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狼におあずけをくわせる方法
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一輝は二、三回深呼吸をして、己を立て直す。何とか、いつもの声を取り戻した。
「弥生さん、すみません。ここの戸、鍵を掛けられてしまったようで……。しばらくしたら橘が僕を捜しに来るでしょうから、それを待ちましょう。こちらは寒いので、湯に浸かっていてください」
努めて穏やかに、そう伝える。
「え、でも、一輝君も寒いでしょう? わたしはもう充分浸かったから、一輝君も温まって?」
続いて聞こえた水音に、狼狽は鉄壁の仮面の奥に押し込めて、一輝はキッパリと言う。
「いえ、大丈夫です。ちゃんと上に羽織ってきましたから。弥生さんの方こそ、湯冷めしますよ」
彼女に見えもしないのに笑顔を作りながら振り返り、曇りガラス越しの彼女が視界に入って、また元に戻る。
「いいから、湯に浸かっていてください」
――むしろ、お願いしますから。
心の中で、一輝はそう付け足した。そして、このやり取りをしているそばから、浴場の中で小さなくしゃみが響く。
「ほら、早く湯の中に戻ってください」
「ん……ありがとう」
その声と共に、ガラスの向こうの姿は消えていった。
一輝は、ガラスに背を持たせ掛けて座り込む。
しばらくの沈黙。
「……すみません」
「え?」
唐突な一輝の謝罪に、浴場でパシャンと小さな水音が響いた。
「多分、これ、祖父の悪だくみなんです。まったく、何を考えているんだか……」
舌打ちせんばかりの一輝の声音に、微かな笑い声が返る。
「弥生さん?」
「ううん。あのね、ちょっとおじいさんに感謝しちゃった」
「感謝、ですか? この状況で?」
「うん。だって、こんなことがなければ、二人っきりになれなかったもの。ほら、ずっと葉月がくっついているでしょう? ゴメンね、ホントは一輝君が楽しむための旅行だったのに。お散歩の時もね、二人だけで歩けたらなぁって、ちょっと思っちゃった」
一輝は咄嗟に言葉を返すことができなかった。何度か唾を呑み込み、ようやく返事をする。
「……でも、こんな……風呂場に男と閉じ込められるなんて……不安じゃないんですか?」
――もしかして、未だに『男』認定されていない……?
キス止まりとは言え、『それなり』の関係ではないのだろうか。あるいは、そう思っていたのは自分だけだったのかと、一輝の中に不安がこみ上げてくる。
そんな一輝の心中を知らずに、軽やかな声は続いた。
「不安になんて、ならないよ。だって、一輝君だもん」
やはり、そうなのかと、一輝が落ち込んでいくそばで、弥生は更につづっていく。
「一輝君は、わたしを困らせる――コトはするかもしれないけど、イヤなことや怖いことは、絶対しないもの。……あのね、わたし……一輝君が――傍にいると、ドキドキはしちゃうけど、イヤだって思ったことは一瞬だってないんだよ?」
「弥生さん……」
「もうちょっと、もうちょっとだけ、待ってね。わたし、ちゃんと、一輝君のこと――」
そこで、彼女の声が途切れる。やや不自然な終わり方を怪訝に思いながらも、一輝はしばらく待ってみる。だが、それっきりだった。
「弥生さん?」
浴場へ向けて声を掛けたが、返事はない。
「弥生さん、大丈夫ですか?」
もう少し声を大きくしてみた――が、やはり返事はない。
時計を見上げれば、二十三時まで、あと数分だ。もう少し待てば、橘がやってくるだろう。
だが、しかし。
「開けますよ、いいですか?」
はっきりしない状況に業を煮やし、一輝はそのガラスの引き戸をそろりと開ける。
直後、目に入ってきた光景に、入り口に重ねておいてあるバスタオルを数枚引っつかんで浴場へ駆け込んだ。彼女は湯船の縁に伏せて、ピクリともしない。
「弥生さん!」
自分が濡れるのには構わず、彼女を湯から引き上げた。視線を逸らしつつ、取り敢えずバスタオルを手当たり次第に巻き付けて、抱き上げる。
