悩める子爵と無垢な花

トウリン

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芽吹いた疑惑

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「やあやあ、昨日は大変でしたね」
 アシュレイ・バートンは店内に足を踏み入れたルーカスとクライブをその第一声で迎えた。彼は椅子に腰を落ち着けたルーカスたちに茶を出しながら、眉をひそめる。
「で、怪我人は出なかったんですよね?」
「ああ、幸いにして。フィオナが、少し手を擦りむいたくらいだ」
「それは何より。で、さっそく、彼らから仕入れた情報を披露したいところなんですが」
 社交辞令もそこそこに、アシュレイは単刀直入に切り出した。
 きっと、役人に小金を掴ませて聞き出してきてくれたのだろう。
 いかがです? と小首をかしげたアシュレイに、当然のことながら、ルーカスは一も二もなく乞う。
「教えてくれ」
 アシュレイは得意げに笑うと、それでは、と切り出した。

「まず、彼らの標的ですが、それはね、あなただったようですよ、アシュクロフトさん」
「私?」
 ルーカスは眉をひそめた。そんな彼に、アシュレイが頷く。
「ええ。何でも、トラントゥール家を見張っていて、銀髪の男が出てきたら襲えと言われていたらしいです」
「銀髪……」
 昨日の面子で銀髪の男と言われたら、確かにルーカス以外にはいない。強いて言えば御者も銀髪に見えないこともないが、まず、ルーカスの方が狙いであることに間違いはないだろう。
 そこで彼はふと思い出す。
 そう言えば、襲撃の時も、一人馬車の方に行こうとした男に対して「金髪には手を出すな、銀髪の方だけだ」とか何とか言っていたような記憶がある。
 となると、エミール・ラクロワはかなり怪しく見えてくるが。
 昨日外出に誘ったのは彼だし、襲撃に対してもずいぶんと余裕綽々だった。彼自身が命じたのであれば、落ち着いていられたのも当然だ。

「彼が、黒幕か……?」
 ルーカスは声に出して呟いてはみたが、どうにも違和感がある。彼が罠を仕掛けたのであれば、いささか雑過ぎるのではないだろうか。まるで、自分を疑えと言わんばかりだ。
 アシュレイも、エミール犯人説はどうも頷けないらしい。
「昨日、あなたを仕留められたらそうかもしれなかったですけどね。彼ら、はっきり言ってただのごろつきですよ。まあ、あなたを外見で判断して、雑魚でも五人もいれば充分だとでも思ったなら別ですが」
「いや……ラクロワはもう少し周到だろう。こんなふうに、しくじった時に自分が疑われるようなことはするまい」
「ですよね。彼らに接触してきたのは、『身なりの良い金持ちそうな男』だったそうですが、どうも、ラクロワ氏よりも年長のようです。まあ、普通は誰か人を使うと思いますけど」
 そう言って、アシュレイはヒョイと肩をすくめた。
「彼らもあまり賢そうではないですし、声をかけられた時には酔っ払っていたとのことですから、これ以上のことは判りそうもないです。一応、それぞれに見張りはつけてますけどね」

 残念ながら、この方向は行き止まりか。

 落胆したルーカスに、アシュレイが明るい声をかけてくる。
「で、こちらの方はイマイチな成果でしたが、今晩足をお運びいただいたのはもう一つあるからなんですよ。実は、そちらの方が本命で」
「本命……?」
「ええ、少々お待ちを」
 そう言って、アシュレイは席を立ち、奥の扉へと消えていく。クライブに目を向けたが、彼も何も聞かされていないのか、無言でかぶりを振った。

 待つことしばし。
 やがてアシュレイが戻ってくる。その背後に、四十路と思しき小柄な女性を従えて。

「そちらの方は?」
 眉をひそめたルーカスに、アシュレイがにんまりと笑う。
「彼女はドロテ・バルべ。フィオナ嬢の――なんと、侍女をしていた方ですよ」
「侍女!?」
 つまり、幼少期のフィオナを知る人物ということか。
「ようやく見つけましてね。一昨日こちらに来ていただいたばかりです。お知らせしようと思っていた矢先に、今回のことで」
 言いながら、アシュレイはドロテをルーカスの前に座らせた。

「あなたが、フィオナ――ベアトリス嬢の、侍女……」
 信じられない思いで呟いたルーカスに、ドロテが頷く。ふくよかで、茶色の目が優しげな女性だ。
「はい。ベアトリス様、いえ、皆様はフィオナ様とお呼びなのですね。フィオナ様がヨチヨチ歩きの頃からお世話をさせていただいておりました。お小さい頃は乳母として、お嬢様が大きくなってからは侍女として……あの、お嬢様がお戻りになられたと、お聞きしたのですが……?」
「ええ。グランスに連れてこられた彼女を、私が所属している警邏隊が救出しました。まさかフランジナの方とは思わず、トラントゥール家の令嬢だと判明するのに三年もかかってしまいましたが。ご両親も、彼女がご息女のベアトリス・トラントゥールと認めておられます」
「まあ」
 ドロテはひと言こぼし、目をしばたたかせた。そして、かすれた声で呟く。
「ご無事、だったのですね。お嬢様がいらっしゃらなくなって、私はすぐにお暇を出されてしまって、どうなったのかわからずじまいで」
「すぐ?」
 問い返したルーカスに、ドロテが頷く。
「はい。お嬢様がお散歩に行かれたまま戻ってこられなくて、その翌日には次の働き口を見つけておいたから、と」

