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迷子の仔犬の育て方
十
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放課後になり、帰宅途中の車の中で、一輝は深々とため息をついた。
睦月はクラブ活動なので、まだ学校にいる。本当なら、歩きで下校と行きたいところだが、仮にも一輝は新藤商事の御曹司だ。登校時も橘がこっそり柱の陰から見守っていたのだが、セキュリティの点を考えると、車の方が手間が省ける。
主のため息を聞き付け、橘が首をかしげて振り返った。
「どうなさいました、一輝様?」
「疲れた。どんな面倒な取引相手よりも、疲れる。何であんなに女子が群がってくるんだ?」
こめかみを揉みながらボヤく一輝に、橘が苦笑を返す。
「それは、仕方がないですよ」
両親ともに整った顔立ちをしていた一輝の容姿は当然のように端整で、身に付いた優雅な仕草は、同級生の子どもっぽい男子に飽き飽きしている小学生女児からしたら王子様のように見えるだろう。
しかし、一輝自身は自分の容姿について特別なものを感じたことが無かった。
確かに、パーティーなどでも女性達に褒められる。だが、それは単なる社交辞令に過ぎないと、彼は認識していた。
「まあ、変な時期に入ってきた転校生が珍しいんでしょう。直に皆さん落ち着きますよ」
「男子は寄り付きもしなかった。その違いは何なんだ?」
「思春期ですから」
橘のその一言は、答えになっているようでなっていないような気がする。
「まったく、訳が解からん」
もう一度ため息をついた一輝に、橘がまた笑った。
「さあ、着きましたよ。今日のご飯は何でしょうね」
ほくほくした様子で橘がそう言うのが聞こえて、一輝は眉をひそめた。
「お前、また食べていくつもりか?」
さすがに大石家にそれほど多くの部屋が余っているわけではないので、橘は隣に建っているアパートを短期で借りている。彼は一輝の護衛も兼ねているので、常に傍から離れることはない。一輝が授業を受けている間も、車で近くに待機しているのだ。
「だって、弥生様の作るお食事は、それはもう……」
「わかった、好きにしろ」
そんな埒もない会話を交わしながら、二人は居宅へと入っていく。
「……ただいま」
その言葉もまだ使い慣れておらず、自然と声が尻すぼみになってしまう。
返事はなく、誰もいないのだろうかと、一輝は幾つかの部屋を覗いて回った――と、縁側にチラリと何かが見える。
「?」
近寄ってみると、それは弥生だった。
洗濯ものが積まれた縁側の陽だまりで、丸くなって眠り込んでいる。
「一輝さ……?」
橘を振り返って、一輝は立てた人差し指を唇に当てた。
「……お休みですねぇ」
一目瞭然なことを橘が思わず言葉にしてしまう程、すやすやと、それはそれは気持ち良さそうに眠っている。
「何かかける物を探してきますね」
「ああ、頼む」
足音を忍ばせて去って行く橘を見送って、一輝は弥生の傍に膝を突いた。
ふっくらとした頬に影を落とす、長い睫毛。微かに開かれた柔らかそうな桃色の唇に、目が吸い寄せられる。
彼女は、何から何まで、ふんわりとしていた。一輝は綿菓子というものを食べたことが無いけれど、きっと、今の彼女はそれに似ているに違いない。
無防備な寝顔は、元々年齢よりも低く見える彼女を、更に幼く見せている。
こんなふうに女性の寝姿を見つめることは失礼なことだと解かっているけれど、目が離せない。
それどころか。
――触れてみたい。
触れて柔らかさと温かさを、口づけて甘さを、確かめてみたい。
不意に、そんな衝動に駆られた。知らず知らずのうちに、指先が勝手に近づいていく。
微かな吐息を感じられるほどになった時――
「ありましたよ」
突然の橘の声に、一輝はまさに跳び上がりそうになる。心臓は早鐘のように打ち、胸郭を突き破りそうだ。
「あれ、坊ちゃま? 顔が真っ赤ですよ? 熱でもあるんでしょうか」
「何でもない! 大丈夫だ!」
そう言って伸ばしてきた橘の手を振り払い、後も見ずに睦月と共同で使っている自室へと向かう。
自分は、いったい、何をしようとしたのか。
眠っている女性に勝手に触れようなんて、自分が信じられなかった。
「僕は、どうなっているんだ……?」
自分が何をしたいのかが解らない。
解らない――本当に?
