悩める子爵と無垢な花

トウリン

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見えない壁

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 オーギュスト・アランブールは、フィオナを誘拐した黒幕としてルーカスが疑念を抱いている者のうちの一人だ。その男が今フィオナの傍におり、あまつさえ、彼女に触れている。
 ルーカスは唸り声をあげたくなるのを抑え、大股で四阿《あずまや》に歩み寄った。よほど互いに意識を向けているのか、彼の足音が聞こえているはずだろうに、二人とも気付いている様子がない。

「フィオナ、こんなところにいたのか」
 にこやかに呼びかけると、フィオナとアランブールが同時に振り返った。アランブールは単純に闖入者を訝しむ色を、そして、フィオナは怯えにも似た色を、それぞれの面に走らせる。

 アランブールはともかく、フィオナにそんな顔をされる理由が解からない。

 表面的には愛想のよい笑みを浮かべつつ心の内では眉根を寄せたルーカスに、立ち上がったアランブールが向き直る。
「君は?」
「ああ、失礼いたしました。私はルーカス・アシュクロフトと申します。フィオナ嬢のお目付け役のようなもので」
「お目付け役? 君が?」
「はい」
 アランブールは疑わしげな眼差しを向けてきたが、ルーカスは平然と頷いた。
「フィオナ嬢が療養に入った時に護衛なども兼ねて任ぜられました」
 飄々とそう告げ、ルーカスは屈託のない笑みの陰からアランブールの様子を観察する。
 もしも彼が黒幕ならば、フィオナが療養などしていなかったということを知っているはずだ。ルーカスの台詞が大嘘であることにも気付くだろう。
 アランブールはフィオナの父よりは若いが、それでも彼女に邪まな想いを抱くには少々とうが立っているし、見てくれも温厚な紳士そのものだ。一見、『良い人』そのものだが、こういう人畜無害そうな男が見た目通りではないことがあるということを、ルーカスは経験上知っていた。
 フィオナの帰還がフランジナの社交界に知らしめられてから、現状、彼女に近寄ってきたのはエミール・ラクロワと、このアランブールだけだ。さらに、アランブールはかつてのフィオナと接点があったというところが気にかかる。

「あなたはアランブール卿ですね?」
 答えを知りながらそう問うと、アランブールは眉を上げた。
「私を知っているのかい? 君とはどこかで会ったかな……ああ、そうか、エドモンから聞いたんだね」
 呟いていたアランブールは、最後に独り納得したように頷いた。そうしてルーカスに微笑みかける。
「私はオーギュスト・アランブールだ。エドモンとはだいぶ前から付き合いがあってね、フィオナのことも幼いころから知っているんだよ。伏せっていると聞いて心配していたのだが……元気になって良かった」
「熱が出ていただけで、そう重いものではなかったですから」
「そうか。でも、記憶を無くしてしまったと聞いたよ?」
「ええ。でも、それ以外は至って健康になりました。むしろ、彼女には療養生活が向いていたようです」
 シレッとルーカスが笑いかけると、アランブールもフィオナをしげしげと見て頷いた。
「どうやらそのようだな」
 そうして、またルーカスに目を戻す。
「とにかく、せっかく元気になれたのだから、これからは社交生活を楽しんで欲しいね。三日後に私の屋敷で舞踏会を開くから、君も来るといい」
「それは、是非」
 愛想よく笑い返したルーカスに頷き返すと、アランブールは再びフィオナに向き直った。
「では、その時に、また」
 フィオナに向ける笑みは、ルーカスに向けた社交的なものとは違って、本物の温もりがあった。それに応えるように、彼女の頬にも淡く微笑みが浮かぶ。
「あの、お話を、ありがとうございました」
 華奢な両手を胸の前で握り合わせて言ったフィオナに、アランブールの笑みが深くなる。
「また、そのうち……ゆっくりと」
 そう残し、アランブールは去って行った。

 彼の気配が完全に失せると、フィオナがそわそわと身じろぎをし始める。
「あの、わたくしも、お部屋に――」
 まるで、ルーカスと二人きりでいることが耐え難いかのようなその様子に、彼は内心眉根を寄せる。湧いた微かな苛立ちは胸の奥に押し込めて、一つしかない四阿の出入り口を塞ぐ位置にさりげなく移動しつつ微笑みと共にフィオナを見下ろした。

