悩める子爵と無垢な花

トウリン

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大事なこと

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 突然音を立てて開いた扉から入ってきたのは、コンスタンスだった。彼女は開けたときと同じく荒い所作で扉を閉めた。常に品のある優雅な身ごなしをしている彼女だけれど、フィオナの前でだけは違う一面を見せる。

「お姉さま」
 呟きに近い呼びかけを無視してコンスタンスはつかつかとフィオナの前までやってくると、蛇に射すくめられたネズミさながらに身を固くしている妹を鼻の先から見下ろした。冷やかなその視線を、フィオナはかろうじて受け止める。
 母の前でもそうだが、この姉を前にしても、フィオナはいつも委縮してしまう。それは彼女がルーカスの傍で甘い笑みを浮かべている時でもそうでない時でも同じで、頭の奥深くにそうするよう刻み込まれているようだった。

 しばしフィオナを睥睨していたコンスタンスは、やがてこれ見よがしなため息をこぼす。
「あなた、いい加減、身の程をわきまえたらどう?」
「え?」
「ルーカス様に色目を使って、まったく、恥ずかしくないの?」
「い、ろめ?」
 何のことか解らずつかえながらその言葉を繰り返したフィオナを、コンスタンスは忌々しげに見下ろした。
「殿方を庭の奥に誘い出すなんて、なんて恥知らずなの」
「それは――」

 違う。

 フィオナはあそこで一人になりたかっただけだ。アランブール伯爵も、ましてやルーカスが来るなんて、思ってもみなかった。
 けれど、コンスタンスはフィオナの弁明など待たず、また荒々しく息をついた。
「いい? あなたなんてルーカスさまの隣に相応しくないのよ。あの方の隣に並ぶのは、このわたくしなの。あの方が望んでいるのは、わたくしなのよ。それを忘れないでちょうだい」
 きっぱりと言い放つコンスタンスに、フィオナの胸がズキリと痛む。こんなにも自信を持って言い切れるのは、互いに想いが通い合っているからに違いない。
(もしかしたら、もう、確かな約束も交わしているのかもしれない)
 フィオナは殆ど二人の傍にはいられなかったから、知らないうちにそうなっていたとしても不思議ではなかった。

「わかって、います」
 フィオナは、痛む喉からかすれた声でそれだけ吐き出した。
 コンスタンスはしばしフィオナを見下ろし、そして、フン、と鼻で嗤う。
「ちゃんと判っているならいいのよ」
 少し穏やかになった口調でそう言うと、コンスタンスはブラブラと部屋の中を歩き出した。フィオナは目だけで彼女の動きを追う。

 しばらく気のない素振りを見せていたコンスタンスが、ふと足を止めた。
「それは何?」
 言うなりコンスタンスが寝台の上に手を伸ばす。彼女の気を引いた物が何なのかに気付いたフィオナは、咄嗟にそれを隠そうとした。けれど、一瞬の差で間に合わない。
「あ……」
 コンスタンスが取り上げたのは、ウィリスサイドを出る時にケイティから渡されたお守り袋だった。フィオナはそれを枕元に置いていて、毎夜、握り締めて眠りに就いていたのだ。

「何これ。ずいぶんみすぼらしいわね」
 コンスタンスはお守り袋を人差し指と親指で摘まむようにして目の前にぶら下げ、しげしげと眺めながらそう言った。
 あからさまな嘲笑を含んだその声に、刹那、フィオナの身を捉えていた呪縛が解ける。

「返してください」
 明朗な声でそう告げたフィオナに、コンスタンスがサッと振り返る。その顔には、訝しむ色があった。まるで、その声を発したのが誰なのか、判らなかったかのように。
「え?」
 フィオナは立ち上がり、眉をひそめたコンスタンスに向けて手のひらを差し出す。
「返してください。それは大事なひとがくれた大切なお守りです」
 コンスタンスは目を丸くしてフィオナを見つめている。彼女のその様は、フィオナが口を利けるとは思っていなかったとでも言わんばかりだ。

 これと同じ反応を、以前にも目にしたことがある。
 あれは、そう、両親に自分のことは『フィオナ』と呼んで欲しいと告げた時だ。あの時も、二人は突然鼻先を叩かれたかのような顔をしていた。
 そんなに、自分は言われるがままのお人形だったのだろうか。
 フィオナは思い、そして頷いた。
 きっと、そうだったのだろう。
 皆が口を揃えて言う、『人形のようだった』というフィオナを評する言葉。
 それは比喩でも何でもなく、彼女はまさにそういう少女だったに違いない。
 それほどに、ここに居た頃の自分は、今の記憶を失った自分以上に何も持っていない少女だったのだ――意思も感情も、何もかも。
 ケイティやルーカスにも救出されたばかりの頃のフィオナは人形のようだったと言われるけれど、それはきっと、誘拐されたからとか、怖い思いをしたせいだとかではない。
 元から、そうだったのだ。
 それが、ここに居た頃のフィオナの姿だったのだ。

