悩める子爵と無垢な花

トウリン

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見えない過去

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 母の姿を探して屋敷の中を彷徨っていたフィオナは、人気のない広間でようやく彼女を見つける。
 呼び留めようとして口を開いたけれども、声が喉に引っかかった。つい身構えてしまうからなのか、アデライドと話をしようとすると、フィオナはいつもそうなってしまう。

 小さく咳払いをして、フィオナはもう一度試みた。
「お母さま」
 今度は、ちゃんと声が出る。かすれた囁き声のようなものだったけれども、それでも、母の耳に届くほどの声は出たはずだ。
 その証拠に、ゆったりとした上品な身のこなしで歩いていたアデライドの足が止まる。彼女は一呼吸分ほどの間を置いて、振り返った。

「何?」
 振り返った、というと、語弊があるかもしれない。身体の向きはほんの少し変えただけで、肩越しに、冷やかな視線だけがフィオナに与えられる。その視線も、ほんの一瞬絡んだかと思うと、すぐに逸らされた。

 ルーカスが傍にいない時のアデライドは、いつもこんな感じだ。そのいかにも気が乗らなそうな様子に、フィオナの舌が固まる。
 早く、何か言わないと。
 そう焦れば焦るほど、フィオナの頭の回転が止まってしまう。

 呼び留めたきり何も言わない彼女に、アデライドが苛立たしげにため息をついた。
「用はないのね」
 そう言い、フィオナの返事を待つことなく、アデライドはまた歩き出してしまう。
「あ……あ、あの、待って、ください」
 つかえながら、フィオナは懸命に声を上げる。アデライドの足は止まったけれども、今度は、振り返ってはくれなかった。それでもフィオナは、すらりとした背中に追いすがる。
「あの、わたくしの子どもの頃のお話を、聞かせてください」
 ここに来てから、もう何度となく繰り返してきた訴えを、フィオナは口に上げる。子が母に対してする、どうということもないような――どうということもないはずの願いが、ひどく重く感じられた。
 フィオナは無意識のうちに両手を痺れるほどに固く握り合わせ、息を詰める。

 そうやってアデライドの返事を待つフィオナに、彼女は。

「今は忙しいの」
 にべもない。

 ――いつも同じだ。いつも、同じ言葉、同じ態度で拒まれる。
 執事やメイドに母には何の用事もないことを確認した上で問うても、母からこれ以外の返事があったことがなかった。
 そして、いつもなら、フィオナもこの一度きりで引き下がるのだが。

 彼女は唾を呑み込み、引きつる喉を宥めて、もう一度、懇願する。
「ほんの少しでいいんです。わたくしがどんな子どもだったのか――」
 と、ヒクリとアデライドの肩が震えたかと思うと、彼女はドレスを膨らませて振り返った。
「何度もしつこく訊かないでと言っているでしょう! 昔のあなたはイイ子だったわ、とてもね。今みたいにしつこくまとわりつくことなんてなくて! いいから、口を閉じていなさい。その声をわたくしの耳に入れないで!」

 高い、声。

 それまでの渋さとは打って変わって、立てた板に水を流す勢いでアデライドの口から溢れ出したその台詞は、頬を叩くようにしてフィオナに投げ付けられた。その明らかな嫌悪に満ちた言葉を受け止めきれない彼女は、呆然と母を見返すしかない。そんなフィオナを忌々しげに一瞥すると、アデライドは荒いため息を一つ残し、踵を返して行ってしまった。

 母は、憤っていた。
 それは、解る。確かに憤っていたけれども、では何がそんなに彼女を怒らせてしまったのかということはまったく判らず、フィオナは途方に暮れる。
 そんなに、しつこくしただろうか。
 もしかしたら、早く記憶を取り戻したいと焦るあまりに、くどくなってしまったのかもしれない。
 おどおどした声が、癇に障ったのかもしれない。
 それとも、本当に、今は忙しかったのかも。
 どれもありそうで、どれも違いそうで、フィオナは詰めていた息をゆるゆると吐き出した。

 もう、どうしたらいいのか判らない。

 フィオナは床に眼を落とし、アデライドが消えていった方とは別の扉へと向かった。すぐに彼女と顔を合わせたら、もっと怒らせてしまうに違いないから。
 トボトボと数歩進んだところで、何かに呼び留められたような気がしてフィオナはふと顔を上げた。
 左手の壁に、家族五人が描かれた肖像画が掛かっている。
 絵の中のフィオナは、まだ五つかそこらくらいだ。その構図が、家族の中でのフィオナの存在を如実に表しているのだと、彼女は思う。
 兄と姉は、両親に挟まれるようにして微笑んでいる。フィオナは、一番端、父の隣――母から一番遠い場所に描かれていた。幼い彼女は表情がなく、エミールが言い表したように、精巧な人形のように見える。

(お母さまは、どうして……)
 フィオナは唇を噛む。
 どうして、アデライドから拒まれてしまうのか。
 その理由を知りたいのにそれすらも教えてもらえない。自分は、それほどまでに疎ましい子どもだったのだろうか。拒まれる理由が解かれば、もう少し適切な応対ができるだろうに。

