悩める子爵と無垢な花

トウリン

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アランブール家の舞踏会

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 舞踏会への招きに応じて訪れたアランブール家の屋敷は、トラントゥール家とは比べ物にならない豪勢さだった。
 まず、家屋の広さ。部屋数は多分トラントゥール家の五倍はあるに違いない。
 それに絵画や彫刻などの邸内を彩る装飾品も、トラントゥール家にある物よりもフィオナの眼を引いた。こうして比べて見てみると、自宅にある物は華美さばかりが目立っていることに気付く。
 舞踏会の招待客も前回の会よりもはるかに多く、アランブール家の権力と財力の程をうかがわせた。

 色とりどりの衣装。
 贅沢な食事。
 耳に心地良い音楽。

 まさに夢のような光景なのだろうが、ウィリスサイドに帰ることを決めたフィオナの心には、どれも微塵も響かない。ただ、時が過ぎるのを待つだけだ。
 人が多いせいか、あるいは格式が違うのか、先日よりもフィオナに声をかけてくる者も減っている。
 楽しげにしている人たちの間を気もそぞろに歩く彼女の頭の中にあるのは、目の前の光景よりも今後のことだった。

(ルーカスさんに、どう切り出そう)
 グランスへ帰ることについてこの三日間考えているけれど、自然な流れで彼をこの国に残して行くにはどうしたら良いのかが思いつけない。

「フィオナ、疲れた?」
 考えに没頭していたフィオナは、不意に声をかけられてハッと我に返る。
「ルーカスさん」
 目をしばたたかせて隣を見上げると、ルーカスは彼女を気遣う笑みを浮かべていた。

 今日のルーカスは、アランブール家に着いてからほんのひと時たりともフィオナの傍から離れずに付き添ってくれている。多分、コンスタンスが他の男性方に引っ張りだこだからだろう。
 彼が傍にいてくれるのは、とても嬉しい。特に、これが一緒に過ごせる最後のひと時なのだと思えば、尚更その気持ちが募る。けれど、他の男性と一緒にいるコンスタンスに対して焼きもちを妬いたりはしないのだろうかとフィオナがそっと窺うと、彼は「どう?」というように首を傾げてよこした。仮に嫉妬しているとしても、その眼差しからはほんの少しもうかがえない。

「あの、いえ……だいじょうぶ、です」
 うつむき、彼女は小さくかぶりを振った。
 ルーカスはフィオナを見つめ、彼女の頬にかかるおくれ毛を指ですくって耳にかけ直してくれる。
「そう? 疲れたり帰りたくなったりしたら、すぐに言って欲しいな」
 優しさに溢れた口調で言われると、ジンと目の奥がひりついた。
 今ルーカスが言った『帰る場所』はトラントゥール家のことだ。けれど、フィオナが帰りたい場所は、違う。

(もしもグランスに一緒に帰って欲しいと言ったら、ルーカスさんは何て答えるだろう)
 フィオナの中にそんな考えが浮かんだが、答えは判りきっている。もちろん、ルーカスはすぐさま「いいよ」と言うだろう。それは、彼女に対して責任を負っていると彼は思っているからだ。
(それを自分に許したら、ダメ)
 責任感でルーカスを縛ってしまっては、いけないのだ。
 この三年間で、彼はたくさんの優しさ、温もりをフィオナに与えてくれた。だから、今度は彼女がそれに応えなければいけない。ルーカスの幸せを彼女が邪魔するわけには、断じて、いかない。
 フィオナは弱い自分の横っ面をひっぱたきたい気持ちで己を戒めた。
(ルーカスさんは、ここで、ルーカスさんの幸せを手に入れないと)

