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狼におあずけをくわせる方法
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少し時を遡った新藤商事本社ビル最上階執務室にて。
一輝は橘からの報告を受けていた。
「どうやら、弥生様がまた一智様に拉致されたようですよ?」
苦笑混じりでそう言った橘は、いかがいたしましょうかというように微かに首をかしげて一輝を見た。
それは、一智の忠実な使用人である水谷からの情報だった。わざわざ知らせて寄越したのは、彼女を迎えに来いということなのだろう。
「あの、タヌキじじい。今度はどんないらぬ世話を焼くつもりなんだ?」
そう言いつつも、一輝は椅子から立ち上がる。
少し早めだが、仕事を切り上げることは可能な時間だ。そのタイミングであることも、一智の計画の範囲内なのだろう。
祖父のイタズラに乗るのも業腹ではあるが、かといって、弥生を放っておくわけにもいかない。
「帰るぞ」
不機嫌さを隠さずむっつりとそう告げると、橘は小さく頭を下げた。
「車の用意はできています」
流石に、彼の仕事は速い。水谷からの連絡があった時点で、手配は済ませておいたのだろう。
屋敷に向かう車の中で、一輝はイライラと足を踏む。
以前、一智は弥生を泣かせた。今度同じことをしたら、祖父だとて許しはしない。
一輝は流れていく窓の外の景色を見つめながら、小さく息をついた。
――早く、この腕の中に弥生を囲い込んでしまいたい。
そう思わない日はない。
毎朝彼女の隣で目覚め、毎晩彼女の隣で眠りに就く。
一日の始まりに目にするのも一日の終わりに目にするのも彼女の笑顔であるなんて、どんなに幸せなことだろう。
毎日電話で声を聴くことはできるが、それでいっそう逢いたい気持ちが募ってしまうこともしょっちゅうだ。
本当に、一輝はまだ十六歳のわが身がもどかしくてならなかった。正式なプロポーズはまだしていないが、想いは通じ合っている筈だ。十八になったらその日のうちに籍を入れて、彼女を『自分のもの』にするつもりだった。そうしたら、少しは安心できるような気がする。
屋敷に着くと、一輝は出迎えの者にも応えることなく、一散に、一智が普段来客との面談に用いている和室へ向かった。勢いよく襖を開けると、驚いたような弥生と何やら楽しげな一智の視線が向けられる。
「一輝君」
笑顔を作って内心の憤りを隠しつつ観察したが、目を丸くして彼を見上げてくる弥生の頬に、涙はない。
そのことに少しホッとし、一輝は澄ました顔をしている祖父には氷よりも冷たい笑みを向ける。並べ立てたい文句は百ほど頭の中に浮かんだが、この男は、孫が――いや他の誰が何を言っても『暖簾に腕押し、ぬかに釘』なのだ。
「弥生さん、帰りましょう」
そう言って、彼女の手を取った。
和室を出る間際に、弥生が一智に頭を下げ、別れの挨拶をするのが聞こえた。前回、あれほど苛められたというのに。
――この人は、まったく……。
『根に持つ』『恨む』という言葉を知らない弥生に、一輝は半ば呆れ、半ば感心する。
一輝や一智の名前を出されて警戒心もなく見知らぬ人間の車に乗ってしまうところも、彼女らしいと言えば彼女らしいのだが。
もう少し『疑う』ということをしてくれないと、一輝の気が休まらない。
一言も発せず廊下を進み、橘が待つ車に辿り着く。
弥生を車に押し込め、一輝はようやく人心地がついた。
そこで初めて、彼女に問いかける余裕ができる。
首をかしげるようにして横を向くと、両手を膝の上に置き、肩を小さくして横目で彼を窺っている弥生の視線と行き合った。
目が合って、彼女がヒクンと肩をすくませる。
ジッと見つめていると、彼女の目が泳いだ。
