悩める子爵と無垢な花

トウリン

文字の大きさ
上 下
34 / 59

訪問者

しおりを挟む
「お嬢様、お客様がいらっしゃいました」
 図書館で読むともなしに本を広げていたフィオナは、メイドからそう告げられた。
 トラントゥール家の本棚の中身はあまり豊富ではないけれど、庭に次いで家人があまり足を踏み入れない場所だ。記憶を想起させるべく、普段はフィオナもできるだけ家族に声をかけたり家の中を見て回ったりしているけれど、どうにも疲れてしまった時には庭か図書室かで気持ちを仕切り直している。
 今日も今日とて、母に声をかけ、木で鼻を括るような言葉を返され、姉に声をかけ、うんざりしたような嗤いを返され、父に声をかけ、気のない頷きを返され、少し前にこの図書室に辿り着いたところだ。ちなみに、兄は昨晩帰りが遅かったとのことで、昼を過ぎた今でもまだ顔すら見ていない。

「お客さま……?」
 誰だろう。
 この国に、個人的な知り合いはいないはずなのに。
 本を膝の上に開いたまま戸惑いの眼差しを向けたフィオナに、メイドは続ける。
「エミール・ラクロワ様です」
 名前を聞いてもまだ心当たりがなく、フィオナは眉根を寄せる。と、思い出した。二日前の舞踏会で言葉を交わした人だ。帰りの馬車の中で彼と話したことを母に告げたら侯爵家の人だと教えられ、何か粗相をしなかったかときつく問い詰められたことの方が、記憶に濃い。

 ほんの束の間、会話を交わしただけの人だ。暗がりだったから、はっきりと顔も覚えていない。
 そのエミール・ラクロワが、いったい何の用だろう。

「その、ご用件は、何て……?」
「存じ上げません」
 メイドの返事はつれないものだったけれども、考えてみれば当然か。
 トラントゥール家の者は、使用人に余計な口を利くことを許さない。主が何か言えば、ただただそれに従うだけ、理由や意図を問うことなどもっての外だ。
 ましてや、侯爵家の人だというエミール・ラクロワに対して使用人の方から用向きを確認することなどするはずがないし、彼の方から男爵家の使用人に細かく説明などするはずがないだろう。

 あの晩、何か無礼でも働いてしまったのかと不安に駆られつつ、フィオナは本を閉じて立ち上がる。
「どちらでお待ちいただいているのですか?」
「応接間です」
「ありがとう」
 微笑んで礼を言うと、メイドの眉がピクリと動いた。
 本当は、使用人に命令以外の声をかけるなど、貴族としてするべきではないらしい。アデライドには眉を逆立てられ、コンスタンスには鼻で嗤われた。けれど、フィオナは何かをしてもらったら必ず礼の言葉を口にするようにしている。そうする方が人として正しいことだと思うし、フィオナ自身、ケイティや隊員たちがくれる『ありがとう』がとても嬉しかったから。

 図書室を出て、先に立って案内をしてくれるメイドについて歩いていると、廊下の向こうからルーカスが現れた。彼はフィオナに気付いて足早に近寄ってくる。
 彼女の前に立ったルーカスは、一人だった。傍にコンスタンスの姿がないのは珍しい。
 無意識のうちに周囲に目を走らせてしまったフィオナに、ルーカスがクスリと笑う。
「彼女ならいないよ。で、フィオナ、君にお客さんが来たって?」
 フィオナはパッとルーカスを見上げ、頷いた。エミールは良い人そうだったけれども、二人きりで会うのは不安だった。もしも彼が同席してくれるなら、心強い。
「はい。舞踏会でお会いした方で……」
「ラクロワ侯爵の次男、だよね?」
 フィオナを促し再び歩き出したルーカスが確認するように問いかけてきた。
「はい」
 何となく彼らしくない乱暴な言い方だったけれど、確かにその通りなのでフィオナはまた首肯する。
「何の用か、聞いた?」
「いいえ」
「そう」
 短く答えたルーカスは、妙に渋い顔をしていた。

「どうかしましたか?」
「え? ああ、いや、何をしに来たんだろうな、と」
 そう言って、彼は取り繕うような笑顔になる。が、やはり疑問以外の何かがありそうだった。
 ルーカスは何を気にかけているのだろうと思いつつ、それを確認できないうちにフィオナたちは応接間に着いてしまった。
 中に足を踏み入れると、窓際で外を眺めていた豪奢な金髪の男性がクルリと振り返る。

「やあ、フィオナ。今日も綺麗だね。ああ、フィオナ、で、いいよね?」
 大股なのに優雅な足取りでフィオナの前にやってくると、エミールが首をかしげてそう訊ねてきた。
「……はい」
 呼んだ後に問われても、同意以外の返事はできないと思うのだけれども。
 フィオナはそう思いつつ、頷いた。と、エミールがパッと満面の笑みになる。
「良かった。堅苦しいのは嫌いなんだ。私のこともエミールと呼んで欲しいな」
 フィオナに微笑みかけながら彼女の手を取ったかと思うと、エミールは流れるような所作でその指の背に口付けた。挨拶ならばすぐに放してくれると思ったのに、彼はそうするどころか逆にしっかりと彼女の指を握り込んでしまった。そうして、目の高さが同じになるくらいで腰を屈めて、真っ直ぐにフィオナを見つめてくる。
 萌え始めた若葉のような瞳の色は、やはりケイティと良く似ている。けれど、彼女の眼差しは朗らかで包み込むようだけれども、彼のそれは、何というか、もっと圧のようなものを感じさせた。