「二人きりで話せるのは久しぶりだし、もう少し、ここでゆっくりしていかないか?」
 いつもなら、フィオナは一も二もなく頷くはずだ。明るい笑顔で目を輝かせて。
 しかし、ルーカスの予想に反して彼女は彼から視線を逸らしてしまう。

「フィオナ?」
 呼びかけてから応えるまでに、間があった。その間の間に、彼女は何を考えたのか。
 ルーカスが二度目に名を口にする前に、フィオナがフッと顔を上げる。
「あの、お部屋で読みたい本があるので」

 当然、嘘だろう。
 あからさまなフィオナの逃げの態度に、ルーカスは笑みを残したままで軽く首をかしげる。
「へぇ、どんな本?」
「それは、えっと……」
 途端に口ごもったフィオナに彼はすかさず畳みかける。
「この間の夜、フィオナも言っていただろう、ここに来てからゆっくり話す時間がない、と。君と過ごせないのは、私も寂しいよ」
 眉尻を下げてそう言えば、フィオナはチラリとルーカスを見たけれど、またすぐにその視線を下げてしまう。
「でも、ルーカスさんは……」
「私が、何?」
 フィオナの口の中に消えていってしまった言葉の続きを促しても、彼女は唇を噛んで押し黙ってしまった。

 ルーカスはしばしフィオナを見つめる。
 ここで粘るべきか、それとも今は引くべきか。

 考え、前者に決めた。

 ルーカスはフィオナの背に手を添え、四阿の中に備えられた長椅子へと促す。彼が触れた瞬間、微かにフィオナの身体が強張ったが、抗うことなく彼女は腰を下ろした。
 ルーカスが隣に座っても、フィオナは視線を膝の上に置いた自分の手に据えたまま、彼の方を見ようとしない。

 本格的に自分が何をしでかしたのかを振り返りつつ、ルーカスは腿に肘を突いて身を乗り出した。
「フィオナ、言ってくれないと解らないよ。私が、何だい?」
「……」
 キュッと、フィオナの握り込まれた両手に力がこもった。反射的にルーカスはそれに手を伸ばしそうになったが、そうする前に気付き、こらえる。

「もしも私が何かしたなら、教えて欲しい。私が悪いならちゃんと謝りたいんだ。ここに来てからあまり一緒にいられていないけれど――君を守るために来たのに傍にいられないのは、申し訳ないと思っている」
 もう少しだけ身を屈め、伏せられたフィオナの顔を覗き込むようにして、告げた。と、その台詞は彼女を押すことができたらしく、パッと顔が上がる。
「そんな――ルーカスさんは、何も悪いことなんてしていません」
「だったら、どうして私から逃げようとするのかな」
「逃げよう、なんて……」
「しただろう。君は嘘が下手なんだから、ごまかそうとしても無駄だよ。で、どうして私と話をしたくないんだい?」

 元々、人に抗うことができない少女だ。努めて穏やかな、けれども逃げを許さない声で再度問いかけると、フィオナはためらいがちに口を開く。
「ルーカスさんは……その、お姉さまが……」
 が、そこまでだった。
 結局フィオナは尻すぼみで言い淀み、またうつむいてしまう。

 取り敢えず、コンスタンスが原因の一つであるということだけは判った。あれだけ苦労して引き離しておいても、まだ、ルーカスが気付かぬ場所でフィオナをいびる暇があるのか。彼女は、ほんのわずかでもルーカスがフィオナに気を向けることが許せないらしい。
 きっと、また、フィオナを全否定するような台詞を叩き付けてきたのだろう。

 後でクライブにも確認しておこうと思いつつ、ルーカスはフィオナの手を両手で包み込んだ。
「フィオナ」
 呼ぶと、ノロノロと首が巡らされる。いかにも目を合わせたくなさそうなその様子は無視して、彼は彼女の顔を覗き込んだ。
「フィオナ、これだけは忘れないでくれ。君は警邏隊に必要な人間だ。もう、あの中に君がいないなど想像すらできない」