 気持ちを入れ替え背筋を伸ばしたフィオナに、折り良く横合いから声がかかる。
「やあ、フィオナ。今日も綺麗だね」
 覚えのあるその声に振り返ると、思った通り、そこにはエミール・ラクロワがいた。
「こんばんは、ラ――エミール、さま」
「元気そうで良かった。そちらのアシュクロフト君も、相変わらずのようだし」
 そう言ってルーカスに笑いかけてから、彼はしげしげとフィオナを見つめる。
「?」
 女性に向けるには遠慮のないその視線に戸惑いを覚えると、それが顔に出てしまったのか、エミールはニッコリと笑った。
「ああ、ゴメン。何だか少し雰囲気が違うから」
「雰囲気、ですか?」
「そう」
 どう違うのだろうと首をかしげるフィオナをよそに、エミールはふと気付いたというように声を上げる。

「おや、よく見たら手ぶらじゃないか。フィオナはお酒は飲めるかい? ダメ? じゃあ、あちらに美味しいリンゴ水が置かれていたよ。ああ、アシュレイ君、ちょっと取ってきてくれないか?」
 エミールはサクサクと話を進め、最後はルーカスに向けてそう言った。
「私が、ですか?」
 答えたルーカスの声はいつもと同じだけれども、何となく、違う。
 そっと見上げると、彼は笑顔をエミールに向けていた。
 そう、紛れもない、笑顔、なのだけれども。
「そうだよ。フィオナを歩かせるわけにはいかないだろう? 大丈夫、彼女のことは私がちゃんと虫除けになっているから」
 ピシッと、何かが空気に走ったような気がした。
(怒って、る……?)
 確かにルーカスは笑顔を浮かべている。けれど、フィオナは、その表情とは裏腹のものを彼から感じ取った。

「あの、ルーカスさん、わたくし、いいですから……」
「おや、水分は摂った方がいいよ。気分が悪くなってしまうからね」
 そう言って、エミールは軽く頭を傾けルーカスを見る。
 ルーカスは、嫌そうというよりも、どこかためらうような素振りを見せ、それからいかにも渋々といった風情で頷く。
「判りました。フィオナ、いいかい? ここから動いてはいけないよ? この間みたいに、勝手にどこかへ行ってしまわないようにね」
「はい」
 何度も念を押してくるルーカスに、フィオナはコクリと頷いた。同時に、先日は随分と心配をかけてしまったようだと反省する。と、そこに、エミールが呆れ混じりの声で入ってきた。
「まったく、過保護だな、アシュクロフト君は。ほら、早く行ってきてくれ給えよ」
 野良犬を追い払うような仕草でヒラヒラと手を振ったエミールに、ほんの一瞬、ルーカスがキラリと目を光らせる。
「うわ、怖いね」
 呟いたエミールを無視して、ルーカスはもう一度フィオナを見下ろしてきた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるから、絶対にここにいるように」
 最後の念押しに、フィオナはまた頷いた。

 それを確認し、更にもうひと睨みしてから足早に人の波の中に消えていったルーカスの背を見送るフィオナの横で、エミールがクスクスと忍び笑いを漏らす。見上げた彼女と目が合うと、彼は拳を口元に当てたまま、片目を閉じてよこした。
「彼を怒らせてしまったね」
「ルーカスさんを、ですか?」
「気付かなかったかい? かなりピリピリしていたけどね。ここにナイフがあったら、一突きされていたかもしれないな」
「まさか。ルーカスさんが怒るようなことは、別になかったです、よね……?」
 フィオナはそう思いたいけれども、実は、彼を怒らせるようなことを何かしでかしていたのだろうか。

 当惑に眉をひそめたフィオナに、エミールが肩をすくめる。
「どうして君が気付いていないのかが不思議なくらいだけれどね。彼も苦労するだろうなぁ」
 気の毒に、と言わんばかりの口調だが、いったい、ルーカスの何を憐れんでいるのだろう。
 もしかして身なりに何か不備があるのかと身体を見下ろしてみても、目に入る範囲では特に何もなさそうだ。
 身をよじって姿を検めているフィオナに、エミールがクスリと笑う。見上げると、彼は優しげな眼差しを彼女に注いでいた。