 翌日。
 それは、少々早過ぎはしないだろうか。まるで、もう二度とフィオナが戻らないとでも思っていたかのようだ。

 深く眉間にしわを刻んだルーカスだったが、不安そうに彼の顔色を窺っているドロテに気付き表情を改める。
「ああ、失礼。で、小さい頃のフィオナ――ベアトリス嬢は、どんな子だったのだろう」
 ホッとしたようにドロテが頬を緩め、微かに遠い眼差しになって語り出す。
「とても……とても物静かで、あまりお声を上げる方ではありませんでした。時々小さなお声でお歌を歌われるのですが、とてもお上手なのに、誰か――私でも、人が来るとすぐに口を閉じてしまうのです。お優しいお嬢様で、庭に迷い込んだ仔猫などを見かけると放っておけなくて。他のご家族に見つかると取り上げられてしまうので、いつも、ご家族がいらっしゃられない庭の奥の方でお世話をされて。いつも私が引き取り手を見つけてまいりました。手放されるときには、大きなお目を潤まされるのですが、絶対にお泣きにはならないのです」
 ルーカスの脳裏には、その様がまざまざと浮かんだ。
 すらすらとフィオナのことを語るドロテは、きっと、彼女のことを慈しんでくれていたのだろう。
 叶うことなら一晩中でもドロテの話を聞いていたいところだが、そうもいかない。
 手掛かりになるようなことも訊いておかなければ。

 ルーカスは、これまでの話を軽く思い出して、問いを考える。
「彼女は散歩をしていて攫われたのだと聞いているが、日課だったのかい?」
「いえ、殆ど外に行かれませんで、ほぼお屋敷の中だけでの日々でした。お屋敷で催しが開かれましても、お部屋におられることが殆どで」
 つまり、滅多に人目に触れることがないということは家人以外との接点はほぼなく、フィオナに個人的に執着している者など存在しない。滅多に行かない散歩でたまたま通りがかりの悪人に拉致されてしまっただけ、ということなのか。

(それは、確率としてどうなのだろう)
 とうてい、ルーカスには納得がいかない。何かがある、誰かがいるはずだ。

「ドロテは、エミール・ラクロワという人物とオーギュスト・アランブールという人物を知っているかい?」
「ラクロワ様は存じ上げません。アランブール様はだんな様が開かれるカードの集まりによく来られていました」
「どんな人?」
「特に印象は……穏やかな方だったと存じます。ああ、奥様の方が、はっきりされた方で。一度、トラントゥールのお屋敷で開かれた催しでご夫婦で何か言い合いをされていて、アランブール様を皆様の前で扇子で叩かれて。あれは私どもも驚いたので、よく覚えております。記憶にあることと言えば、そのことくらいでしょうか」
「その、フィオナと仲が良かったりは……」
 ルーカスの問いにドロテは少しばかり考える素振りを見せ、すぐにかぶりを振る。
「いえ、そのようなことはないと存じます。少なくとも、私がお傍にいる時にあの方がお声をかけてきたことはありませんし」
「そうか。ありがとう」
「いえ、あの、お役に立てましたでしょうか?」
「ああ。お話をうかがえてとても良かった。できたら、彼女の小さい時のことをもっと聞きたいね。さぞかし可愛らしかっただろう?」
 そう言ってルーカスが微笑むと、ドロテも控えめな笑みを返してきた。
「ええ、それはもう」
 頷きながら、ドロテは何か言いたそうに口を開きかけた。が、結局再びつぐんでしまう。
 彼女が口ごもったことが気になったが、無理強いしても訊き出せないだろう。
「また、お会いしたいね。今度はフィオナ――ベアトリス嬢と一緒に」
「ぜひ」
 そう言ったドロテの微笑みは、心の底からのもののようだった。
「じゃあ、夜も遅いし、ドロテさんには休んでもらおうか。部屋に案内してきますよ」
 アシュレイは丁重な所作でドロテを促し、また扉の奥へと消えていく。

 扉が閉まり、足音が遠ざかっていくのを待って、ルーカスはクライブに目を向けた。
「さて、どう思う?」
 問われたクライブはしばし考えこみ、そして口を開く。
「フィオナ嬢は、どうして散歩に出たのでしょう」
「やはり、そこか。私も、気になった」
「散歩に出かけたことは、事実なのでしょうか」
「どうだろうな。体裁を繕うためにそう言ったのか、あるいは……」
 ルーカスは皆まで言わずに口をつぐんだ。
 その考えは、非常に胸が悪くなるような話につながっていきかねない。
 だが、実際のところ、その『胸が悪くなるような考え』はドロテの話を聞く前からルーカスの胸の中に靄のように漂っていたものだ。それが、形を取り始めたに過ぎない。

「クライブ」
 静かな声で呼びかけると、彼は底知れぬ湖のような眼差しを向けてきた。
「フィオナから、けっして目を放さないでいてくれ」
 その台詞で、きっと、ルーカスの懸念も伝わったのだろう。
 クライブは、声は出さず、深々と頷いた。
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