
「別に、いいだろ? 女の子って、普通、彼氏を見せびらかせたがるじゃないか」
 それは、彼氏が『普通の人』の場合に違いない。なぜ、宮川はこんなに他人の恋人のことに拘るのだろうかと困惑しながら、弥生は何とか逃げ切ろうと試みる。

「あ……ちょっと、無理、です」
「なんで?」
 彼の眼差しが、少し尖る。

 ――ああ、もう、どうしよう。

 と、その時。

 約束の時間も刻々と迫り、気ばかり焦る弥生の背後から、更なる厄介の種の声がかかった。今この瞬間、この世で一番聞きたくない声だ。

「みぃつけた。ひどいじゃないか、こっそりいなくなるなんて」
 ため息をつきつつ視線を投げた先にいるのは、当然、小金井である。大いに誤解を招く物言いに、恐る恐る隣を見上げると、宮川は険しい眼差しを彼に注いでいた。

「これが、大石の彼氏?」
「違います!」
 そこは、力いっぱい否定しておく。話題の渦中の人物は、相も変わらずヘラヘラとしながら目を輝かせた。

「おお、いいねぇ。第三の男登場? 弥生ちゃん、見かけに寄らず、モテるじゃない」
「何なんだ、彼は?」
 あって然るべき質問が宮川から発せられる。それは、弥生も言いたい台詞だ。

 場の空気も読まず、小金井は軽い口調で自己紹介を披露する。
「ああ、オレ、小金井健って言います」
 宮川に、ヒョイッと名刺を渡されてしまった。

「フリージャーナリスト……?」
 宮川の怪訝な声は、至極もっともなものだ。
 状況は、どんどん収拾がつかなくなってくる。

 ――ああ、もう!

 内心で頭を抱えた彼女だけれど、頭上で勝手に話が進みそうになっていることに気付き、我に返った。

「おたくさぁ、この子の彼氏のこと、なんか知ってる?」
「大石の?」
「そうそう。新藤か――」
「小金井さん!」
 鋭く制してキッと睨み付けると、彼はおどけたように両手をあげた。
「悪い、悪い。この彼氏にはナイショなわけね」
 小金井は、全く悪いと思っていなそうな口調で、更に事態をこじらせるようなことを口にした。
「もう、帰ってください」
「ゴメン、ゴメン。怒らせちゃった? じゃ、今日は退散するわ」
 地を這うような弥生の声に流石に引き時だと察したのか、引っ掻き回すだけ引っ掻き回した小金井は、鼻歌混じりに去っていく。
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