大事なあなた

トウリン

文字の大きさ
上 下
16 / 73
迷子の仔犬の育て方

エピローグ

しおりを挟む
「それでは、皆さんお世話になりました」

 一輝かずきは、大石金型製作所の従業員も含んだ一同の前で頭を下げる。

 達郎たつろうが家に戻ってから二日過ぎた夜、夕食を終えた席で、一輝はおよそ二ヶ月間の滞在について礼を述べた。

『休暇』を終え、彼が本来のいるべき場所に戻る日が来たのだ。

 弥生やよいはせめて二学期が終わるまではいたらどうかと勧めてきたが、一輝は断った。
 本気で引き止めにかかっている弥生に彼の後ろ髪は引きちぎられそうに引かれたが、やるべきこと、やりたいことが見えたからには居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。

 唐突な別れに、小学校を去る時には、涙に暮れる女子たちが教室の外にも列を作っていたとかいないとか。

 名残惜しげに、一輝の両手を弥生がギュッと握る。
「残念だけど、仕方がないよね。でも、また、いつでも遊びに来てね」
「ええ、是非。さし当たって、クリスマスあたりに伺ってもいいでしょうか」

 つまり、一週間後だ。

「いいよ。ケーキ焼いて待ってるから」
 嬉しそうに笑う弥生の後方でしょっぱい顔をしている達郎が視界の隅に入ったが、一輝は敢えて気付いていないことにした。

「楽しみです」
 社交辞令ではない、心の底からの言葉だ。
 それが伝わったのか、弥生の笑顔が大きくなる。

 この数ヶ月で一輝の背は伸び、やや弥生のことを見下ろす目線になっている。

 ――この人は、僕が一生をかけて護り、慈しみ、求めていくべき人だ。

 彼女の笑顔を目にするたびに込み上げてくる想いを、もう否定する気はない。

 晴れやかな思いで一輝が微笑むと、何故か弥生が目を丸くした。その隙をついて、彼は彼女のふっくらと丸みを帯びた頬に顔を寄せる。

「ああ……! もがっ」
 弥生の背後で何やら声が上がったが、それ以上の抗議は阻止されたようだ。

 一輝の唇に、温もりを感じる。
 ふわりと柔らかな彼女の頬はマシュマロのようで、多分、舌で触れれば本当に甘さを伝えてくるのだろう。

 実際にそうしてみたい衝動に駆られたけれど、彼は何とか自制心を振り絞って己を押しとどめた。
 一輝が身体を離すと、大きく見開かれた弥生の目がパチリと瞬きされ、次いで見る見るうちにその頬が真っ赤になっていく。

「……え?」
 今彼がしでかしたことに弥生は絶句し、固まっている。

 一輝は指先で真っ赤に染まった彼女の頬の熱を確かめた。

 熱い。

 くすりと笑って、彼は手を下ろす。

「じゃあ、また」
「え……え、っと……?」
 弥生は、まだ、事態をよく呑み込めていないらしい。

 酸欠の金魚のようにはくはくと口を開け閉めするその様があまりに可愛らしく、思わずクスクスと笑みを漏らしながら一輝はベンツに乗り込んだ。

 静かに走り出した車の中で、一輝がたちばなに問う。
「弥生さんのあの反応は、どう思う? いけそうだろう?」

 いまだかつて見たことのない主人の楽しそうな様子に、橘は喜びと驚きが入り混じった――明らかに驚きの方が勝った眼差しで、頷く。

「ええ、まあ、少なくとも、『弟』にキスされてもあんな反応はしませんよね……」
 そう言えば、と、祖父の一智かずともも、一輝の祖母と出会うまではかなりその筋でブイブイいわせた人だったと風の噂に聞いたことを、橘は思い出していた。そして、たった一人を見つけてからは、一切脇目は振らずにその人のみにまっしぐらであったとも。

 ――隔世遺伝だったのか……。

 生真面目な顔を保ちつつ、内心で深々と頷いている橘には気付かず、一輝は別れ際の弥生を思い出してまた小さな笑いを漏らす。

「これは、ひとたまりもないですね……」
 主人の有能さを十二分に知っている橘の呟きは、小さすぎて一輝の耳には届ききらなかった。

「何か言ったか?」
「いえ、別に。まあ、一輝様が弥生様を幸せになされば、万事問題なしですよね」
「もちろん、するさ」

 そこには迷いも不安もなくて。

 ――一智様、策が当たり過ぎですよ。

 見事なまでに吹っ切れた主人を横目に橘が胸の内でそう囁いたことを、一輝は知らない。

 彼には、拓けた未来の先にある明確なゴールしか、見えていなかったから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

子持ちの私は、夫に駆け落ちされました

月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

【完結80万pt感謝】不貞をしても婚約破棄されたくない美男子たちはどうするべきなのか?

宇水涼麻
恋愛
高位貴族令息である三人の美男子たちは学園内で一人の男爵令嬢に侍っている。 そんな彼らが卒業式の前日に家に戻ると父親から衝撃的な話をされた。 婚約者から婚約を破棄され、第一後継者から降ろされるというのだ。 彼らは慌てて学園へ戻り、学生寮の食堂内で各々の婚約者を探す。 婚約者を前に彼らはどうするのだろうか? 短編になる予定です。 たくさんのご感想をいただきましてありがとうございます! 【ネタバレ】マークをつけ忘れているものがあります。 ご感想をお読みになる時にはお気をつけください。すみません。

【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。

112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。 愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。 実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。 アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。 「私に娼館を紹介してください」 娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

廃妃の再婚

束原ミヤコ
恋愛
伯爵家の令嬢としてうまれたフィアナは、母を亡くしてからというもの 父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。 ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。 それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。 身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。 あの時助けた青年は、国王になっていたのである。 「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは 結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。 帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。 カトルはイルサナを寵愛しはじめる。 王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。 ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。 引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。 ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。 だがユリシアスは何かを隠しているようだ。 それはカトルの抱える、真実だった──。

処理中です...