悩める子爵と無垢な花

トウリン

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闇にうごめく影

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 彼女が、帰ってきた。

 この三年――いや、もうじき、四年。
 金に糸目をつけずフランジナ中を探させたが彼女の居場所は杳として知れず、いったいどこでどんな目に遭っているのかと案じるあまり、彼は気も狂わんばかりだった。
 フランジナ国内であれば、小さな村から都市の寂れた娼館まで、二度、三度と捜索させたというのに。

「まったく、グランスか……」
 腹立たしい思いで彼は呟いた。
 よもやようやく国交が回復したばかりの国に連れて行かれていたとは、思いも寄らなかった。しかし、考えてみればデリック・スパークは元々グランスの人間だ。考えつかなかった彼の方が、鈍かったのかもしれない。
 まったく、実に、腹立たしい。デリック・スパークにも、愚かな自分自身にも、業腹だ。

 だが、とにかく、彼女が帰ってきたのだ。
 これで、ようやく再び始められる。
 彼は、薄闇の中でひっそりと微笑んだ。

 舞踏会で久方ぶりに見た彼女はやや表情が優れなかったが、美しい青い瞳の中に四年前の誘拐の傷跡は見受けられなかった。それだけが、救いだ。彼女の目を覗き込んで、もしも虚ろな空《うろ》がそこにあったなら、彼はどれだけ悔やんでも悔やみきれなかったことだろう。
 けれど、彼女の眼には澄んだ輝きがあり、彼は、彼女を彼女たらしめている美徳は何一つ損なわれていないということを読み取った。

 彼は部屋の中央に立ち、グルリと首を巡らせる。
 灯りはともしておらず物の形をはっきりと見て取ることはできないが、もう何度も足を運んで室内の全ては記憶に深く刻み込まれているから、高い位置につけた窓から入る月明かりで充分だった。

 ここは、念入りに設えさせた、彼女を守るための、鳥籠。
 ここに、彼女がいるはずだった――四年前から。
 ここで、針の筵のあの家にいるよりも遥かに幸せにしてやろうと、思っていた。

 内装は、彼女の無垢さに相応しく、何もかも純白で整えた。この中に、彼女の艶やかな黒髪、鮮やかな紺碧の瞳はさぞかし映えるだろう。その様を想像するだけで、彼は陶然としてしまう。

 叶うことなら、今晩彼女をこの場所に連れてきてしまいたかったが、グランスから付いてきているという厄介なお目付け役が傍にいたから、自制した。まずはあの男をどうにかしなければいけない。
 だが、何をどうしたら良いものか。

 彼女が戻ってきたことで彼らにはどういうことかと詰め寄られた。たとえ前回以上の金を積んでも、二度目の協力は望めないだろう。
 今度は、自分の手で全てをしなければ。
 手段はまだ模索中だが、デリック・スパークのような男の手を再び借りる気にはなれない。

 四年前、彼女の身を無事に確保したという連絡を最後に消息が途絶えた時、彼は我が身を責めた。あんな輩に任せたことが、間違いだったと。しかし、あれほどの金を積んだのだから、よもや裏切るまいと油断してしまったのだ。
 待ち合わせていた場所にデリック・スパークは現れず、三日ほど待ってさりげなくトラントゥール家に探りを入れると、下の娘は病でよそに送られたという噂話が耳に届いた。

 嘘だ。

 すぐにそう思ったが、その嘘の理由が解からず、彼は、家人に真偽を問いただすことができなかった。

 捜索の手は方々に伸ばしていたが、何ら手掛かりのないまま、四年。
 そして、戻ってきた彼女。

 その帰還を伝え聞いた時、この四年間で、きっと彼女はこの部屋に相応しい無垢さも清らかさも失ってしまったに違いないと、ほとんど諦めていた。
 だが、今夜、四年前と何ら変わらぬ彼女が目の前にいたのだ。あの頃と同じようにはかなげな、はにかむような笑顔が、あった。

 それを向けられた瞬間、彼の胸には感動が込み上げた。
 嬉しかった。
 そして、神に感謝した。彼の元に再び彼女を戻してくれたことに。彼女を彼女のままで返してくれたということは、お前が彼女を守れという神の思し召しなのだと、痛感した。

 まだフランジナの社交界に出る前の彼女は、清楚でいとけなく、純真無垢だった。
 そのかつての彼女と何一つ――いや、変わったところもある。以前と変わらず可憐で愛らしく、だが、今の彼女は数年の年月で失せた幼さの代わりに、咲き誇る百合のような優麗さを手に入れていた。
 もしかしたら、その身体には、汚れを受けてしまったのかもしれない。
 だが、それも全て彼のせいだし、仮にそうだとしても、彼女の本質は何ら変わっていないのだ。

(大丈夫、君がどんな傷を負っていようとも、私が全て癒してあげるから)
 彼は、彼女の為に用意させた真白のドレスの裾に口付ける。四年前に作らせたものは全て廃棄させ、至急、新たにあつらえさせたものだ。三日で仕上げさせたが、金に物を言わせればたいていのことは通る。
 彼女とて、例外ではない。

(今度こそ、手に入れる。手に入れて、みせる)
 そして、何ものにも毒されないように絹の褥の上で真綿で包み込み、清らな彼女を守り通してやる。
 そう、社交界に溢れる厚かましく驕慢で傲慢な女どものようには、させない。そうなる前に、早く、ここに連れてこなければ。

 彼は決意を新たに拳を握り込む。
 と、その手の中にドレスの裾を捉えていたことを忘れていた。見れば、まっさらな白はそのままに、しかし、醜いしわが寄っている。
 彼は眉をひそめてドレスを取った。
 これはもう、彼女には着させられない。
 とても似合うと思っていたのに、残念だ。

 彼はため息を一つこぼすと名残惜しく室内を見渡し、ドレスを手にして部屋を出た。
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