40 / 73
狼におあずけをくわせる方法
4
しおりを挟む
旅館の周囲はちょっとした小道になっていて、宿の規模に比して広めな庭が綺麗に整えられていた。薄積りの雪が、そこに風情のある彩を与えている。
弥生は左腕に葉月を、右側に睦月を連れて、一輝の前を歩いていた。
「いいんですか?」
「何がだ」
「何がって、一輝様……」
平然と返す一輝に、橘が口ごもった。
「別に、彼女は楽しそうなんだから、いいじゃないか。普段家のことばかりで、のんびりする暇がない人なんだ」
負け惜しみではなく、楽しそうに寛いでいる弥生を見ているだけで、一輝は、六割方は満足だ。確かに、残りの四割は独り占めしたいという気持ちであることは、否定できないが。
「そうですか? ……せっかくの温泉なのに……」
もったいない、と言わんばかりの橘だ。だが、一輝は、秘書には取り合わずに三人の後をゆっくりと歩く。
不意に、クルリと弥生が振り返った。
陰も屈託も裏もない、綺麗な笑顔がそこにある。
普段、おもねる笑い顔ばかりに囲まれている一輝にとって、彼女が見せるものこそが『笑顔』だ。弥生だけが彼に与えられるものの、何と多いことか。
「綺麗だね、一輝君。雪なんてめったに見ないから、嬉しい。連れてきてくれて、ありがとうね」
「いいえ。僕も楽しいですよ」
笑いかけながらそう答えれば、彼女の笑みはいっそう深くなる。
むしろ、二人きりの旅行でなくて良かったのかもしれない。こんな弥生を見せられ続けていたら、一輝も自分の行動に自信が持てなかった。二人の弟は、いいストッパーになる。
この時期の日が沈むのは早く、空が赤くなったと思ったら、じきに暗くなり始めた。
のんびり庭を散策して冷えた身体を、一行は温泉で温めることにする。
葉月は弥生と入りたがったが、睦月が問答無用で引っ張っていった。
「では、また、夕飯の時に」
「うん、また後でね」
一輝は、ごくわずかな時間とは言え、本日初の二人きりをしみじみと味わう。もったいなくて、しばらくジッと見下ろしていると、弥生は少し身じろぎして目を逸らし、その頬をほんのりと染めた。触れてしまいたいのはやまやまだが、堪えられなくなりそうなので止めておく。
「では」
短くそう残して、一輝は立ち去ろうとする。が。
「あ……」
小さな弥生の声が、彼を引き止めた。
「何か?」
振り返って、首をかしげる。
――部屋に何か不備でもあったのだろうか。
だが、当の弥生は、口を『あ』のカタチのままにして、目を丸くしている。まるで、彼女自身、何故声をあげたのかが判っていないかのようだった。
「弥生さん?」
名前を呼ぶと、彼女は目をパチリと瞬かせる。そして、『ほんのり』赤かった頬を、更に染めていく。
――ああ、もう、反則だろう、これは。
そんな一輝の心中も知らず。
「な、何でもないよ。じゃあね」
弥生は、慌てたように身を翻して立ち去ろうとする。そんな彼女の手首を捕らえ、一輝は引き寄せた。
「何を、言おうとしたんですか?」
心持ち身を屈めて、彼女の耳元にそう囁く。その耳朶は真っ赤だ。
「何でもないよ、ホントに」
もう一度繰り返す彼女の鼓動は、まるで仔猫のように早い。
「まったく……せっかく、人が我慢していると言うのに……」
そう呟きながら、弥生の頬に手を添え、顔を上げさせる。
「一輝、くん……」
「目を、閉じてください」
一輝の言葉に彼女は目を見開き、数回瞬きをし、そして、目蓋を下ろした。
無防備な弥生の顔を少し見つめた後、彼はゆっくりと頭を下げる。
小さく柔らかな彼女の唇に、一輝のそれが触れ――ようとした、その時。
ドン、と軽い衝撃が二人を襲う。
「キャッ!?」
小さな声をあげて弥生が自分の背後を見下ろし、一輝の視線もそれを追った。
そこにあったのは――。
「葉月!?」
可愛らしい弥生の弟が、彼女の腰に抱きついて、無邪気な顔で見上げていた。
「おねえちゃん、ぼく……やっぱり、おねえちゃんといっしょがいいなぁ」
甘えた声をあげる弟に弥生が呆れたように微笑んで、その頭を撫でた。当然、もう、一輝の腕の中にはいない。彼女は弟に視線を合わせて、言い含めている。
「葉月ももう八歳なんだから、一人でお風呂に入れなきゃ。それに、今日はお家のお風呂じゃないんだからね」
「はぁい」
イヤに素直な葉月だった。きっと、戻ってきたのは他の理由からなのだろう。案の定、弥生の頭の中は、すっかり『母親モード』に切り替わっているようだった。
「あ、じゃあね、一輝君」
ニッコリ笑って葉月と去っていく弥生を見送って。
一輝は小さくため息をついた。
弥生は左腕に葉月を、右側に睦月を連れて、一輝の前を歩いていた。
「いいんですか?」
「何がだ」
「何がって、一輝様……」
平然と返す一輝に、橘が口ごもった。
「別に、彼女は楽しそうなんだから、いいじゃないか。普段家のことばかりで、のんびりする暇がない人なんだ」
負け惜しみではなく、楽しそうに寛いでいる弥生を見ているだけで、一輝は、六割方は満足だ。確かに、残りの四割は独り占めしたいという気持ちであることは、否定できないが。
「そうですか? ……せっかくの温泉なのに……」
もったいない、と言わんばかりの橘だ。だが、一輝は、秘書には取り合わずに三人の後をゆっくりと歩く。
不意に、クルリと弥生が振り返った。
陰も屈託も裏もない、綺麗な笑顔がそこにある。
普段、おもねる笑い顔ばかりに囲まれている一輝にとって、彼女が見せるものこそが『笑顔』だ。弥生だけが彼に与えられるものの、何と多いことか。
「綺麗だね、一輝君。雪なんてめったに見ないから、嬉しい。連れてきてくれて、ありがとうね」
「いいえ。僕も楽しいですよ」
笑いかけながらそう答えれば、彼女の笑みはいっそう深くなる。
むしろ、二人きりの旅行でなくて良かったのかもしれない。こんな弥生を見せられ続けていたら、一輝も自分の行動に自信が持てなかった。二人の弟は、いいストッパーになる。
この時期の日が沈むのは早く、空が赤くなったと思ったら、じきに暗くなり始めた。
