悩める子爵と無垢な花

トウリン

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フィオナの笑顔

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 確かに、今日はいい天気だ。

 静かに走る馬車の上、手綱を握る御者の隣に座ったルーカスは、その晴れ渡った青空とは裏腹の気分で声を出さずに呟いた。

 そう、空は高く澄み、爽やかな風がそよぎ、道の両側に植えられた街路樹の葉は黄や紅に彩られている。
 確かに、散策にはもってこいの日和だ。エミールが用意してきたのは開放型の二人乗りの馬車で、この心地良さを遺憾なく堪能できる。
 ルーカスの背後から聞こえるのはほとんどエミールの声で、社交界のことやら旅行先での出来事やらを面白おかしく語っている。時折混じるフィオナの小さな笑い声は、素直に楽しそうだ。

 エミールは余程人あしらいが巧みと見えて、チラリと肩越しに振り返って窺ったフィオナからは、トラントゥール家の応接間でみなぎっていた緊張がすっかり消え失せていた。
 フランジナに来て以来曇りがちだったフィオナの表情が晴れ晴れとしていることは嬉しいが、そうさせているのがこの侯爵家次男であることは気に入らない。

(彼が来た理由は、何だ?)
 状況が状況だ。
 どうしても、ルーカスはこの突然の訪問について勘ぐってしまう。

 このエミール・ラクロワという男は、一昨日の舞踏会でルーカスとクライブがフィオナ誘拐の黒幕として目を付けた人物のうちの一人だ。その根拠はほとんどないに等しいとしても、多少の疑いを抱いていることには違いがない。
 一見無害そうなのだが、エミール・ラクロワという男は妙にルーカスの気に障るのだ。
 気安くフィオナに触れるのも気に食わないが、特に引っかかるのは、彼女に向けるエミールの眼差しだった。そこには、『美しい女性』への称賛以外の何かが――『フィオナ個人』に対する興味関心が見え隠れしているような気がしてならない。

 もちろん、後ろ暗いことなど皆無で単純にフィオナの美しさに惹かれたのだ、ということは充分にあり得る。実際、一昨日の舞踏会が実質的なフィオナの社交界への初お披露目となったわけだが、昨日から今日にかけて、トラントゥール家には訪問やら観劇の誘いの手紙やらが次から次へと舞い込んできていると聞いた。
 それらがフィオナの元に届いていないのは、どれも皆アデライドが握り潰しているからだ。善意からではないだろうが、ルーカスにとっては都合がいい。

(普通は、そうやって先に許可を取るものだろう)
 エミールが語る言葉一つ一つに気を向けながら、ルーカスは憮然とぼやく。
 未婚の女性とひと時を共に過ごすためには、まず親や後見人から許可を取り、行先と日取りを決め、当日は付き添いという名のお目付け役を同席させるのが鉄則のはずだ。
 そこは、グランスでもフランジナでも大差がないに違いない。
 それを、背後で屈託なくフィオナを笑わせているこの男は、全部すっ飛ばした。
 もしもエミール・ラクロワも同じように手順を踏んでくれていれば、同じようにアデライドが防壁になってくれていたに違いない。礼儀知らず以前に、きっとそうする必要などないと思っているのだろう。

 以前にアシュレイ・バートンが、フランジナの貴族は身分が上になればなるほどやりたい放題だというようなことを言っていたが、つまり、こういう行動に表れるのだ。相手の都合など斟酌せず、自分がやりたいと思ったことを実行する。そしてそれが当然通ると信じて疑わない。このエミール・ラクロワも、人の好い好青年に見えて、一皮むけば傲慢な貴族がお出ましになるはずだ。
 フィオナが人前に出るほど――彼女のこの美しさが知れ渡るほど、エミール・ラクロワのような輩も増えるに違いない。
 万が一、その中の一人が求婚でもしてくれば、トラントゥール家の面々はどうするだろう。

(金になると思えば、さっさと投げ与えるだろうな)
 特にアデライドの、『求婚者』に対して涎を垂れ流しながら手もみをする様がルーカスの脳裏にはまざまざと浮かぶ。
 例の黒幕以外にフィオナを求める者が現れたとして、ルーカスが間に入る隙を与えてくれたらいいが、気付いたら翌朝彼女の姿が屋敷になかった、という羽目に遭遇しかねない。
 フィオナが社交界に出ればこうなることは充分に予測されて然るべきことだったが、黒幕を探すことに気を取られてすっかり失念していた。あるいは、ルーカスにとって大事なのはフィオナという存在そのものであるから、外見を晒すだけでこれだけの魚を引き寄せることになるであろうことを忘れ去っていたのだとも言える。

(外見だけで、これなのだから……)
 実際にフィオナと接し、その内面を知ったら、更に彼女に執着する者が増えてしまうに違いない。そんな鬱陶しい事態は、想像すらしたくなかった。
(そうなる前に、さっさとグランスに帰ってしまいたいよ)

 何故か娘に冷たい見栄ばかりの母。
 家族に目も向けない父。
 賭け事と酒にふける兄。
 あからさまに妹を見下している姉。
 ――まったく、こんな、慮る価値のない家族の為にフィオナをここまで連れてきてしまったことが悔やまれる。家族は見つかったが死んでいたとでも言っていれば良かった。
 思わず、ルーカスの口から重いため息がこぼれた。
 と、すぐさまフィオナが気遣いに満ちた声をかけてくる。

「ルーカスさん?」
 振り返ると、声と同じほどに彼を案じる色をにじませたフィオナの眼差しがあった。
「ああ、ごめん。何でもないよ。あんまり気持ちが良いから」
 微笑みながらルーカスがごまかせば、彼女の表情も和らぐ。基本、フィオナは彼の言葉を一文字たりとも疑わない。
 フィオナは顔に受けるそよ風に目を細めた。陽だまりの仔猫のようなその仕草はとてつもなく愛らしい――他の者がいる場では、見せて欲しくないほどに。