どうやら、自分が不用心だったという自覚はあるらしい。
幼い子どもにするように叱りつけてやりたかったが、深々と息を吐くことでそれを抑えた。
「一輝君……?」
恐る恐る、という風情で彼の名前を口にした弥生に、つい、一輝は口元を緩めてしまった。
仕方がない。
弥生にはほんの少しでも変わって欲しくないと思っているのは、他の誰でもない、一輝なのだから。
「で、おじい様はどんな用件だったのですか?」
単刀直入に切り出すと、弥生は一瞬キョトンとし、次いでホンワリと微笑んだ。
「この間のことを謝ってくださっただけだよ?」
「それだけですか?」
一輝は疑わしげに眉をひそめた。
あの一智に限って、そんな筈はないだろう。もっと、何かを企んでいるに違いない。
一輝の念押しに、何故か弥生がモジモジと口ごもる。
「何か、言われたのですね?」
「え、あ……うん」
何故か、彼女の頬が赤い。
「何ですか? 何を言われたのですか?」
重ねて問いかけても、まだ弥生は迷い、やがて覚悟を決めたように顔を上げた。
「えっと、ね……おじい様が、一輝君にお休みをくれるって」
「?」
それが、そんなに照れる話題なのだろうか。だが、続いた弥生の台詞で、一智の意図が何となく読めてくる。
「それで、ね。一輝君、一緒に温泉とか……どうかなぁ? 一泊ぐらいで。ほら、いつもお仕事、頑張ってるでしょう? なんか、ゆっくりできることがないかなぁって……」
そして彼女はうつむき、赤かった頬を更に赤くすると再び顔を上げ、ジッと一輝を見つめてきた。
「わたし、一輝君と一緒に温泉行きたいなぁ。……『お願い』」
これは絶対に一智の罠だ。何かを企んでいるに違いない。それは判っている――判っているのに……。
「……わかりました。行きましょう」
一輝は――堕ちた。
「え、ホントに?」
提案した弥生の方が、ポカンと目と口を丸くしている。
「本当ですよ。休暇を取ります。……何故、そんな顔を?」
「や、だって、きいてくれると思わなかったから……お仕事、お休みするの大変なんでしょう?」
心配そうに、彼女がそう訊いてくる。
確かに色々スケジュールを調整したりなんだりするのは、ひと手間だ。
だが。
「滅多にしてくださらない弥生さんの『お願い』は、僕の中での最優先事項です」
――たとえそこに一智が絡んでいたとしても。
「……うれしい」
ふわりと微笑んだ弥生の顔が、嬉しそうに輝く。
――ああ、まったく……。
この狭い空間でその表情は反則だと思いながら、一輝は何とか穏やかな笑みを作った。
「まあ、確かに、休息も必要ですから。いつにしましょうか?」
「あ、わたしは来週から冬休みだから、もういつでもいいよ? 葉月《はづき》と睦月《むつき》も喜ぶだろうな。お父さんは……無理かなぁ。旅行嫌いだし」
「やっぱり」
「え?」
ポツリと呟いた一輝の声に、弥生が首をかしげる。
「いいえ、何でも。……楽しみですね」
「うん!」
心の底から嬉しそうなのは伝わってくるが、彼女はまだ『幼い』。
世間一般の恋人同士は、旅行に家族は連れていかないだろう。だが、これが『弥生』だった。
多分、彼女の弟たちを連れて行った方がむしろ良いのだろう――今は、まだ。
早く彼女の気持ちが追いついてくれればいいのに、と一輝は願う。
「一輝君?」
小さなため息と共に視線を落とした一輝を、弥生が覗き込んできた。
「何でもないですよ」
微笑を浮かべてそう答え。
一輝が弥生の頬に手を添えると、彼女は二、三度瞬きをした。そして、薄らと頬を染め、まつ毛を伏せる。
柔らかな丸みを手のひらで堪能しながら、そのまつ毛の先を親指の腹でそっと撫でた。
ほんのりと温もりを増した頬が、一輝の中にくすぶり続けている愛おしさを掻き立てる。
この、かけがえのない存在が手の届く場所にいる。