 ふと、フィオナは思う。

(過去は、本当にそんなに大事なものなの?)
 そんな何もなかった自分を取り戻すことに、どれほどの意味があるのだろうか。
 今ここにいるフィオナは、この三年間で培われたフィオナだ。全てを失って、真っさらから始めてケイティや警邏隊の皆の力を借りて育った、フィオナだ。
 かつての自分のことは何一つ思い出せていないけれども、記憶を失ってからの自分の方が好きだという確信がフィオナにはあった。

(だったら)
 フィオナは、唇を噛み締める。
 だったら、過去にこだわるよりも、先を、これから進んでいく先だけを見る方がいいのではないだろうか。
 ウィリスサイドにいた時の自分は好きだった。
 けれど今の自分――恐らくかつてのベアトリス・トラントゥールに近い、この自分は好きじゃない。
 フィオナはまだコンスタンスの手の中に捕らわれたままのお守り袋を見つめた。と、不意に、フィオナの脳裏にケイティが出がけにくれた言葉がよみがえる。

『あなたはこの三年間でビックリするほど変わったのよ? それを覚えておいてね?』

 あの時はどういう意味なのか、解らなかった。変ったという自分に、フィオナはあまりに馴染んでいたから。
 きっとケイティはフィオナの中にある何かに気付いていたに違いない。だから、あの言葉をくれたのだ。

『あなたはこの三年間でビックリするほど変わったのよ』

 そう言ってくれた時の、ケイティの真摯な眼差し。

(そう、わたくしは、変わった)
 フィオナは、この三年間で色々なものを手に入れた。間違いなく、ここに居た十数年の間に得たものよりも遥かに多くのものを。
 したいことやできること。
 楽しいと思える日々。
 大事な人。
 帰りたい場所。
 それらに恥じる自分には、もう戻りたくはない。
 確かに過去は失ったかもしれないけれど、その代わりにそれ以上のものを得た。
 ダンスが上手なことよりも優雅なドレスさばきができることよりも、大事な人にパンを作ってあげられる方がいい。

 フィオナは真っ直ぐにコンスタンスを見つめる。そうやって姉の目を見て視線を合わせるのも、初めてのことだった。
 自分は、この姉のような女性になりたいと思っているだろうか。
 自問し、すぐにその答えが出る。
 そうは思わない。
 確かにルーカスの隣に並べることは羨ましく思う。姉のようでないことで彼に選ばれなかったことは、悲しく思う。
 けれど、コンスタンスや母のアデライドのようには、なりたくない。ましてや、『人形のような』ベアトリス・トラントゥールなど論外だ。

「な、何よその眼。下賤の者の間にいたせいで、すっかり品をなくしてしまったのね」
 下賤の者。
 キッと、フィオナは顎を上げる。
「それを返してください。それに、警邏隊の方たちは皆素晴らしい人ばかりです。訂正してください」
 芯が通った声で告げると、コンスタンスの眉が糸で引っ張られたように持ち上がった。紅く塗られた唇がわなわなと震える。
「何で、わたくしが――ッ! そんな生意気な口を利くなんて!」
 甲高い声が部屋中に響き渡ったけれども、フィオナは微動だにしなかった。
 コンスタンスは肩をいからせフィオナを睨み付けてくる。フィオナは、それも受け止めた。

 興奮した姉の荒い息の音だけが、部屋の中にあった。彼女は口を開いて何かを言いかけたが、フィオナから注がれる泰然とした眼差しに、怯んだように視線を泳がせた。
「あなた、あなた、なんて――」
 その先が、続かない。
 と、コンスタンスは突然片手を振り上げ、握り締めていたお守り袋をフィオナの胸に投げ付けた。そうして、後はもう何も言わずに、足運びも荒く部屋を出て行った。

 高い音を立てて閉ざされた扉をしばし見つめ、フィオナはゆるゆると息を吐き出した。そうして、お守り袋を両手で握り締め、胸に押し当てる。中に入っているのは冷たい石のはずだけれども、不思議と、温もりを感じた。
 まるで、その石を通じて、早く帰っておいでとケイティが囁きかけているかのように。
 この地には、フィオナがいる必要も理由も、そうする価値もない。彼女にとって、ここは何の意味も持たない場所なのだ。

(グランスに、帰ろう)

 そう決めてしまえば、ふわりと心が軽くなった。
 自分は、トラントゥール家に相応しくある必要などない。自分の居場所は、ここではないのだから。
 三日後に控えているという、アランブール伯爵の舞踏会。親切にしてくれた彼が開く会には出席しよう。
 けれど、それが終わったら、帰るのだ。ルーカスの手を借りず、一人で。
 来るときに彼がすることを見ていたから、どうやって船や馬車に乗ったらいいのかは、もう判っている。

 フィオナが笑顔でいなければ、きっと彼は責任を感じてしまうだろう。けれど、またルーカスと二人きりの時間を作ってしまえば、別れがいっそう辛くなってしまう。そうなれば、笑顔なんて、作られなくなる。
(だから、ここでお別れする方がいい)
 ここでなら、虚勢を張ることができるだろうから。

(だから、ルーカスさんとは、ここでお別れ)

 不意に熱くなった目の奥に、フィオナは溢れようとするものを押し止めようと、ギュッと目蓋に力を込めた。
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