そんな声が一輝の胸のうちで意地悪く囁きかけてくる。それを、二、三度頭を強く振って、払い飛ばした。
弥生の傍にいると、完璧に制御できていた自分が崩されていく。
一輝にとって、それは、たとえようもないほど恐ろしく感じられた。
*
初登校のその夜、一輝は熱を出した。
夕食後、急にばったりと倒れたのだ。
看病し易いように、睦月と一緒の部屋ではなく、卓袱台を片付けた居間に寝かせられている。
心配そうに濡れタオルを取り替える弥生の隣に、橘が腰を下ろした。
「大丈夫ですよ。坊ちゃまは、小さい頃から、時々こうやって高い熱をお出しになるのです」
「何か病気なの?」
「ああ、いえ、知恵熱のようなものなのでしょう。解熱剤もほとんど効かず、一、二日高熱を出して、自然と下がるんです」
「ふうん……初めての学校で疲れたのかなぁ」
「……そうかもしれませんね。弥生様、後は私が看ますので……」
看病を引き継ごうとした橘に、弥生はきっぱりと首を振る。
「いいえ。一輝君はうちで預かったんですから、わたしが世話をします。橘さんはお休みになってください」
一歩も引こうとしない弥生をしばらく見つめていたが、やがて諦めたように橘は溜息をついた。その様子は、どこか、嬉しそうでもある。
「解りました。では、お願いします。いつも、とにかく冷やして差し上げるしか、手はありませんので」
もう一度「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げ、橘は出て行く。
残された弥生はタオルに触れ、温かくなっているのを確認すると、再びそれを氷水に通した。首筋を拭って、扇いでやる。高熱にも関わらず、汗を殆どかいていない。
弥生は正座を崩して一輝を見つめた。
苦しそうな寝顔は、まだまだ幼い少年のものだ。大変なものを背負っているが、まだ十二歳の子どもなのだ。
背負わされるだけ背負わされて、彼自身はいったい何を得られたのだろう。
弥生は、出逢ってからの一輝が見せた顔を、思い出す。
好きなものを当ててみせるだけで驚いて。
睦月の他愛のない言葉に揺さぶられて。
家族の団欒に居合わせるだけで泣きそうになって。
とても、『普通』で『些細』なことばかりなのに。
「ねえ、つらい時にはつらいって言って? 欲しいものは欲しいって言って? 言葉にしてくれないと、わからないんだよ? 教えてくれたら、わたしも力になれるんだから」
子どもらしい柔らかさの残る手を握り、一輝の耳元で囁く。その表情がほんの少し和らいだように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
まだ、こんなに小さいのに。
もう少し、彼自身の人生を歩いて欲しいと、弥生は切実に思った。
*
――つらい時にはつらいって言って? 欲しいものは欲しいって言って? 言葉にしてくれないと、わからないんだよ?
夢の中で、そんな優しい声を聞いたような気がする。夢にしては妙にリアルな、声。
寝起きの頭はぼんやりとしていたが、右手が何か温かいものに包まれていることに、一輝は遅ればせながら気が付いた。
――何だろう?
右手の方へ顔を向けると、目の前にあるものに全身が固まった。真っ暗だが、この近さなら見間違えようがない。
ほとんど額が触れ合いそうな距離にあるのは――
――やよい、さん……? 何故、こんなところに……?
昨晩の記憶で最後に残っているものは、食事を終え、食器を片付けようと立ち上がったところだ。その後からがすっぽりと抜けている。
穏やかな弥生の寝顔から無理やり視線を剥して首を巡らせると、薄闇の中、水とタオルの入った洗面器が視界に入った。そこでようやく、自分がまた熱を出したことに思い至る。気分はすっきりしているので、すでに解熱はしているのだろう。
弥生の手には力が入っておらず、握り締めていたのは一輝の方だったようだ。そっと手を放し、自由になったところで彼女の身体に毛布を掛けた。
そうして、その寝顔を、しばらく見つめる。
――欲しいものは欲しいって言って?