のんびり庭を散策して冷えた身体を、一行は温泉で温めることにする。
葉月は弥生と入りたがったが、睦月が問答無用で引っ張っていった。
「では、また、夕飯の時に」
「うん、また後でね」
一輝は、ごくわずかな時間とは言え、本日初の二人きりをしみじみと味わう。もったいなくて、しばらくジッと見下ろしていると、弥生は少し身じろぎして目を逸らし、その頬をほんのりと染めた。触れてしまいたいのはやまやまだが、堪えられなくなりそうなので止めておく。
「では」
短くそう残して、一輝は立ち去ろうとする。が。
「あ……」
小さな弥生の声が、彼を引き止めた。
「何か?」
振り返って、首をかしげる。
――部屋に何か不備でもあったのだろうか。
だが、当の弥生は、口を『あ』のカタチのままにして、目を丸くしている。まるで、彼女自身、何故声をあげたのかが判っていないかのようだった。
「弥生さん?」
名前を呼ぶと、彼女は目をパチリと瞬かせる。そして、『ほんのり』赤かった頬を、更に染めていく。
――ああ、もう、反則だろう、これは。
そんな一輝の心中も知らず。
「な、何でもないよ。じゃあね」
弥生は、慌てたように身を翻して立ち去ろうとする。そんな彼女の手首を捕らえ、一輝は引き寄せた。
「何を、言おうとしたんですか?」
心持ち身を屈めて、彼女の耳元にそう囁く。その耳朶は真っ赤だ。
「何でもないよ、ホントに」
もう一度繰り返す彼女の鼓動は、まるで仔猫のように早い。
「まったく……せっかく、人が我慢していると言うのに……」
そう呟きながら、弥生の頬に手を添え、顔を上げさせる。
「一輝、くん……」
「目を、閉じてください」
一輝の言葉に彼女は目を見開き、数回瞬きをし、そして、目蓋を下ろした。
無防備な弥生の顔を少し見つめた後、彼はゆっくりと頭を下げる。
小さく柔らかな彼女の唇に、一輝のそれが触れ――ようとした、その時。
ドン、と軽い衝撃が二人を襲う。
「キャッ!?」
小さな声をあげて弥生が自分の背後を見下ろし、一輝の視線もそれを追った。
そこにあったのは――。
「葉月!?」
可愛らしい弥生の弟が、彼女の腰に抱きついて、無邪気な顔で見上げていた。
「おねえちゃん、ぼく……やっぱり、おねえちゃんといっしょがいいなぁ」
甘えた声をあげる弟に弥生が呆れたように微笑んで、その頭を撫でた。当然、もう、一輝の腕の中にはいない。彼女は弟に視線を合わせて、言い含めている。
「葉月ももう八歳なんだから、一人でお風呂に入れなきゃ。それに、今日はお家のお風呂じゃないんだからね」
「はぁい」
イヤに素直な葉月だった。きっと、戻ってきたのは他の理由からなのだろう。案の定、弥生の頭の中は、すっかり『母親モード』に切り替わっているようだった。
「あ、じゃあね、一輝君」
ニッコリ笑って葉月と去っていく弥生を見送って。
一輝は小さくため息をついた。
0
お気に入りに追加
143
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。
星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。
グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。
それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。
しかし。ある日。
シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。
聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。
ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。
──……私は、ただの邪魔者だったの?
衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
廃妃の再婚
束原ミヤコ
恋愛
伯爵家の令嬢としてうまれたフィアナは、母を亡くしてからというもの
父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。
ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。
それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。
身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。
あの時助けた青年は、国王になっていたのである。
「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは
結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。
帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。
カトルはイルサナを寵愛しはじめる。
王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。
ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。
引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。
ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。
だがユリシアスは何かを隠しているようだ。
それはカトルの抱える、真実だった──。

五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる