悩める子爵と無垢な花

トウリン

文字の大きさ
上 下
47 / 59

彼女の変化と生まれた炎

しおりを挟む
 フィオナの為のリンゴ水を手にしたルーカスは、彼女の元へ戻るべく人波を掻き分けるようにして足を速める。エミールは目と鼻の先にあるようなことを言っていたが、人の多さもあって、思ったよりも時間がかかってしまった。
 確かに、フィオナに飲み物を与えずに過ごしていたことはルーカスの手落ちだ。傍を離れられなかったという理由があったにしろ、彼女を快適にしておくことは彼の為すべきことのうちの一つではある。

 しかし――

(フィオナから引き離すための方便じゃないだろうな)
 ついつい、エミールの行動についてそんなふうに勘ぐってしまう。
 彼女には重々言い置いてきたから、エミールがここから連れ出そうとしても抗うはず。この人混みで騒ぎを起こせば、すぐに気付くだろう。
 そう思ったからフィオナをエミールと二人きりにしてきたが、やはり気が気ではない。
 加えて、この場はアランブールの領域とくる。
 エミールもアランブールも、薄いとはいえどちらもフィオナを狙う者としてルーカスが疑いを抱いている相手だった。本当なら、瞬きをする間ですら、目を離したくはないというのに。

 今日も、クライブはこの会場に潜り込んでくれている。だからフィオナの身の安全は担保されているはずだが、理性と感情は別というものだ。そもそも、たとえフィオナが安全な場所にいてルーカスの前で微笑んでくれていたとしても、彼の中から彼女のことを案じる気持ちが完全に消え去ることはないのだろう。

 ルーカスの中には、常に、フィオナの安全や幸福を願う気持ちがある。彼女が幸せそうにしていたとしても、更に大きな幸せを与えるにはどうしたら良いのかに、思いを巡らせてしまう。
 フィオナを想うルーカスの気持ちは膨らむ一方で、際限がないのだ。
 じゃあ、自分よりもフィオナを幸せにしてくれるかもしれない者が現れたら素直に引き渡せるのかと問われれば――それは、ない。
 通りすがりに艶やかに誘いをかけてくる女性を笑顔でいなしながら、ルーカスは急ぐ。

 色眼鏡をかけずに見れば、エミール・ラクロワという男はできた人物だと思う。さして接触を持ったわけではないが、フィオナに馴れ馴れしくし過ぎであることを除けば、不快な人間ではない。
 ルーカスの頭の中に、もしかしてフィオナの変化は彼のせいでもあるのだろうかという疑念が、ほんの一瞬、閃いた。
 先ほどエミールが現れた時のフィオナの反応を、ルーカスは思い返す。
 フィオナはすっかりエミール・ラクロワに打ち解けているようだ。実際、彼を見た時の彼女の顔の輝きは、単なる知り合いに出会ったというには、少しばかり、強過ぎはしなかったか。

 ここ数日、フィオナの中で何かが変わったと、ルーカスは感じていた。
 彼女との間に現れた、見えない壁。それは、まだ健在だ。以前と同じように接してくるようでいて、どこか、よそよそしい。
 それに、フランジナへ来て家族に会ってからフィオナの中にあった揺らぎ。家族たちの一挙手一投足にビクついて、今にもクシャリと潰されてしまいそうだった弱々しさが、その壁が築かれると同時に、消えた気がする。

(フィオナの中で、何があったんだ?)
 かつての、グランスにいた頃のフィオナが持っていたしなやかな強さが戻ってきたような、そんな気がルーカスはしていた。
 それ自体は歓迎すべき変化なのだが、問題はその理由だ。
 どうして、突然フィオナは変わったのか。
 そう首をかしげていた矢先の、エミールに対するフィオナの態度。
 あのフィオナの反応を目にしたことで、くすぶっていたルーカスの疑問の中に、チロリと赤い火が生まれた。

 エミール・ラクロワはいい男だ。

 では、エミールが黒幕ではないことが判明し、フィオナと彼が互いに想い合っているとすれば、すんなりと自分は引き下がれるか?
 答えは、すぐに出る。
 そんなことができるはずがない。

 フィオナを他の者に渡したくはないという気持ちは、とうにあった。しかし、こうやってその存在が明確な形を持って目の前に現れると、相手のことを引き裂いてバラバラにしてやりたくなるものだとは思わなかった。
(これが、嫉妬というものなのか?)
 そう、なのかもしれない。
 こんなふうにジリジリと胸を焦がされるような心持になるのは、初めてのことだった。

 表面的にはにこやかに、内面的にはむっつりと考えこみながらルーカスが人の波を縫ううち、ややして、他の者よりも頭半分ほど高い位置にある豪奢な金髪がちらちらと見え隠れするようになってきた。
 が、近づくにつれ、ルーカスの胸に嫌な予感が込み上げてくる。
 フィオナが、見えない。
 だが、彼女がそこにいないわけがないのだ。あの場所から動かないことをあれほど約束させたのだから。

 エミールはルーカスに背を向けている――フィオナの姿を確認できないのは、きっとそのせいだ。華奢な彼女は、彼の陰に入ってしまっているだけなのだ。
 ルーカスは、自分自身にそう言い聞かせたが、じきに現実を思い知る。

「フィオナはどこだ!?」
 前置きのないその台詞に、エミールがパッと振り返る。ルーカスを認めて浮かべた笑みは、屈託がない。
「やっと戻ってきたか。結構時間がかかったね。ああ、それ、無駄になってしまったな」
「フィオナは? 何故彼女がここに居ない?」
 のほほんとした物言いを荒々しく遮ると、エミールは笑顔を苦笑に変えた。
「本当に、君は彼女のことで頭の中がいっぱいなんだな。フィオナ嬢なら、トラントゥール夫人が連れに来たよ」
「母親が……?」
「そんなに怖い顔をすることはないだろう」
 呆れた顔つきになったエミールに、ルーカスは舌打ちで答えた。思い切り罵ってやりたかったが、事情を知らない彼にそうするわけにもいかず。