脳裏によみがえる、その囁き。
多分、それは本当に聞かされたものなのだ。
「欲しいもの――か」
だが、生まれながらにして多くのものを手にしている自分が、更に何かを望んでもいいものなのだろうか。
一輝は弥生の柔らかな髪を一房拾う。
もしも――もしも、望むことが赦されるのであれば、この温もりが欲しかった。
彼女が傍にいてくれるなら、どんなことでもできるような気がする。
彼女が傍にいてくれさえすれば、自分の中の空っぽの何かが、満たされるような気がした。
睦月はクラブ活動なので、まだ学校にいる。本当なら、歩きで下校と行きたいところだが、仮にも一輝は新藤商事の御曹司だ。登校時も橘がこっそり柱の陰から見守っていたのだが、セキュリティの点を考えると、車の方が手間が省ける。
主のため息を聞き付け、橘が首をかしげて振り返った。
「どうなさいました、一輝様?」
「疲れた。どんな面倒な取引相手よりも、疲れる。何であんなに女子が群がってくるんだ?」
こめかみを揉みながらボヤく一輝に、橘が苦笑を返す。
「それは、仕方がないですよ」
両親ともに整った顔立ちをしていた一輝の容姿は当然のように端整で、身に付いた優雅な仕草は、同級生の子どもっぽい男子に飽き飽きしている小学生女児からしたら王子様のように見えるだろう。
しかし、一輝自身は自分の容姿について特別なものを感じたことが無かった。
確かに、パーティーなどでも女性達に褒められる。だが、それは単なる社交辞令に過ぎないと、彼は認識していた。
「まあ、変な時期に入ってきた転校生が珍しいんでしょう。直に皆さん落ち着きますよ」
「男子は寄り付きもしなかった。その違いは何なんだ?」
「思春期ですから」
橘のその一言は、答えになっているようでなっていないような気がする。
「まったく、訳が解からん」
もう一度ため息をついた一輝に、橘がまた笑った。
「さあ、着きましたよ。今日のご飯は何でしょうね」
ほくほくした様子で橘がそう言うのが聞こえて、一輝は眉をひそめた。
「お前、また食べていくつもりか?」
さすがに大石家にそれほど多くの部屋が余っているわけではないので、橘は隣に建っているアパートを短期で借りている。彼は一輝の護衛も兼ねているので、常に傍から離れることはない。一輝が授業を受けている間も、車で近くに待機しているのだ。
「だって、弥生様の作るお食事は、それはもう……」
「わかった、好きにしろ」
そんな埒もない会話を交わしながら、二人は居宅へと入っていく。
「……ただいま」
その言葉もまだ使い慣れておらず、自然と声が尻すぼみになってしまう。
返事はなく、誰もいないのだろうかと、一輝は幾つかの部屋を覗いて回った――と、縁側にチラリと何かが見える。
「?」
近寄ってみると、それは弥生だった。
洗濯ものが積まれた縁側の陽だまりで、丸くなって眠り込んでいる。
「一輝さ……?」
橘を振り返って、一輝は立てた人差し指を唇に当てた。
「……お休みですねぇ」
一目瞭然なことを橘が思わず言葉にしてしまう程、すやすやと、それはそれは気持ち良さそうに眠っている。
「何かかける物を探してきますね」
「ああ、頼む」
足音を忍ばせて去って行く橘を見送って、一輝は弥生の傍に膝を突いた。
ふっくらとした頬に影を落とす、長い睫毛。微かに開かれた柔らかそうな桃色の唇に、目が吸い寄せられる。
彼女は、何から何まで、ふんわりとしていた。一輝は綿菓子というものを食べたことが無いけれど、きっと、今の彼女はそれに似ているに違いない。
無防備な寝顔は、元々年齢よりも低く見える彼女を、更に幼く見せている。
こんなふうに女性の寝姿を見つめることは失礼なことだと解かっているけれど、目が離せない。
それどころか。
――触れてみたい。
触れて柔らかさと温かさを、口づけて甘さを、確かめてみたい。
不意に、そんな衝動に駆られた。知らず知らずのうちに、指先が勝手に近づいていく。
微かな吐息を感じられるほどになった時――
「ありましたよ」
突然の橘の声に、一輝はまさに跳び上がりそうになる。心臓は早鐘のように打ち、胸郭を突き破りそうだ。
「あれ、坊ちゃま? 顔が真っ赤ですよ? 熱でもあるんでしょうか」
「何でもない! 大丈夫だ!」
そう言って伸ばしてきた橘の手を振り払い、後も見ずに睦月と共同で使っている自室へと向かう。
自分は、いったい、何をしようとしたのか。
眠っている女性に勝手に触れようなんて、自分が信じられなかった。
「僕は、どうなっているんだ……?」
自分が何をしたいのかが解らない。
解らない――本当に?
