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眠り姫の起こし方
三
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黒塗りのいかにも高級そうな車の助手席には、橘勇が座っていた。彼は一輝の護衛兼秘書だけれども、それ以外にも細々とした身の回りの世話もする。
甲斐甲斐しく一輝の世話を焼く橘を見ていると、執事か家政婦かと呼んだ方がいいのではないかと弥生は思ったりする。いかにも生真面目そうな容貌で、銀縁眼鏡が良く似合う。
一輝に促されて弥生が後部座席に乗り込むと、彼は座席越しに長身をよじって頭を下げた。
「今日は、弥生様」
「こんにちは、橘さん」
いつも穏やかな微笑を浮かべているので、護衛としても有能な人物と言われても、ピンと来ない。
最近、一輝と二人きりになると何となく落ち着かない気分になる弥生は、橘の笑顔にホッとする。一輝は弟のようなもので、睦月と一緒にいるのと大差はない筈なのに、何となく緊張してしまうのだ。
初めて会った十二歳の時の面影は残っているものの、三年――もうじき四年の間が経って、一輝の面立ちはすっかり大人びていた。
さらりとした黒髪はやや長めでも、眦が上がり気味の切れ長の目のためか、女々しさはない。マスコミにはその年齢と業績、そして怜悧な容貌がよく取り上げられ、しばしばその形容には『有能』に『冷徹』という言葉がくっ付いてきた。
「弥生さん、単位の方はどうですか?」
そんな弥生の心中を知ってか知らずか、彼女に続いて隣に座った一輝は、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを向けてくる。その声は出逢った頃とはかけ離れた低音で、深い響きを持っていた。
――声まで違うのだもの。
もちろん、同じ年の睦月はとうに声変りを終えているのだから、一輝がそうなるのも当然だ。
それなのに、何となく、弥生は裏切られたような気持ちになってしまう。
笑顔だって、そうだ。
十五歳を契機に露出が増えた一輝は、よくテレビや週刊誌に登場するようになった。きりっとしている時もあるし、当然、笑顔の時もある。
そういう時の顔は、出逢った時の一輝とあまり変わらない。
笑っているのに、全然幸せそうじゃない、笑顔。
けれど、弥生の前で笑う時は、違う。
テレビ越しで笑いかけられても、ああ、頑張ってるなぁとか思うだけなのに、こうやって『弥生に向けて』笑いかけられると、彼女はなんだかやけにドギマギしてしまう。
「えっとね、去年結構がんばって取ったから、今年は割りと楽なの」
弥生はさりげなく窓の外に視線を流しながら答えた。
今、弥生に向けられている彼の眼差しは柔らかく、温かく、口元だけではなく蕩けそうな笑みを浮かべている。
それは、『総帥』の一輝とはかけ離れていて。
――どっちが、『ホンモノ』の一輝君なのだろう。
世間が見ている一輝と弥生が見ている一輝はあまりに違い過ぎて、そのギャップに戸惑ってしまう。
「早めに単位揃えちゃって、まとまった時間ができたらバイトしようかな、とか思って……」
「お家のこともなさいながらなのに、あんまり無理はしないでくださいね?」
話しかけながら一輝の手が自然な動きで上がり、絡まっている弥生の毛先を梳く。その指先はすぐには離れていかず、しばらく彼女の髪を弄んだ。
髪の毛には神経が走っていない筈なのに、弥生は思わずギュッと身体を縮めてしまう。
出会った頃の一輝は、いつも分厚い壁を通して向き合っているような印象がついて回っていたけれど、打ち解けてからは、むしろ触りたがりになった。
たいていは、こういう、髪の毛とか、他愛のない場所だ。
なのに、そうやって触れられていると、弥生は背中の辺りが妙にそわそわしてくる。
きっと、元々寂しがり屋なのよ。これまで我慢していた反動なんだ、と自分自身に言い聞かせ、彼女は身を引きそうになるのをぐっと堪えるのだ。
「今日はどこに行くの?」
しばらくはジッとしていたが、さすがに耐えられなくなって、スス、と若干身を引きつつ、弥生が尋ねる。