今はこれで充分なのだ。
「あなたの望みは、全て僕に叶えさせてください」
そう囁いて、一輝は彼女の柔らかな唇に触れるだけの口付けを落とした。
一輝は橘からの報告を受けていた。
「どうやら、弥生様がまた一智様に拉致されたようですよ?」
苦笑混じりでそう言った橘は、いかがいたしましょうかというように微かに首をかしげて一輝を見た。
それは、一智の忠実な使用人である水谷からの情報だった。わざわざ知らせて寄越したのは、彼女を迎えに来いということなのだろう。
「あの、タヌキじじい。今度はどんないらぬ世話を焼くつもりなんだ?」
そう言いつつも、一輝は椅子から立ち上がる。
少し早めだが、仕事を切り上げることは可能な時間だ。そのタイミングであることも、一智の計画の範囲内なのだろう。
祖父のイタズラに乗るのも業腹ではあるが、かといって、弥生を放っておくわけにもいかない。
「帰るぞ」
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「車の用意はできています」
流石に、彼の仕事は速い。水谷からの連絡があった時点で、手配は済ませておいたのだろう。
屋敷に向かう車の中で、一輝はイライラと足を踏む。
以前、一智は弥生を泣かせた。今度同じことをしたら、祖父だとて許しはしない。
一輝は流れていく窓の外の景色を見つめながら、小さく息をついた。
――早く、この腕の中に弥生を囲い込んでしまいたい。
そう思わない日はない。
毎朝彼女の隣で目覚め、毎晩彼女の隣で眠りに就く。
一日の始まりに目にするのも一日の終わりに目にするのも彼女の笑顔であるなんて、どんなに幸せなことだろう。
毎日電話で声を聴くことはできるが、それでいっそう逢いたい気持ちが募ってしまうこともしょっちゅうだ。
本当に、一輝はまだ十六歳のわが身がもどかしくてならなかった。正式なプロポーズはまだしていないが、想いは通じ合っている筈だ。十八になったらその日のうちに籍を入れて、彼女を『自分のもの』にするつもりだった。そうしたら、少しは安心できるような気がする。
屋敷に着くと、一輝は出迎えの者にも応えることなく、一散に、一智が普段来客との面談に用いている和室へ向かった。勢いよく襖を開けると、驚いたような弥生と何やら楽しげな一智の視線が向けられる。
「一輝君」
笑顔を作って内心の憤りを隠しつつ観察したが、目を丸くして彼を見上げてくる弥生の頬に、涙はない。
そのことに少しホッとし、一輝は澄ました顔をしている祖父には氷よりも冷たい笑みを向ける。並べ立てたい文句は百ほど頭の中に浮かんだが、この男は、孫が――いや他の誰が何を言っても『暖簾に腕押し、ぬかに釘』なのだ。
「弥生さん、帰りましょう」
そう言って、彼女の手を取った。
和室を出る間際に、弥生が一智に頭を下げ、別れの挨拶をするのが聞こえた。前回、あれほど苛められたというのに。
――この人は、まったく……。
『根に持つ』『恨む』という言葉を知らない弥生に、一輝は半ば呆れ、半ば感心する。
一輝や一智の名前を出されて警戒心もなく見知らぬ人間の車に乗ってしまうところも、彼女らしいと言えば彼女らしいのだが。
もう少し『疑う』ということをしてくれないと、一輝の気が休まらない。
一言も発せず廊下を進み、橘が待つ車に辿り着く。
弥生を車に押し込め、一輝はようやく人心地がついた。
そこで初めて、彼女に問いかける余裕ができる。
首をかしげるようにして横を向くと、両手を膝の上に置き、肩を小さくして横目で彼を窺っている弥生の視線と行き合った。
目が合って、彼女がヒクンと肩をすくませる。
ジッと見つめていると、彼女の目が泳いだ。
どうやら、自分が不用心だったという自覚はあるらしい。
幼い子どもにするように叱りつけてやりたかったが、深々と息を吐くことでそれを抑えた。