そんな声が一輝の胸のうちで意地悪く囁きかけてくる。それを、二、三度頭を強く振って、払い飛ばした。
弥生の傍にいると、完璧に制御できていた自分が崩されていく。
一輝にとって、それは、たとえようもないほど恐ろしく感じられた。
*
初登校のその夜、一輝は熱を出した。
夕食後、急にばったりと倒れたのだ。
看病し易いように、睦月と一緒の部屋ではなく、卓袱台を片付けた居間に寝かせられている。
心配そうに濡れタオルを取り替える弥生の隣に、橘が腰を下ろした。
「大丈夫ですよ。坊ちゃまは、小さい頃から、時々こうやって高い熱をお出しになるのです」
「何か病気なの?」
「ああ、いえ、知恵熱のようなものなのでしょう。解熱剤もほとんど効かず、一、二日高熱を出して、自然と下がるんです」
「ふうん……初めての学校で疲れたのかなぁ」
「……そうかもしれませんね。弥生様、後は私が看ますので……」
看病を引き継ごうとした橘に、弥生はきっぱりと首を振る。
「いいえ。一輝君はうちで預かったんですから、わたしが世話をします。橘さんはお休みになってください」
一歩も引こうとしない弥生をしばらく見つめていたが、やがて諦めたように橘は溜息をついた。その様子は、どこか、嬉しそうでもある。
「解りました。では、お願いします。いつも、とにかく冷やして差し上げるしか、手はありませんので」
もう一度「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げ、橘は出て行く。
残された弥生はタオルに触れ、温かくなっているのを確認すると、再びそれを氷水に通した。首筋を拭って、扇いでやる。高熱にも関わらず、汗を殆どかいていない。
弥生は正座を崩して一輝を見つめた。
苦しそうな寝顔は、まだまだ幼い少年のものだ。大変なものを背負っているが、まだ十二歳の子どもなのだ。
背負わされるだけ背負わされて、彼自身はいったい何を得られたのだろう。
弥生は、出逢ってからの一輝が見せた顔を、思い出す。
好きなものを当ててみせるだけで驚いて。
睦月の他愛のない言葉に揺さぶられて。
家族の団欒に居合わせるだけで泣きそうになって。
とても、『普通』で『些細』なことばかりなのに。
「ねえ、つらい時にはつらいって言って? 欲しいものは欲しいって言って? 言葉にしてくれないと、わからないんだよ? 教えてくれたら、わたしも力になれるんだから」
子どもらしい柔らかさの残る手を握り、一輝の耳元で囁く。その表情がほんの少し和らいだように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
まだ、こんなに小さいのに。
もう少し、彼自身の人生を歩いて欲しいと、弥生は切実に思った。
*
――つらい時にはつらいって言って? 欲しいものは欲しいって言って? 言葉にしてくれないと、わからないんだよ?
夢の中で、そんな優しい声を聞いたような気がする。夢にしては妙にリアルな、声。
寝起きの頭はぼんやりとしていたが、右手が何か温かいものに包まれていることに、一輝は遅ればせながら気が付いた。
――何だろう?
右手の方へ顔を向けると、目の前にあるものに全身が固まった。真っ暗だが、この近さなら見間違えようがない。
ほとんど額が触れ合いそうな距離にあるのは――
――やよい、さん……? 何故、こんなところに……?
昨晩の記憶で最後に残っているものは、食事を終え、食器を片付けようと立ち上がったところだ。その後からがすっぽりと抜けている。
穏やかな弥生の寝顔から無理やり視線を剥して首を巡らせると、薄闇の中、水とタオルの入った洗面器が視界に入った。そこでようやく、自分がまた熱を出したことに思い至る。気分はすっきりしているので、すでに解熱はしているのだろう。
弥生の手には力が入っておらず、握り締めていたのは一輝の方だったようだ。そっと手を放し、自由になったところで彼女の身体に毛布を掛けた。
そうして、その寝顔を、しばらく見つめる。
――欲しいものは欲しいって言って?
脳裏によみがえる、その囁き。
多分、それは本当に聞かされたものなのだ。
「欲しいもの――か」
だが、生まれながらにして多くのものを手にしている自分が、更に何かを望んでもいいものなのだろうか。
一輝は弥生の柔らかな髪を一房拾う。
もしも――もしも、望むことが赦されるのであれば、この温もりが欲しかった。
彼女が傍にいてくれるなら、どんなことでもできるような気がする。
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