零れていく髪を名残惜しそうに目で追いながら、一輝はニッコリと微笑んだ。
「パスタが美味しいお店のことを聞いたので、そちらへ。味を覚えたら、ご自宅でも作れるでしょう?」
「あ、うん。睦月たちにも食べさせてあげないと」
目を輝かせる弥生を、一輝も嬉しそうに見つめる。
あんまり真っ直ぐ眼差しを注いでくるから、弥生も目を反らし損ねてしまう。
うっかり目が合ってしまうと、いつもそうだ。
そんなに見ないで欲しいと思うのだけれども、そう言うと、必ず一輝は、弥生の中を見通すような目をして「何故?」と訊いてくるのだ。弥生自身にも理由なんて解らないので口ごもってしまうと、彼は凄くイジワルな顔をする。
――昔はあんなに可愛かったのに……。
つくづくそう思い、弥生は小さな溜息をつく。口に出すと何かに負けたような気がするので、呟きは心の中だけにしておいた。
弥生の小さな葛藤をよそに、車は目的地に到着する。
「ここですよ」
一輝の声に釣られて外を見ると『高級イタリア料理店』というわけではなく、こじんまりとした可愛らしい店だった。
「わあ、可愛い」
弥生は思わず歓声を上げて笑顔になる。
多分、一輝が普段行くような場所は、こういうところではないのだろう。正直なところ、豪勢な店に連れて来られても弥生はいたたまれなくなってしまう。
以前に一度、弥生でも名前を聞いたことがあるような高級レストランに連れて行ってもらったことがあったけれど、緊張するばかりで味など全然判らなかった。
それ以来、一輝が選ぶのはもっと小さく、こんなふうに砕けた雰囲気の場所ばかりだ。
「こういうところ、お好きでしょう?」
「好きよ、ありがとう」
心の底からの弥生の笑顔に、一輝も満足そうに頷いた。
「では、行きましょうか」
一輝の声が合図であったかのように、外から扉が開かれる。橘だった。
「弥生様、どうぞ」
こういう、お姫様に対するような下にも置かない扱いは、弥生を戸惑わせる。
思い返せば、橘も一輝も、昔から同じような態度だ。別に何が変わったわけでもない。けれども、最近は、一輝にこんなふうに扱われると、何故か無性に逃げ出したくなる。
――きっと、わたしの方が変なんだ……。
今もさり気なく自分の背中に置かれた一輝の手を意識しながら、弥生はそう結論付けた。
甲斐甲斐しく一輝の世話を焼く橘を見ていると、執事か家政婦かと呼んだ方がいいのではないかと弥生は思ったりする。いかにも生真面目そうな容貌で、銀縁眼鏡が良く似合う。
一輝に促されて弥生が後部座席に乗り込むと、彼は座席越しに長身をよじって頭を下げた。
「今日は、弥生様」
「こんにちは、橘さん」
いつも穏やかな微笑を浮かべているので、護衛としても有能な人物と言われても、ピンと来ない。
最近、一輝と二人きりになると何となく落ち着かない気分になる弥生は、橘の笑顔にホッとする。一輝は弟のようなもので、睦月と一緒にいるのと大差はない筈なのに、何となく緊張してしまうのだ。
初めて会った十二歳の時の面影は残っているものの、三年――もうじき四年の間が経って、一輝の面立ちはすっかり大人びていた。
さらりとした黒髪はやや長めでも、眦が上がり気味の切れ長の目のためか、女々しさはない。マスコミにはその年齢と業績、そして怜悧な容貌がよく取り上げられ、しばしばその形容には『有能』に『冷徹』という言葉がくっ付いてきた。
「弥生さん、単位の方はどうですか?」
そんな弥生の心中を知ってか知らずか、彼女に続いて隣に座った一輝は、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを向けてくる。その声は出逢った頃とはかけ離れた低音で、深い響きを持っていた。
――声まで違うのだもの。
もちろん、同じ年の睦月はとうに声変りを終えているのだから、一輝がそうなるのも当然だ。
それなのに、何となく、弥生は裏切られたような気持ちになってしまう。
笑顔だって、そうだ。
十五歳を契機に露出が増えた一輝は、よくテレビや週刊誌に登場するようになった。きりっとしている時もあるし、当然、笑顔の時もある。
そういう時の顔は、出逢った時の一輝とあまり変わらない。
笑っているのに、全然幸せそうじゃない、笑顔。
