大事なあなた

トウリン

文字の大きさ
上 下
42 / 73
狼におあずけをくわせる方法

しおりを挟む
 弥生たちとの夕食を終えて部屋に引き取った一輝は、ぼんやりと身体を座椅子に持たせ掛けていた。

 いつもめまぐるしく回転している彼の脳は、今、取り留めのない想いの中をさまよっていた。

 以前、一輝は大石家に数か月間滞在した事がある。もう、四年も前のことだ。
 それからも、短時間ではあったが、弥生とはしばしば食事をするなどして時を過ごす事があった。しかし、『大石家』に触れるのは、久しぶりのことである。二人きりの時とは違う彼女から、食事の間中、彼は目が離せなかった。

 二人だけで過ごしている時の、どぎまぎしている弥生は、可愛らしい。
 そういう時は、触れて、抱き締めて、自分だけのものにしてしまいたくなる。

 だが、ああやって、甲斐甲斐しく弟たちの世話を焼く彼女には、何故か見惚れてしまうのだ。はにかむ姿を独り占めしている時以上に、あまり感じた事のない不慣れな甘苦しさが一輝の胸を締め付ける。

 その気持ちが何なのか。
 何故、そんなふうに感じるのか。

 自分自身を分析すれば、簡単に答えは出る。

 弥生と弟たちが見せる『画』は、そのまま一輝が望む未来を表しているのだ――『弟』は、別の存在になっているけれども。

 いつか必ず、手に入れる。
 けれど、まだ、その時ではない。

「当分、実現不可能だというのに」

 あと三年か、五年か。

 時々、さっさとことを進めてしまえと囁く声が頭の中をかすめるが、いざ弥生の笑顔を前にすれば、強引になどとてもではないができない。
 彼女が彼を愛してくれていることはこれでもかというほどに伝わってくるから、時折理性が揺らいでしまう。

 きっと、一輝が望めば、弥生は唯々諾々と従うだろう。多分今この時だって、誘えば彼女はついてくる。

 しかし、そんなふうに流されたような彼女を手に入れるのは、嫌だった。

 一から十まで弥生自身が納得してから、彼のもとに来て欲しい。
 身体だけではなくて、心も頭もしっかりと伴った弥生でなければ、駄目なのだ。

 ――だが、しかし、果たしてそれがいつのことになるのやら。

 一輝は、深々と息を吐く。
 そろそろ橘が社からの報告を伝えに来る時間だが、先に少し気分を入れ替えておきたかった。

 一輝は部屋を出て、隣の、橘たちのいる部屋をノックした。すぐに彼が顔を覗かせる。
「どうかされましたか? 予定を早めますか?」
「いや、先に、一風呂浴びてくる」
「そうですか。わかりました。では、いつ頃伺いましょう?」

 橘の問いに、一輝はしばし考える。

「……一時間くらいもらおうか」
「わかりました。では、二十三時頃でよろしいでしょうか」

 五十分ほどあれば、充分だ。

「それでいい。行ってくる……運転手は?」
「ああ、彼ならタバコをやりに行きました」
「そうか。じゃあ、また後で」

 あの男からタバコの臭いはしただろうかと思ったが、彼のことはすぐに頭の中から消え去った。そして、露天風呂を目指す。

『男湯』と書いてある暖簾をくぐると、先客が一人いるようだった。衣類を入れる籠が、一つ埋まっている。彼ら一行しか泊まっていないから、睦月だろうか。キレイに畳まれた浴衣に違和感を覚えたが、躾に厳しい弥生のことだ。そのあたりもきっちり言い含めているのだろう。
 特に気にせず、一輝は浴衣を脱ぎ、腰にタオルを巻いただけで浴場に入った。

 立ち込める湯気の向こうに、湯に浸かった人影が見える。ふと、彼は疑問を覚えた。

 ――睦月にしては、小さすぎはしないだろうか。

 しかし、葉月にしては大きい。

 まさか。

 足が止まる。いや、本当は、一目で、それが誰なのか一輝には判っていた。だが、それが現実であることを、脳が否定していたのだ。

 人の気配を感じ取ったのか、その人物が振り返る。斜め四十五度くらい、ギリギリ向こうも一輝の姿を視界に入れられるほどまで身体を捻って――相手も、ピシリと固まった。

 それは、決してこの場にいてはならない人物。

 そう。

 どう見ても、弥生に他ならなかった。

 ――自分が男湯と女湯を間違えたのか?