「あ、の」
 その視線の強さに戸惑い思わずフィオナが声を漏らすと、不意に彼はにこりと笑った。途端に雰囲気が一変する。そこで、この場にいるもう一人が声を上げた。
「それで、ご用件は何でしょうか?」
 まだフィオナの手を取ったまま、エミールが視線を横に滑らせる。その先にいるのは、もちろんルーカスだ。
「ああ、えっと、君は……誰だったかな?」
 確か二日前にもあいさつを交わしていたと思うけれども、エミールはまるでルーカスとは初めて会うような顔をしていた。そんな彼に、ルーカスは笑顔で名乗る。
「ルーカス・アシュクロフトと申します。フィオナの親しい友人です」
「へぇ、友人、ね」
「はい」
 二人とも笑っているはずなのに、何だか空気が冷たい気がする。

 フィオナは失礼にならないように心がけてエミールの手から自分の手を取り戻しつつ、問いかける。
「あの、ラク――」
 エミールの眉が片方だけ持ち上がった。
「え、と、エミール、さま」
 彼が満足そうに微笑む。
「何だい?」
「その……ご用件は、何でしょう」
 先ほどルーカスが口にし、結局答えは与えてもらえていない問いを、フィオナは繰り返した。
「用? ああ、一緒に散歩にでも行かないかと思って。約束しただろう?」
(した、かしら……?)
 提案はされたかもしれないけれど、同意は返していないような気がする。
 フィオナがおずおずとエミールを見上げれば、当然のように笑顔が返ってきた。

 ここで断るのは――やはり失礼になるのか。
 追い詰められたネズミの気持ちでフィオナが横のルーカスに目を走らせると、彼は口元だけの笑みをエミールに向けた。
「申し訳ありませんが、先日お伝えした通り、彼女は病み上がりなので」
 婉曲だけれども明らかな断りの返事に、しかし、エミールは平然と答える。
「ああ、だから馬車にしたよ。天気もいいしね、病み上がりならなおさら気分転換にいいじゃないか」
 引く気配は微塵もない。もう、彼の中ではフィオナが行くことは決定事項になっているようだ。

 今まで、フィオナの身の回りにこんなふうに強引にことを押し進めようという者はいなかった。警邏隊の人たちはいつだって彼女の意思を尊重してくれたし、そもそも拒むということをほとんどしたことがないから、拒み方が判らない。
 けれど、このまま黙っていたら、抱え上げられて馬車に乗せられてしまいかねなかった。
 馬車での散歩自体はともかくとして、ほとんど知らない人と二人きりで出掛けるなど、フィオナには無理だ。
(どうしよう)
 途方に暮れかけた時、隣から小さなため息が届く。

「判りました。では、私も同伴させてください」
 ルーカスの台詞に、エミールが眉をひそめる。
「え? 何で君が?」
「私は彼女の保護者でもありますから。供もなしに淑女を連れ回すなんて、紳士とは言えないでしょう?」
 また、冷やかな笑みがルーカスの口元に刻まれた。フィオナはあまり見たことのない、笑みだ。

 エミールはしばし渋い顔を続けていたけれど、やがて諦めたように肩をすくめる。
「まあ、いいか。フィオナが楽しんでくれるのが一番だからね。じゃあ、行こうか」
 屈託のない笑顔と共に手を差し伸べられたら、もう、フィオナに拒否することはできなかった。
 そっと横目でルーカスを窺うと、彼は「仕方がないね」と言わんばかりの苦笑を返してくる。
 確かに、断る理由もないし、仕方がない。
 フィオナは意を決し、すらりとしたエミールの手に指先をのせた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

【完結】お姉様の婚約者

七瀬菜々
恋愛
 姉が失踪した。それは結婚式当日の朝のことだった。  残された私は家族のため、ひいては祖国のため、姉の婚約者と結婚した。    サイズの合わない純白のドレスを身に纏い、すまないと啜り泣く父に手を引かれ、困惑と同情と侮蔑の視線が交差するバージンロードを歩き、彼の手を取る。  誰が見ても哀れで、惨めで、不幸な結婚。  けれど私の心は晴れやかだった。  だって、ずっと片思いを続けていた人の隣に立てるのだから。  ーーーーーそう、だから私は、誰がなんと言おうと、シアワセだ。

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

【完結】貴方の後悔など、聞きたくありません。

なか
恋愛
学園に特待生として入学したリディアであったが、平民である彼女は貴族家の者には目障りだった。 追い出すようなイジメを受けていた彼女を救ってくれたのはグレアルフという伯爵家の青年。 優しく、明るいグレアルフは屈託のない笑顔でリディアと接する。 誰にも明かさずに会う内に恋仲となった二人であったが、 リディアは知ってしまう、グレアルフの本性を……。 全てを知り、死を考えた彼女であったが、 とある出会いにより自分の価値を知った時、再び立ち上がる事を選択する。 後悔の言葉など全て無視する決意と共に、生きていく。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

愛すべきマリア

志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。 学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。 家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。 早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。 頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。 その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。 体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。 しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。 他サイトでも掲載しています。 表紙は写真ACより転載しました。

【完結】新皇帝の後宮に献上された姫は、皇帝の寵愛を望まない

ユユ
恋愛
周辺諸国19国を統べるエテルネル帝国の皇帝が崩御し、若い皇子が即位した2年前から従属国が次々と姫や公女、もしくは美女を献上している。 既に帝国の令嬢数人と従属国から18人が後宮で住んでいる。 未だ献上していなかったプロプル王国では、王女である私が仕方なく献上されることになった。 後宮の余った人気のない部屋に押し込まれ、選択を迫られた。 欲の無い王女と、女達の醜い争いに辟易した新皇帝の噛み合わない新生活が始まった。 * 作り話です * そんなに長くしない予定です

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

処理中です...