けれど、弥生の前で笑う時は、違う。
テレビ越しで笑いかけられても、ああ、頑張ってるなぁとか思うだけなのに、こうやって『弥生に向けて』笑いかけられると、彼女はなんだかやけにドギマギしてしまう。
「えっとね、去年結構がんばって取ったから、今年は割りと楽なの」
弥生はさりげなく窓の外に視線を流しながら答えた。
今、弥生に向けられている彼の眼差しは柔らかく、温かく、口元だけではなく蕩けそうな笑みを浮かべている。
それは、『総帥』の一輝とはかけ離れていて。
――どっちが、『ホンモノ』の一輝君なのだろう。
世間が見ている一輝と弥生が見ている一輝はあまりに違い過ぎて、そのギャップに戸惑ってしまう。
「早めに単位揃えちゃって、まとまった時間ができたらバイトしようかな、とか思って……」
「お家のこともなさいながらなのに、あんまり無理はしないでくださいね?」
話しかけながら一輝の手が自然な動きで上がり、絡まっている弥生の毛先を梳く。その指先はすぐには離れていかず、しばらく彼女の髪を弄んだ。
髪の毛には神経が走っていない筈なのに、弥生は思わずギュッと身体を縮めてしまう。
出会った頃の一輝は、いつも分厚い壁を通して向き合っているような印象がついて回っていたけれど、打ち解けてからは、むしろ触りたがりになった。
たいていは、こういう、髪の毛とか、他愛のない場所だ。
なのに、そうやって触れられていると、弥生は背中の辺りが妙にそわそわしてくる。
きっと、元々寂しがり屋なのよ。これまで我慢していた反動なんだ、と自分自身に言い聞かせ、彼女は身を引きそうになるのをぐっと堪えるのだ。
「今日はどこに行くの?」
しばらくはジッとしていたが、さすがに耐えられなくなって、スス、と若干身を引きつつ、弥生が尋ねる。
零れていく髪を名残惜しそうに目で追いながら、一輝はニッコリと微笑んだ。
「パスタが美味しいお店のことを聞いたので、そちらへ。味を覚えたら、ご自宅でも作れるでしょう?」
「あ、うん。睦月たちにも食べさせてあげないと」
目を輝かせる弥生を、一輝も嬉しそうに見つめる。
あんまり真っ直ぐ眼差しを注いでくるから、弥生も目を反らし損ねてしまう。
うっかり目が合ってしまうと、いつもそうだ。
そんなに見ないで欲しいと思うのだけれども、そう言うと、必ず一輝は、弥生の中を見通すような目をして「何故?」と訊いてくるのだ。弥生自身にも理由なんて解らないので口ごもってしまうと、彼は凄くイジワルな顔をする。
――昔はあんなに可愛かったのに……。
つくづくそう思い、弥生は小さな溜息をつく。口に出すと何かに負けたような気がするので、呟きは心の中だけにしておいた。
弥生の小さな葛藤をよそに、車は目的地に到着する。
「ここですよ」
一輝の声に釣られて外を見ると『高級イタリア料理店』というわけではなく、こじんまりとした可愛らしい店だった。
「わあ、可愛い」
弥生は思わず歓声を上げて笑顔になる。
多分、一輝が普段行くような場所は、こういうところではないのだろう。正直なところ、豪勢な店に連れて来られても弥生はいたたまれなくなってしまう。
以前に一度、弥生でも名前を聞いたことがあるような高級レストランに連れて行ってもらったことがあったけれど、緊張するばかりで味など全然判らなかった。
それ以来、一輝が選ぶのはもっと小さく、こんなふうに砕けた雰囲気の場所ばかりだ。
「こういうところ、お好きでしょう?」
「好きよ、ありがとう」
心の底からの弥生の笑顔に、一輝も満足そうに頷いた。
「では、行きましょうか」
一輝の声が合図であったかのように、外から扉が開かれる。橘だった。
「弥生様、どうぞ」
こういう、お姫様に対するような下にも置かない扱いは、弥生を戸惑わせる。
思い返せば、橘も一輝も、昔から同じような態度だ。別に何が変わったわけでもない。けれども、最近は、一輝にこんなふうに扱われると、何故か無性に逃げ出したくなる。
――きっと、わたしの方が変なんだ……。
今もさり気なく自分の背中に置かれた一輝の手を意識しながら、弥生はそう結論付けた。
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