大事なあなた

トウリン

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狼におあずけをくわせる方法

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 弥生たちとの夕食を終えて部屋に引き取った一輝は、ぼんやりと身体を座椅子に持たせ掛けていた。

 いつもめまぐるしく回転している彼の脳は、今、取り留めのない想いの中をさまよっていた。

 以前、一輝は大石家に数か月間滞在した事がある。もう、四年も前のことだ。
 それからも、短時間ではあったが、弥生とはしばしば食事をするなどして時を過ごす事があった。しかし、『大石家』に触れるのは、久しぶりのことである。二人きりの時とは違う彼女から、食事の間中、彼は目が離せなかった。

 二人だけで過ごしている時の、どぎまぎしている弥生は、可愛らしい。
 そういう時は、触れて、抱き締めて、自分だけのものにしてしまいたくなる。

 だが、ああやって、甲斐甲斐しく弟たちの世話を焼く彼女には、何故か見惚れてしまうのだ。はにかむ姿を独り占めしている時以上に、あまり感じた事のない不慣れな甘苦しさが一輝の胸を締め付ける。

 その気持ちが何なのか。
 何故、そんなふうに感じるのか。

 自分自身を分析すれば、簡単に答えは出る。

 弥生と弟たちが見せる『画』は、そのまま一輝が望む未来を表しているのだ――『弟』は、別の存在になっているけれども。

 いつか必ず、手に入れる。
 けれど、まだ、その時ではない。

「当分、実現不可能だというのに」

 あと三年か、五年か。

 時々、さっさとことを進めてしまえと囁く声が頭の中をかすめるが、いざ弥生の笑顔を前にすれば、強引になどとてもではないができない。
 彼女が彼を愛してくれていることはこれでもかというほどに伝わってくるから、時折理性が揺らいでしまう。

 きっと、一輝が望めば、弥生は唯々諾々と従うだろう。多分今この時だって、誘えば彼女はついてくる。

 しかし、そんなふうに流されたような彼女を手に入れるのは、嫌だった。

 一から十まで弥生自身が納得してから、彼のもとに来て欲しい。
 身体だけではなくて、心も頭もしっかりと伴った弥生でなければ、駄目なのだ。

 ――だが、しかし、果たしてそれがいつのことになるのやら。

 一輝は、深々と息を吐く。
 そろそろ橘が社からの報告を伝えに来る時間だが、先に少し気分を入れ替えておきたかった。

 一輝は部屋を出て、隣の、橘たちのいる部屋をノックした。すぐに彼が顔を覗かせる。
「どうかされましたか? 予定を早めますか?」
「いや、先に、一風呂浴びてくる」
「そうですか。わかりました。では、いつ頃伺いましょう?」

 橘の問いに、一輝はしばし考える。

「……一時間くらいもらおうか」
「わかりました。では、二十三時頃でよろしいでしょうか」

 五十分ほどあれば、充分だ。

「それでいい。行ってくる……運転手は?」
「ああ、彼ならタバコをやりに行きました」
「そうか。じゃあ、また後で」

 あの男からタバコの臭いはしただろうかと思ったが、彼のことはすぐに頭の中から消え去った。そして、露天風呂を目指す。

『男湯』と書いてある暖簾をくぐると、先客が一人いるようだった。衣類を入れる籠が、一つ埋まっている。彼ら一行しか泊まっていないから、睦月だろうか。キレイに畳まれた浴衣に違和感を覚えたが、躾に厳しい弥生のことだ。そのあたりもきっちり言い含めているのだろう。
 特に気にせず、一輝は浴衣を脱ぎ、腰にタオルを巻いただけで浴場に入った。

 立ち込める湯気の向こうに、湯に浸かった人影が見える。ふと、彼は疑問を覚えた。

 ――睦月にしては、小さすぎはしないだろうか。

 しかし、葉月にしては大きい。

 まさか。

 足が止まる。いや、本当は、一目で、それが誰なのか一輝には判っていた。だが、それが現実であることを、脳が否定していたのだ。

 人の気配を感じ取ったのか、その人物が振り返る。斜め四十五度くらい、ギリギリ向こうも一輝の姿を視界に入れられるほどまで身体を捻って――相手も、ピシリと固まった。

 それは、決してこの場にいてはならない人物。

 そう。

 どう見ても、弥生に他ならなかった。

 ――自分が男湯と女湯を間違えたのか?

 一瞬、そんな考えが頭をよぎったが、そんなバカな間違いをする筈がない。
 何が起きているのか、さっぱり判らなかった。

 ありえないほどに思考能力が低下した一輝に、先に我を取り戻したらしい弥生がおずおずと声を掛ける。

「一輝、君……?」

 その声で、呪縛が解けた一輝は、クルリと踵を返す。
「失礼いたしました」
 硬い声でそれだけ残し、一輝は脱衣場に舞い戻った。手早く浴衣を身に付けると、さっさとその場を立ち去ろうとする。

 だが、しかし。

 開けようとして手を掛けた引き戸は、びくともしない。

 ――何なんだ!?

 浴場を間違えた上に、何故、この戸は開かない?

 ――いったい、何が起きているんだ?

 何かが仕組まれているとしか、思えない。

 すぐさま一輝の頭の中に閃いたのは、一智《かずとも》の顔だった。
 もちろん、一智が手を回したのだ。

 ギリギリと、一輝は奥歯をすり減らしそうなほどに歯ぎしりをする。
 橘が祖父に手を貸すとも思えない、となると、実行犯は運転手か。しかし、彼は長く一輝に仕えている、忠実な男である。悪意からこんなことをしたわけではないだろう。恐らく、口のうまい一智に、いいように言い包められたのに違いなかった。

 ――あんの、クソじじい!

 心の中で罵りながら何とか戸を開けようと試みるが、さすが高級旅館なだけあって、びくともしない。こうなったら、三十分強の間、橘が捜しにくるのを待つしかないのだろう。
 あの祖父は、いったい一輝に何をさせたいのか。その答えは本人に聞かずとも、知れた。

 ――人の理性を、いったいなんだと思っているんだ!?

 一輝とて、健康な十六歳男児である。決して、淡白なわけではなく、常に己を律してコントロールしているだけなのだ。自分の望むようにことを進めていくのは容易だったが、彼女の気持ちを置き去りにはしたくない。ちゃんと大切に彼女の気持ちを育てていきたかった。

 その一心で、色々我慢に我慢を重ねているというのに。

「くそ、じじい」
 今度は、声に出して罵った。

 壁に掛けられた時計を見上げると、二十二時三十分を少し過ぎたくらいだ。約束の時間になっても戻っていなければ、橘が捜しにくるだろう。あと三十分、耐え抜ければいいのだが――それは一輝にとって、永遠にも近い三十分になるだろう。

 ギリギリと歯軋りをする一輝に、曇りガラス越しに声が掛けられる。

「一輝、くん?」

 おずおずと、まだそこにいるかを確かめるように。
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