「?」
 何を笑われたのだろうと首をかしげているフィオナに向けて、彼が笑みを深くする。
「さっきも言ったけれど、君は何かが吹っ切れたように見えるよ。というより、地に足がついたように見える、かな」
「地に?」
「そう。この間の君はフワフワとしてどこか不安そうだった。怯えているようだったと言っても良いかもしれないね」
「怯えて、ですか?」
「そう。まあ、あんな君も守ってやりたい気持ちになって愛おしかったけれど、今のフィオナはね、背筋に芯が入ったように見えるよ。この間よりも、ずっと綺麗になった」
 そう言って、エミールはフィオナを見つめる。
「君の中で、何が変わったのだろう?」
「わたくしの、中で――」
 フィオナは呟き、そして顔を上げて彼を見返した。

「わたくしは、歩む道を決めました」
 大きくはないけれどもはっきりとした声で、フィオナは告げた。エミールは瞬きを一つして、深い笑みを返してくれる。
「道を? そうか。それは、いいね」
 そう言って、エミールは首をかしげた。
「その道は、彼と――アシュクロフト君と一緒に歩いていくのかい?」
「ルーカスさんは……あの方は……」
 続けられずに、フィオナは口ごもる。顔を曇らせた彼女を、エミールが覗き込んできた。
「フィオナ?」
 案じてくれている彼に対して、どう答えを返したらいいものか。グランスにいたことは秘密になっているから、独りであちらに帰るのだとも言えず、フィオナは唇を噛む。
 親身になってくれたエミールには、できる限りのことを伝えたいけれど。
(どう伝えたら――)

 袋小路のフィオナを助けたのは、鋭い口調で彼女を呼ぶ声だった。
「フィオナ!」
「お母さま」
 フィオナは唐突に現れた声の主に目をしばたたかせる。アデライドや他の家族ももちろん一緒の馬車で来たのだけれど、会場に入って早々、皆三々五々に散って行ってしまったのだ。

「こんなところにいたのね。まったく、随分と探してしまったわ」
 まさか、母が自分のことを探していようとは夢にも思わず、フィオナは少なからず狼狽する。
「あの、申し訳ありません」
 肩を縮めたフィオナにツカツカと歩み寄ってくると、アデライドは彼女の腕を掴んだ。
「あなたって子は―― ! まあ、あなた様はラクロワ侯爵の」
 叱責の声を上げかけ、そこで初めて隣に立つエミールに気付いたようだ。取り繕うように艶やかな笑みを浮かべたアデライドに、エミールもにこやかに返す。
「トラントゥール夫人、ご機嫌麗しく。今日もお美しいですね。大輪の薔薇さながらだ」
 さりげなくアデライドの手を取りその甲に口付ける。
「まあ、そんな……せっかくこの子のお相手をなさってくださっていらっしゃったのに、お邪魔して申し訳ありません。この子に引き合わせたい方がいらっしゃるので――」
「ああ、そうか。アシュクロフト君ももうすぐ戻ってくるだろう」
「いえ、その、少し急ぎませんとなりませんの」
「そうか。じゃあ、彼には僕からフィオナ嬢は母上に引き渡したと伝えておくよ」
 エミールの親切な申し出に、ほんの一瞬、アデライドが顔をしかめた。彼の手を煩わせてしまうことへの申し訳なさからだろうか。
 アデライドはまたすぐに笑顔になり、エミールにかぶりを振る。
「それには及びませんわ。後でわたくしからお話しますので、ラクロワ様はどうぞお楽しみにお戻りになって。さあ、行きましょう、フィオナ」
 そう言って、アデライドはフィオナの腕を掴む手に力を籠めた。
「あの、では、失礼いたします、エミールさま」
 フィオナが言い終えるのを待たず、母は歩き出してしまう。よほど、急ぎの用らしい。

 アデライドに引っ張られながらフィオナは肩越しに振り返る。エミールと目が合うと、彼は、口だけで「心配しないで」と伝えてきた。多分、そのままあの場に残り、ルーカスに事の顛末を報せてくれるつもりなのだろう。
 それなら、この間のように心配させることにはならないはず。
 フィオナはホッと息をついて目を前方に戻し、常の優雅さを欠いた足取りで先を急ぐアデライドに従った。
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