「そうですね。本当に、気持ちが良いです。誘ってくださってありがとうございます、ラ――エミールさま」
 また彼の名前を言い換えつかえたフィオナに、エミールは彼女の黒髪をひと房すくって口付けた。お目付け役であるルーカスなどまるで気にしていない様子が、妙に癇に障る。彼がいてもこうなのだから、二人きりで送り出していたら何をされていたか判ったものではない。

 エミールは唇からは離しこそすれ、彼女の髪を愛でるようにもてあそびながら言う。
「呼び捨てでも構わないのに。まあ、それは追い追いでいいか。君がその笑顔を見せてくれるなら、勇気を振り絞って誘った甲斐があったというものだ。舞踏会の日は少し元気がないように見えたから、何か気分が明るくなることをと思ってね。本当は昨日誘いに来たかったのだけど、流石に出会って翌日にというのは急ぎ過ぎだろうし、我慢したんだ」
(たった一日で『我慢』か?)
 得意げなエミールに、胸の内で突っ込みながら、ルーカスは彼に探りを入れる。
「あなたは以前にもフィオナとお会いになったことがあるそうですが?」
「ん? ああ。彼女が療養に行く前の、本当に直前のことだったかな。姉上のコンスタンス嬢の誕生会が開かれてね、そこでフィオナと一度だけ踊ったよ。とても愛らしかったな」

 そこでふとエミールがフィオナを見る。

「君はずいぶんと変わったね」
 唐突に言われ、彼女は目をしばたたかせた。
「わたくしが、ですか?」
「ああ。でも、そうか。昔のことを覚えていないんだったね」
 そう言って、エミールはしげしげとフィオナを眺める。
「あの頃の君も尋常ではない可愛らしさだったのだけれどもね、なんというか、人形めいていたよ。外見が整っているという意味でなく」
「人、形……?」

「そう。私がダンスに誘っても頷いてくれなくてね、やってきた母上に小突かれて、応じてくれたんだ。何だか彼女にねじを巻かれたみたいだったな。踊りはとても軽やかだったけれど私が笑いかけてもニコリともしないし、話しかけてもハイ、ハイと頷くだけでね。今は……」
 言いかけ、エミールはフィオナに微笑みかける。と、彼女はおずおずとしたものではあるけれど、確かな笑みを彼に返した。
「ほら、こうやって可愛らしく笑い返してくれるし、私の言葉にもちゃんと反応してくれるだろう? もしかしたら、あの時からもう具合が悪かったのかな」
 小首をかしげてフィオナを覗き込むエミールに、彼女は顔をうつむける。
「すみません、あの頃のことは何も覚えていなくて……」
「謝ることじゃないさ。単に、あの頃も可愛かったけれども、今の方がずっと良いっていうだけの話だから。特に笑顔は最高だ。君が笑ってくれると、私の中に春の陽が射したように感じられるよ」
 臆面もなくそう言うエミールに、フィオナの顔が上がり、自然な笑みがそこに浮かぶ。

「ほら、やっぱり可愛い。君もそう思うだろう、アシュクロフト君?」
「そうですね」
 水を向けてきたエミールに、ルーカスは愛想良くそう答えた。
 しかし、この程度で満足している彼を、ルーカスは腹の中で嘲笑う。
 グランスでのフィオナは、日に何度となく、こんな微笑みなど比ではないほど明るく、笑っていたのだ。それこそ手を伸ばさずにはいられないほど、愛らしく。時には声を上げて笑うことすらあった――とても控えめなものではあったが。
(トラントゥール家の面々も、貴様も、それを見ることは叶わない)
 拝ませてたまるか、とルーカスは声には出さず付け加えた。
 そんなフィオナをエミールに見られたら、それこそ連れて帰ることができなくなるかもしれない。

 どれほど親らしいことをしていなかろうと、実際問題としてトラントゥール夫妻がフィオナの親で、彼女の身の振り方は夫妻が決めることができてしまうのだ。
 ひと言エミールがフィオナを欲しいと言えば、きっとそれは叶えられてしまう。
 彼に限らず、彼女に群がる連中が増えるほど、その危険は増していく。そうなる前に、一刻も早くグランスへ帰りたいところだが。
 コンスタンスに目をつけられている手前、ルーカスが求婚するわけにもいかないのが厄介なところだ。最終的にはそうするつもりではあるが、まだ、いつここを離れられるかも判らない状況だ。うかつにコンスタンスの見栄を逆撫ですれば、その怒りは全てフィオナに向いてしまう。

(アシュレイの言う通り、この国にフィオナを連れてきたことで黒幕の彼女への執着を掻き立ててしまった可能性はどれだけあるだろう)
 家族は気に掛ける価値のない連中だと判った以上、残る問題はそこだけだ。
 現状、まだ何も動きは見られず、アシュレイ・バートンからも目ぼしい報告はない。
 問題を解決するために遥々海を越えてきたというのに。

 守りになってくれると思っていた家族は、むしろフィオナの敵だった。
 フィオナを狙っているかもしれない輩を狩り出そうとしたら、余計に彼女を狙う男を増やしてしまった。

 まったく、諸々うまくいかないものだ。

 ルーカスはまたこっそりとため息をついた。
 フィオナの記憶を取り戻したいと思ったのは、ある意味ルーカスの自己満足の為だ。彼が彼女の全てを手に入れたいと思ったから。

(余計な欲はかくものじゃないな)
 胸の中でそうぼやいた、その時。

 ヒュッと、鳥が仲間に危険を報せようとするような鋭い音が、ルーカスの耳に届けられた。
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