 確かにこの屋敷にフィオナの居場所はないかもしれないけれど、ここ以外には彼女を切に望んでいる者がいて、彼女が居るべき場所がある。
 ――その、今さら口にする必要もないことをはっきりと伝えてやれば、彼女に笑顔が戻ると思っていた。

 だが、ルーカスの予想は外れ、フィオナの視線がいっそう落ちる。

「フィオナ?」
 窺うように呼ぶと、ルーカスの手の中でフィオナの拳に力がこもった。

 そんなふうにきつく握り締めたら、手のひらが傷ついてしまう。

 危惧したルーカスがフィオナの手を開かせようとするより先に、彼女が口を開いた。
「……ルーカスさんは、わたくしがウィリスサイドに帰った方がいいと思われますか?」
 その声がほんの少し震えを帯びているように思われたのは、ルーカスの気のせいだろうか。
 フィオナの反応が解せず内心困惑しながらも、ルーカスは深く頷いた。
「ああ、そうだね。君にはここよりもあの場所の方が相応しいよ」
 フィオナは、こんなところよりもウィリスサイドの警邏隊の中でのほうが本当の彼女を見せてくれる。ここでは笑えなくても、あそこであれば、心の底からの晴れやかな笑顔を取り戻せるはずだ。
 ルーカスは、それに飢えていた。
(帰ったら、毎日だって笑わせてやれるのに)
 ここでは何もままならない。

 欲求不満で苛立ちすら覚えるルーカスの横で、フィオナは。
「そう、ですか。やっぱり……」
 ポツリと、胸からこぼれ落ちたかのように。
 ただそれだけの返事に、ルーカスは眉をひそめた。

 この遣り取りを始めた時からフィオナの顔に漂っていた曇りは、ほんの少しも晴れていない。いや、今の会話でいっそう濃くなったようにすら見える。
 ルーカスは、何か致命的な間違いを犯したような気がした。だが、その間違いが何なのかが判らない。
 一連の遣り取りを思い返してみても、フィオナを傷付けるようなことは何も言っていないはずだ――と、思う。

 しかし。

(本当に、私は何もしていないのか……?)

 この年に至るまで、ルーカスはどんな状況においても自分の言動に間違いはないという確信を持ってきた。別に自分の能力を過信しているわけでも驕っているわけでもなく、間違いをしないように常に幾手も読みつつ動いてきたからだ。
 しかし、その確信が、今は持てない。

 自信がないというのはこんなにも心許ないものなのかと思いつつ、ルーカスはフィオナの気を引くように彼女の手を握る手に力を込める。
「フィオナ?」
 名前を呼ぶと、一呼吸分の間があってから、彼女が顔を上げた。
「はい?」

 答えたフィオナは、微笑んでいた。ここで話し始めてから初めてルーカスに向けて見せてくれた微笑みだ。

 だが。

(何だ、この『届かない』感じは?)
 ルーカスは抱いた違和感に眉をひそめる。

 フィオナは確かに笑みを浮かべているし、彼はまだ彼女の手を握ったままだ。しかし、そうやって彼女に笑いかけられ彼女に触れているというのに、何故かとてつもない距離を感じた。

 いや、距離というよりも。

(壁、だ)
 見えない壁が二人の間に立ちはだかっているような、そんな拒絶感が、今のフィオナにはあった。
 今まで、ルーカスは、フィオナに距離を取られても拒絶されたことはなかった。

(私は、何をしたんだ?)
 愕然としながら振り返ってみても、やはり、彼女にそうされる理由に思い当たることがない。挽回しようにも、何がいけなかったのかが判らなければ動きようがなかった。

 固まるルーカスの手から、フィオナの手がするりと引き抜かれる。ハッと顔を上げた時には彼女はもう立ち上がり、彼の前を擦り抜けて四阿の外に出てしまっていた。
「フィオナ――」
「ごめんなさい、やっぱり、わたくしはお部屋に戻ります」
 そう言って微笑むと、彼女はルーカスに引き留める隙を与えてくれずにふわりと身を翻し、駆けていってしまった。

 ――まるで、ルーカスから逃げ出そうとしているかのように、振り返りもせず。
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