 ルーカスは手にしていたリンゴ水のグラスをエミールに押し付ける。
「彼女たちはどの扉から出た?」
「え? ああ、西のあれかな」
 言いながら振り返り、いくつかある扉のうちの一つを指さした。ルーカスはすぐさまそちらに向かうべく身を翻す。
「おいおい、母君ならこれ以上はないというほどのお目付け役になるだろう? そんなに慌てなくても」
 切迫した気持ちを隠そうともしないルーカスを、エミールが引き留めた。肩越しに振り返れば、怪訝そうな眼差しを向けてくる。
「あの女は、フィオナを守らない」
「え?」
 エミールは、心底からルーカスの台詞をいぶかしんでいるようだった。

 この男は、四年前のことに関与していないのだ。

 閃くように、ルーカスはそう悟った。このエミール・ラクロワという男は、無害だ、と。
 となると、いっそう消えたフィオナのことが案じられる。
 眉をひそめているエミールを置いて、ルーカスはフィオナを追って扉を目指した。

 廊下に出て扉を閉ざすと広間の喧騒は途端に遠いものとなった。
 右の通路と、左の通路。
 玄関に向かうなら右、屋敷の奥に向かうなら左、だ。
 アデライドはフィオナを連れて外に出たのだろうか。
(いや、違うな)
 直感で、フィオナはこの屋敷――アランブール伯爵の屋敷の中に、いるのだと思った。だとすれば、左の通路だ。
 すぐ近くに居るはずがないとは思いつつ、他に手はなくルーカスは目に入った扉を片っ端から開けていく。
 だが、五枚、十枚と扉を開け閉めしても、一向にフィオナの姿は見つからない。

(くそ、どこに連れ込まれたんだ?)
 もしかしたら、屋敷の外に出たのかもしれない。
 焦るルーカスの中にそんな疑念も湧く。
 しかし、この広大なアランブール家の数多ある部屋の内、ほんの一部しか検めていないことも確かだ。第一、部屋があるのはこの階だけではない。

 手掛かりが、欲しい。むやみやたらと駆け回るだけでは、間に合わない。
 奥歯を食いしばりルーカスが切実にそう願ったその時、ヒュイ、と、鳥の囀りのような音が彼の耳を刺した。

(この音は――)
 以前、暴漢の襲撃を報せてくれた音、だ。
 ルーカスは首を巡らせてその源を探す。

 果たして、そこには。

 望んだ姿――柱の陰に、佇むクライブの姿があった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

【完結】貴方の後悔など、聞きたくありません。

なか
恋愛
学園に特待生として入学したリディアであったが、平民である彼女は貴族家の者には目障りだった。 追い出すようなイジメを受けていた彼女を救ってくれたのはグレアルフという伯爵家の青年。 優しく、明るいグレアルフは屈託のない笑顔でリディアと接する。 誰にも明かさずに会う内に恋仲となった二人であったが、 リディアは知ってしまう、グレアルフの本性を……。 全てを知り、死を考えた彼女であったが、 とある出会いにより自分の価値を知った時、再び立ち上がる事を選択する。 後悔の言葉など全て無視する決意と共に、生きていく。

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

【完結】お姉様の婚約者

七瀬菜々
恋愛
 姉が失踪した。それは結婚式当日の朝のことだった。  残された私は家族のため、ひいては祖国のため、姉の婚約者と結婚した。    サイズの合わない純白のドレスを身に纏い、すまないと啜り泣く父に手を引かれ、困惑と同情と侮蔑の視線が交差するバージンロードを歩き、彼の手を取る。  誰が見ても哀れで、惨めで、不幸な結婚。  けれど私の心は晴れやかだった。  だって、ずっと片思いを続けていた人の隣に立てるのだから。  ーーーーーそう、だから私は、誰がなんと言おうと、シアワセだ。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【完結】新皇帝の後宮に献上された姫は、皇帝の寵愛を望まない

ユユ
恋愛
周辺諸国19国を統べるエテルネル帝国の皇帝が崩御し、若い皇子が即位した2年前から従属国が次々と姫や公女、もしくは美女を献上している。 既に帝国の令嬢数人と従属国から18人が後宮で住んでいる。 未だ献上していなかったプロプル王国では、王女である私が仕方なく献上されることになった。 後宮の余った人気のない部屋に押し込まれ、選択を迫られた。 欲の無い王女と、女達の醜い争いに辟易した新皇帝の噛み合わない新生活が始まった。 * 作り話です * そんなに長くしない予定です

愛すべきマリア

志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。 学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。 家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。 早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。 頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。 その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。 体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。 しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。 他サイトでも掲載しています。 表紙は写真ACより転載しました。

覚悟は良いですか、お父様? ―虐げられた娘はお家乗っ取りを企んだ婿の父とその愛人の娘である異母妹をまとめて追い出す―

Erin
恋愛
【完結済・全3話】伯爵令嬢のカメリアは母が死んだ直後に、父が屋敷に連れ込んだ愛人とその子に虐げられていた。その挙句、カメリアが十六歳の成人後に継ぐ予定の伯爵家から追い出し、伯爵家の血を一滴も引かない異母妹に継がせると言い出す。後を継がないカメリアには嗜虐趣味のある男に嫁がられることになった。絶対に父たちの言いなりになりたくないカメリアは家を出て復讐することにした。7/6に最終話投稿予定。

処理中です...