 キュッとフィオナの顎に力がこもり、口の中に、鉄の味が滲みかけた時。
「お前、さっさとグランスに帰った方がいいよ」
 突然響いた声に、フィオナはハッと振り返る。見れば、いつの間にそんなに近くまで来ていたのか、数歩ほど離れたところに兄のセルジュが立っていた。
「お兄さま……」
 彼は更に距離を詰めてフィオナの隣に立つと、先ほどまで彼女が見上げていた肖像画に目を遣った。まだ日も高いのに、彼からはプンと酒の臭いが漂ってくる。朝から飲んでいたのか、あるいは、昨晩のものがまだ抜けきっていないのかもしれない。

 セルジュは、チラリともフィオナを見ようとせぬまま、口を開く。
「粘っても、多分母さんはまともにお前と口をきこうとはしないよ。それに、母さんがお前を好きになることもまず有り得ないから。別に、お前が悪いわけじゃないんだけどさ。あの母さんじゃ、まず一生変わらないよ」
 感情を含んでいない、単なる事実を淡々と述べるような口調で、セルジュは言った。彼の目は、肖像画に向けられたままだ。その眼差しからも、彼の中にある思いを読み取ることはできない。
「どうして、どうして、お母さまは――」
 フィオナは、その先を言葉にすることができなかった。
 彼女が何を言いたいのかは判っているだろうに、セルジュは答えず肩をすくめる。そうして、それきり、気のない足取りでぶらぶらと広間を出て行ってしまった。

 兄は、どうしてあんなことを言ったのだろう。
 フィオナは、焦点が定まらない目でもう一度肖像画を見上げた。このトラントゥール家における彼女という存在がどんなものなのかを雄弁に語っている、肖像画を。

 自分がこの家に帰ってきた理由は、何だっただろう。
 ぼんやりと、問いがフィオナの頭の中を流れた。
 屋敷のどこを訪れても――こんなふうに幼い頃の自分の姿を目の当たりにしてさえ、フィオナの胸に、失われた記憶の欠片も蘇らない。何を見ても、何を聞いても、何に触れても、何一つ心に響かない。

(わたくしは、本当にここに住んでいたの……?)
 そんな疑問すら浮かんだ。

 フィオナは先ほどの母との会話を思い出す。
 およそ二週間、毎日アデライドに声をかけてきたけれど、彼女がフィオナに対してあんなに言葉を返してきたのは、初めてだ。
(初めてで、あんなふうに言われてしまうなんて)
 思わず力のない笑いがこぼれた。

 時々アデライドはフィオナに記憶を取り戻して欲しくない、あるいは、その必要などないと思っているのではないかと感じる時がある。
 それほどまでに自分の存在はアデライドにとってどうでもいいものなのだろうか。過去の、彼らと共に過ごしていたフィオナの存在など、消え去ってしまっても構わないものなのだろうか。

 ――ウィリスサイドに、戻りたい。

 フィオナは熱くなった目の奥を押し込むように、きつく目蓋を閉じた。
 逃げ出すようなことは、したくはない。
 けれど、この屋敷に、彼女の『本当の家族』の中にいると、フィオナは自分の全てを否定されているような心持になってくる。

 ウィリスサイドでは、警邏隊の中では、何かがあった。
 そこにいてもいいのだと、フィオナに思わせてくれた。
 あそこで培ってきた、三年間の自分。
 声を上げて笑うこと。
 心を温めてくれる思い出。
 確たる自分――自信というもの。
 ここにいたら、それらを皆、失ってしまいそうだ。

 母との会話も、肖像画の中の自分も忘れてしまいたくて、フィオナはふらりとした足取りで広間を後にする。
 無性に、ルーカスに逢いたかった。
 彼は、今は遠く離れてしまっている警邏隊とフィオナとをつなぐ、糸だ。
 彼に逢って、優しく微笑みかけて欲しかった。その声で、話しかけて欲しかった。
 無意識のうちにルーカスの姿を探して、フィオナは廊下を彷徨う。

 と、廊下の曲がり角が見えてきたとき。

「あの子はグランスにいた方が幸せだと思いますの」
 聞こえてきたのは、憐れみを含んだ澄んだ声だ。
(お姉さま?)
 彼女が誰かと話しているならば、それは、多分、ルーカスだ。
 そう思い至って、フィオナの足が止まる。
 ルーカスには逢いたいけれども、アデライドに冷たくあしらわれた後なだけに、コンスタンスに優しくしている彼を見ることに耐えられそうにない。

 引き返そうとしたフィオナだったが、続いた姉の言葉に身を強張らせる。
「あの子は前もそうでしたわ。昔も、ここでの生活には馴染んでいなかったから。きっと、グランスに帰してあげた方が幸せになりますわ。ああ、もちろん、ルーカスさまはいくらでもここにいらして?」

 甘い声でねだる彼女への、ルーカスの返事は。

「そうですね。もうじきそうなると思いますよ」

 その瞬間、フィオナは。
 まるで、巨大な杭に胸を貫かれたかのようだった。

 そこがすっぽりと失われてしまったのかと思うほど、苦しくて、息ができない。

 フィオナはふら付きながら足を踏み出す。
 一歩、また一歩。
 廊下の床が存在していることを確かめるようにしながら。

 重ねるうちにそれは速まり、しまいには、駆け出した。
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