大事なあなた

トウリン

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狼におあずけをくわせる方法

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 旅館の周囲はちょっとした小道になっていて、宿の規模に比して広めな庭が綺麗に整えられていた。薄積りの雪が、そこに風情のある彩を与えている。
 弥生は左腕に葉月を、右側に睦月を連れて、一輝の前を歩いていた。

「いいんですか?」
「何がだ」
「何がって、一輝様……」
 平然と返す一輝に、橘が口ごもった。

「別に、彼女は楽しそうなんだから、いいじゃないか。普段家のことばかりで、のんびりする暇がない人なんだ」

 負け惜しみではなく、楽しそうに寛いでいる弥生を見ているだけで、一輝は、六割方は満足だ。確かに、残りの四割は独り占めしたいという気持ちであることは、否定できないが。

「そうですか? ……せっかくの温泉なのに……」
 もったいない、と言わんばかりの橘だ。だが、一輝は、秘書には取り合わずに三人の後をゆっくりと歩く。

 不意に、クルリと弥生が振り返った。
 陰も屈託も裏もない、綺麗な笑顔がそこにある。
 普段、おもねる笑い顔ばかりに囲まれている一輝にとって、彼女が見せるものこそが『笑顔』だ。弥生だけが彼に与えられるものの、何と多いことか。

「綺麗だね、一輝君。雪なんてめったに見ないから、嬉しい。連れてきてくれて、ありがとうね」
「いいえ。僕も楽しいですよ」
 笑いかけながらそう答えれば、彼女の笑みはいっそう深くなる。

 むしろ、二人きりの旅行でなくて良かったのかもしれない。こんな弥生を見せられ続けていたら、一輝も自分の行動に自信が持てなかった。二人の弟は、いいストッパーになる。

 この時期の日が沈むのは早く、空が赤くなったと思ったら、じきに暗くなり始めた。
 のんびり庭を散策して冷えた身体を、一行は温泉で温めることにする。

 葉月は弥生と入りたがったが、睦月が問答無用で引っ張っていった。
「では、また、夕飯の時に」
「うん、また後でね」

 一輝は、ごくわずかな時間とは言え、本日初の二人きりをしみじみと味わう。もったいなくて、しばらくジッと見下ろしていると、弥生は少し身じろぎして目を逸らし、その頬をほんのりと染めた。触れてしまいたいのはやまやまだが、堪えられなくなりそうなので止めておく。

「では」
 短くそう残して、一輝は立ち去ろうとする。が。

「あ……」
 小さな弥生の声が、彼を引き止めた。

「何か?」
 振り返って、首をかしげる。

 ――部屋に何か不備でもあったのだろうか。

 だが、当の弥生は、口を『あ』のカタチのままにして、目を丸くしている。まるで、彼女自身、何故声をあげたのかが判っていないかのようだった。

「弥生さん?」
 名前を呼ぶと、彼女は目をパチリと瞬かせる。そして、『ほんのり』赤かった頬を、更に染めていく。

 ――ああ、もう、反則だろう、これは。

 そんな一輝の心中も知らず。

「な、何でもないよ。じゃあね」
 弥生は、慌てたように身を翻して立ち去ろうとする。そんな彼女の手首を捕らえ、一輝は引き寄せた。
「何を、言おうとしたんですか?」
 心持ち身を屈めて、彼女の耳元にそう囁く。その耳朶は真っ赤だ。
「何でもないよ、ホントに」
 もう一度繰り返す彼女の鼓動は、まるで仔猫のように早い。

「まったく……せっかく、人が我慢していると言うのに……」
 そう呟きながら、弥生の頬に手を添え、顔を上げさせる。

「一輝、くん……」
「目を、閉じてください」

 一輝の言葉に彼女は目を見開き、数回瞬きをし、そして、目蓋を下ろした。
 無防備な弥生の顔を少し見つめた後、彼はゆっくりと頭を下げる。
 小さく柔らかな彼女の唇に、一輝のそれが触れ――ようとした、その時。

 ドン、と軽い衝撃が二人を襲う。

「キャッ!?」
 小さな声をあげて弥生が自分の背後を見下ろし、一輝の視線もそれを追った。

 そこにあったのは――。

「葉月!?」
 可愛らしい弥生の弟が、彼女の腰に抱きついて、無邪気な顔で見上げていた。

「おねえちゃん、ぼく……やっぱり、おねえちゃんといっしょがいいなぁ」
 甘えた声をあげる弟に弥生が呆れたように微笑んで、その頭を撫でた。当然、もう、一輝の腕の中にはいない。彼女は弟に視線を合わせて、言い含めている。

「葉月ももう八歳なんだから、一人でお風呂に入れなきゃ。それに、今日はお家のお風呂じゃないんだからね」
「はぁい」

 イヤに素直な葉月だった。きっと、戻ってきたのは他の理由からなのだろう。案の定、弥生の頭の中は、すっかり『母親モード』に切り替わっているようだった。

「あ、じゃあね、一輝君」

 ニッコリ笑って葉月と去っていく弥生を見送って。

 一輝は小さくため息をついた。
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