「一輝君……?」
恐る恐る、という風情で彼の名前を口にした弥生に、つい、一輝は口元を緩めてしまった。
仕方がない。
弥生にはほんの少しでも変わって欲しくないと思っているのは、他の誰でもない、一輝なのだから。
「で、おじい様はどんな用件だったのですか?」
単刀直入に切り出すと、弥生は一瞬キョトンとし、次いでホンワリと微笑んだ。
「この間のことを謝ってくださっただけだよ?」
「それだけですか?」
一輝は疑わしげに眉をひそめた。
あの一智に限って、そんな筈はないだろう。もっと、何かを企んでいるに違いない。
一輝の念押しに、何故か弥生がモジモジと口ごもる。
「何か、言われたのですね?」
「え、あ……うん」
何故か、彼女の頬が赤い。
「何ですか? 何を言われたのですか?」
重ねて問いかけても、まだ弥生は迷い、やがて覚悟を決めたように顔を上げた。
「えっと、ね……おじい様が、一輝君にお休みをくれるって」
「?」
それが、そんなに照れる話題なのだろうか。だが、続いた弥生の台詞で、一智の意図が何となく読めてくる。
「それで、ね。一輝君、一緒に温泉とか……どうかなぁ? 一泊ぐらいで。ほら、いつもお仕事、頑張ってるでしょう? なんか、ゆっくりできることがないかなぁって……」
そして彼女はうつむき、赤かった頬を更に赤くすると再び顔を上げ、ジッと一輝を見つめてきた。
「わたし、一輝君と一緒に温泉行きたいなぁ。……『お願い』」
これは絶対に一智の罠だ。何かを企んでいるに違いない。それは判っている――判っているのに……。
「……わかりました。行きましょう」
一輝は――堕ちた。
「え、ホントに?」
提案した弥生の方が、ポカンと目と口を丸くしている。
「本当ですよ。休暇を取ります。……何故、そんな顔を?」
「や、だって、きいてくれると思わなかったから……お仕事、お休みするの大変なんでしょう?」
心配そうに、彼女がそう訊いてくる。
確かに色々スケジュールを調整したりなんだりするのは、ひと手間だ。
だが。
「滅多にしてくださらない弥生さんの『お願い』は、僕の中での最優先事項です」
――たとえそこに一智が絡んでいたとしても。
「……うれしい」
ふわりと微笑んだ弥生の顔が、嬉しそうに輝く。
――ああ、まったく……。
この狭い空間でその表情は反則だと思いながら、一輝は何とか穏やかな笑みを作った。
「まあ、確かに、休息も必要ですから。いつにしましょうか?」
「あ、わたしは来週から冬休みだから、もういつでもいいよ? 葉月《はづき》と睦月《むつき》も喜ぶだろうな。お父さんは……無理かなぁ。旅行嫌いだし」
「やっぱり」
「え?」
ポツリと呟いた一輝の声に、弥生が首をかしげる。
「いいえ、何でも。……楽しみですね」
「うん!」
心の底から嬉しそうなのは伝わってくるが、彼女はまだ『幼い』。
世間一般の恋人同士は、旅行に家族は連れていかないだろう。だが、これが『弥生』だった。
多分、彼女の弟たちを連れて行った方がむしろ良いのだろう――今は、まだ。
早く彼女の気持ちが追いついてくれればいいのに、と一輝は願う。
「一輝君?」
小さなため息と共に視線を落とした一輝を、弥生が覗き込んできた。
「何でもないですよ」
微笑を浮かべてそう答え。
一輝が弥生の頬に手を添えると、彼女は二、三度瞬きをした。そして、薄らと頬を染め、まつ毛を伏せる。
柔らかな丸みを手のひらで堪能しながら、そのまつ毛の先を親指の腹でそっと撫でた。
ほんのりと温もりを増した頬が、一輝の中にくすぶり続けている愛おしさを掻き立てる。
この、かけがえのない存在が手の届く場所にいる。
今はこれで充分なのだ。
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