脱衣場に戻って、きちんと畳まれた弥生の浴衣を籠から取る。と、そのひょうしに、何かがシャリンと音を立てた。見下ろした先には、小さな花をモチーフとしたネックレスが落ちていた。
それを目にした一輝の胸が、詰まる。そのネックレスは以前に彼がプレゼントしたものだが、実は発信機が仕込まれている代物だった。すでにその事は弥生にばれているので、てっきり、もう着けてくれてはいないと思っていたのだ。いくらそのお陰で危機を逃れたことがあるといっても、流石に気持ちが悪かろうと思っていたのに。
一輝はネックレスを拾い上げると、ポケットにしまった。
そして、弥生に浴衣を着せる――タオルを剥ぎ取る勇気はなく、二、三枚巻き付けたタオルの上からだ。濡れてしまうが、身体が冷えてちょうどいいかもしれない。
脱衣場には椅子などはない。かといって、弥生を床に寝かせるわけにもいかなかった。
やむなく、一輝は彼女を抱えたまま、膝の上にのせる。
つくづく、タオルを巻いたまま浴衣を着せておいて良かったと実感した。
――早く来てくれ、橘。
もう、それは祈りに近い。
今、こうしている間も、密着した柔らかく温かな身体はその存在を目一杯主張している。
「ん……」
一輝が弥生から意識を逸らそうと懸命になっている、その時。腕の中から小さな声が上がる。
目が覚めたのだろうかと見下ろすと、ぼんやりと彼女が目を開いていた。その眼差しからは、半分以上は夢の世界にいることが手に取るようにわかる。
「……かずき、くん……?」
舌足らずな、甘い声。
「はい……?」
相手は正気ではないのだと己に言い聞かせ、一輝は返事をする。
が。
「……だいすき……」
弥生は、それだけ呟き、また目を閉じた。それはもう、うっとりとした笑みを浮かべて。
つい先ほどの弥生の台詞がなければ、一輝はもう己の行動を制御することなどできなかっただろう。
『信頼』というものが、この上なく強力な抑止力となり得ることを、つくづく思い知らされた一輝である。
――頼む、橘。頼むから……助けてくれ。
一輝がこれほど切実に片腕の名前を呼んだことは、今までなかった。
しかし、この生殺しの状態が解消されるまで、まだしばらくの時を要するのである。
「弥生さん、すみません。ここの戸、鍵を掛けられてしまったようで……。しばらくしたら橘が僕を捜しに来るでしょうから、それを待ちましょう。こちらは寒いので、湯に浸かっていてください」
努めて穏やかに、そう伝える。
「え、でも、一輝君も寒いでしょう? わたしはもう充分浸かったから、一輝君も温まって?」
続いて聞こえた水音に、狼狽は鉄壁の仮面の奥に押し込めて、一輝はキッパリと言う。
「いえ、大丈夫です。ちゃんと上に羽織ってきましたから。弥生さんの方こそ、湯冷めしますよ」
彼女に見えもしないのに笑顔を作りながら振り返り、曇りガラス越しの彼女が視界に入って、また元に戻る。
「いいから、湯に浸かっていてください」
――むしろ、お願いしますから。
心の中で、一輝はそう付け足した。そして、このやり取りをしているそばから、浴場の中で小さなくしゃみが響く。
「ほら、早く湯の中に戻ってください」
「ん……ありがとう」
その声と共に、ガラスの向こうの姿は消えていった。
一輝は、ガラスに背を持たせ掛けて座り込む。
しばらくの沈黙。
「……すみません」
「え?」
唐突な一輝の謝罪に、浴場でパシャンと小さな水音が響いた。
「多分、これ、祖父の悪だくみなんです。まったく、何を考えているんだか……」
舌打ちせんばかりの一輝の声音に、微かな笑い声が返る。
「弥生さん?」
「ううん。あのね、ちょっとおじいさんに感謝しちゃった」
「感謝、ですか? この状況で?」
「うん。だって、こんなことがなければ、二人っきりになれなかったもの。ほら、ずっと葉月がくっついているでしょう? ゴメンね、ホントは一輝君が楽しむための旅行だったのに。お散歩の時もね、二人だけで歩けたらなぁって、ちょっと思っちゃった」
一輝は咄嗟に言葉を返すことができなかった。何度か唾を呑み込み、ようやく返事をする。
「……でも、こんな……風呂場に男と閉じ込められるなんて……不安じゃないんですか?」
――もしかして、未だに『男』認定されていない……?