 一瞬、そんな考えが頭をよぎったが、そんなバカな間違いをする筈がない。
 何が起きているのか、さっぱり判らなかった。

 ありえないほどに思考能力が低下した一輝に、先に我を取り戻したらしい弥生がおずおずと声を掛ける。

「一輝、君……?」

 その声で、呪縛が解けた一輝は、クルリと踵を返す。
「失礼いたしました」
 硬い声でそれだけ残し、一輝は脱衣場に舞い戻った。手早く浴衣を身に付けると、さっさとその場を立ち去ろうとする。

 だが、しかし。

 開けようとして手を掛けた引き戸は、びくともしない。

 ――何なんだ!?

 浴場を間違えた上に、何故、この戸は開かない?

 ――いったい、何が起きているんだ?

 何かが仕組まれているとしか、思えない。

 すぐさま一輝の頭の中に閃いたのは、一智《かずとも》の顔だった。
 もちろん、一智が手を回したのだ。

 ギリギリと、一輝は奥歯をすり減らしそうなほどに歯ぎしりをする。
 橘が祖父に手を貸すとも思えない、となると、実行犯は運転手か。しかし、彼は長く一輝に仕えている、忠実な男である。悪意からこんなことをしたわけではないだろう。恐らく、口のうまい一智に、いいように言い包められたのに違いなかった。

 ――あんの、クソじじい!

 心の中で罵りながら何とか戸を開けようと試みるが、さすが高級旅館なだけあって、びくともしない。こうなったら、三十分強の間、橘が捜しにくるのを待つしかないのだろう。
 あの祖父は、いったい一輝に何をさせたいのか。その答えは本人に聞かずとも、知れた。

 ――人の理性を、いったいなんだと思っているんだ!?

 一輝とて、健康な十六歳男児である。決して、淡白なわけではなく、常に己を律してコントロールしているだけなのだ。自分の望むようにことを進めていくのは容易だったが、彼女の気持ちを置き去りにはしたくない。ちゃんと大切に彼女の気持ちを育てていきたかった。

 その一心で、色々我慢に我慢を重ねているというのに。

「くそ、じじい」
 今度は、声に出して罵った。

 壁に掛けられた時計を見上げると、二十二時三十分を少し過ぎたくらいだ。約束の時間になっても戻っていなければ、橘が捜しにくるだろう。あと三十分、耐え抜ければいいのだが――それは一輝にとって、永遠にも近い三十分になるだろう。

 ギリギリと歯軋りをする一輝に、曇りガラス越しに声が掛けられる。

「一輝、くん?」

 おずおずと、まだそこにいるかを確かめるように。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天使と狼

トウリン
恋愛
女癖の悪さに定評のある小児科医岩崎一美《いわさき かずよし》が勤める病棟に、ある日新人看護師、小宮山萌《こみやま もえ》がやってきた。肉食系医師と小動物系新米看護師。年齢も、生き方も、経験も、何もかもが違う。 そんな、交わるどころか永久に近寄ることすらないと思われた二人の距離は、次第に変化していき……。 傲慢な男は牙を抜かれ、孤独な娘は温かな住処を見つける。 そんな、物語。 三部作になっています。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

盗賊と領主の娘

倉くらの
恋愛
過去の事件がきっかけで心に大きな傷を持った領主の娘レイピア。 表はサーカスの次期団長、裏は盗賊団の頭という2つの顔を持った青年スキル。 2人のピンクダイヤモンドをめぐる攻防と恋の行方を描いたファンタジーラブロマンス。 女たらしな盗賊×気の強い貴族の女性 お相手は主人公に出会ってからは他の女性に目を向けません。 主人公は過去に恋人がいました。 *この作品は昔個人サイトで掲載しており、2010年に「小説家になろう」で無断転載被害にあいましたが現在は削除してもらっています。 *こちらは書き手本人による投稿です。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

白い初夜

NIWA
恋愛
ある日、子爵令嬢のアリシアは婚約者であるファレン・セレ・キルシュタイン伯爵令息から『白い結婚』を告げられてしまう。 しかし話を聞いてみればどうやら話が込み入っているようで──

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜

橘しづき
恋愛
 姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。    私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。    だが当日、姉は結婚式に来なかった。  パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。 「私が……蒼一さんと結婚します」    姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。

処理中です...