キス止まりとは言え、『それなり』の関係ではないのだろうか。あるいは、そう思っていたのは自分だけだったのかと、一輝の中に不安がこみ上げてくる。
そんな一輝の心中を知らずに、軽やかな声は続いた。
「不安になんて、ならないよ。だって、一輝君だもん」
やはり、そうなのかと、一輝が落ち込んでいくそばで、弥生は更につづっていく。
「一輝君は、わたしを困らせる――コトはするかもしれないけど、イヤなことや怖いことは、絶対しないもの。……あのね、わたし……一輝君が――傍にいると、ドキドキはしちゃうけど、イヤだって思ったことは一瞬だってないんだよ?」
「弥生さん……」
「もうちょっと、もうちょっとだけ、待ってね。わたし、ちゃんと、一輝君のこと――」
そこで、彼女の声が途切れる。やや不自然な終わり方を怪訝に思いながらも、一輝はしばらく待ってみる。だが、それっきりだった。
「弥生さん?」
浴場へ向けて声を掛けたが、返事はない。
「弥生さん、大丈夫ですか?」
もう少し声を大きくしてみた――が、やはり返事はない。
時計を見上げれば、二十三時まで、あと数分だ。もう少し待てば、橘がやってくるだろう。
だが、しかし。
「開けますよ、いいですか?」
はっきりしない状況に業を煮やし、一輝はそのガラスの引き戸をそろりと開ける。
直後、目に入ってきた光景に、入り口に重ねておいてあるバスタオルを数枚引っつかんで浴場へ駆け込んだ。彼女は湯船の縁に伏せて、ピクリともしない。
「弥生さん!」
自分が濡れるのには構わず、彼女を湯から引き上げた。視線を逸らしつつ、取り敢えずバスタオルを手当たり次第に巻き付けて、抱き上げる。
脱衣場に戻って、きちんと畳まれた弥生の浴衣を籠から取る。と、そのひょうしに、何かがシャリンと音を立てた。見下ろした先には、小さな花をモチーフとしたネックレスが落ちていた。
それを目にした一輝の胸が、詰まる。そのネックレスは以前に彼がプレゼントしたものだが、実は発信機が仕込まれている代物だった。すでにその事は弥生にばれているので、てっきり、もう着けてくれてはいないと思っていたのだ。いくらそのお陰で危機を逃れたことがあるといっても、流石に気持ちが悪かろうと思っていたのに。
一輝はネックレスを拾い上げると、ポケットにしまった。
そして、弥生に浴衣を着せる――タオルを剥ぎ取る勇気はなく、二、三枚巻き付けたタオルの上からだ。濡れてしまうが、身体が冷えてちょうどいいかもしれない。
脱衣場には椅子などはない。かといって、弥生を床に寝かせるわけにもいかなかった。
やむなく、一輝は彼女を抱えたまま、膝の上にのせる。
つくづく、タオルを巻いたまま浴衣を着せておいて良かったと実感した。
――早く来てくれ、橘。
もう、それは祈りに近い。
今、こうしている間も、密着した柔らかく温かな身体はその存在を目一杯主張している。
「ん……」
一輝が弥生から意識を逸らそうと懸命になっている、その時。腕の中から小さな声が上がる。
目が覚めたのだろうかと見下ろすと、ぼんやりと彼女が目を開いていた。その眼差しからは、半分以上は夢の世界にいることが手に取るようにわかる。
「……かずき、くん……?」
舌足らずな、甘い声。
「はい……?」
相手は正気ではないのだと己に言い聞かせ、一輝は返事をする。
が。
「……だいすき……」
弥生は、それだけ呟き、また目を閉じた。それはもう、うっとりとした笑みを浮かべて。
つい先ほどの弥生の台詞がなければ、一輝はもう己の行動を制御することなどできなかっただろう。
『信頼』というものが、この上なく強力な抑止力となり得ることを、つくづく思い知らされた一輝である。
――頼む、橘。頼むから……助けてくれ。
一輝がこれほど切実に片腕の名前を呼んだことは、今までなかった。
しかし、この生殺しの状態が解消されるまで、まだしばらくの時を要するのである。
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