悩める子爵と無垢な花

トウリン

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フィオナの望み

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 フィオナの眼を捉えて覗き込み、ルーカスは噛んで含めるように言う。
「いいかい、フィオナ。私は君のことがとても好きだよ。ケイティも、隊長も、他の隊員たちも、ウィリスサイドの街の人たちもね。それは、知っているよね?」
「ルーカスさん……ええ……はい」
 最後の頷きは力があって、ルーカスはホッとする。
「皆、フィオナのことをよく知っているから、君のことを好きなんだ。君のことを知っていて嫌いになる人の方が珍しいよ」
 実際、まだケイティのように手際良くは動けないが、事件の被害者などでフィオナのおっとりとした優しさに癒される者は多い。ただ手を握っていてくれた、黙って話を聞いていてくれた、それだけで気持ちが安らいだ、と、何度感謝の言葉を受け取ったことか。

「君は、皆から愛される人だ」
 きっぱりと断言すると、フィオナの眼が揺れた。

「でも、それなら、どうして……」
 今度は、最後に行くほど声から力が抜けていく。

 ――どうして、実の家族は自分のことを嫌っているのか。
 フィオナが言いたいことは言葉にされずとも伝わってきて、ルーカスは、ついに彼女を腕の中へと引き寄せた。
 そんなことはないと言ってやりたくても、フィオナがこのトラントゥール家の中で異質な存在であることは、目の当たりにした事実なのだ。ルーカスは、彼女に対して口先だけのごまかしを吐きだすことはできなかった。
 しかし、どうしてフィオナに対して彼らはあんな態度を取るのか。貴族は家族の間柄が冷え切っている者が多いとは言え、フィオナに対してだけというのが引っかかる。

 確かに、ウィリスサイドに来るまでのフィオナがどんな少女だったのかは判らない。根本的な性格が記憶の有無で正反対なものになるとは思えないが、もしかしたら、家族の手に負えないようなわがまま娘だったのかもしれない。
 だが、それにしても、当時のフィオナはまだ十三、四歳の子どもだ。家族が見放すには早過ぎるのではなかろうか。
 何か、隠れた事情があるとしか思えない。その事情は、もしかしたら、フィオナが拉致されたことにもつながるのかもしれない。

 いずれにせよ。

(どう考えても、彼らの方がおかしい)
 ルーカスは声に出してそう言ってやりたかったが、家族のことをけなせばそれはそれでフィオナは心を痛めるに違いない。
 苛立つルーカスの腕の中で、力加減を誤れば砕いてしまいそうな華奢な身体に束の間力がこもり、そして柔らかになる。身を委ねてきたフィオナに、途端、するりと彼の心が凪いだ。
 昔、まだ出会って間もない頃、夜になるとうなされるフィオナをこうやって抱き締めた。久方ぶりに取り戻した、腕にすっぽりと収まる彼女のその温もりの心地良さに、ルーカスは思わずため息をこぼしそうになる。

 叶うことなら、死ぬまでこうしていたい。

 状況も忘れてそんなことを考えたルーカスの胸元で、フィオナが囁く。
「助けてもらってから、しばらくの間、わたくしは人と関わることを怖いと思っていました。何も、何一つ判らなくても、ただそれだけははっきりと感じていました」
 そこで彼女の声は一度途切れたが、ルーカスは何も言わずに待った。

 ややして。

「人の眼が向けられるのが怖くて、何かを問いかけられても答えるのが怖くて、ケイティやルーカスさんが優しく笑いかけてくださっても、怖くて。最初は、攫われたからだと思っていたんです。でも、そのうち、そうじゃないと思うようになりました」
 腕の中の微かな動き、そして束の間温かくなった胸元で、フィオナがため息をついたことが判った。ルーカスは、気持ち彼女を抱く力を強める。励ましの意を込めて。
 フィオナはしばし口を閉ざして、また、思いを吐露し始める。
「あの頃わたくしが恐れていたのは、何か危害を与えられることではありませんでした。わたくしは、人から……微笑みかけてくれるケイティやルーカスさんから疎まれることが、怖かった。どれだけ優しくされても、その好意を信じられなかったんです。自分が、それを与えられるにふさわしい人間だとは、思えなくて」

 そんなことはないと、ルーカスは言いたかった。
 君は、彼らが与えるよりも多くの、その何倍もの優しさ、好意に、値する人間だと。
 だが、言葉を発することでせっかく綻びたフィオナの口を塞いでしまいそうで、ルーカスはグッと奥歯を食いしばる。

 そんな彼の胸元から、ポツリと。

「わたくしは、帰ってもいいのでしょうか」

 頼りなげな、呟き。
 彼女が求める場所がここではないことは――グランスのウィリスサイドにあることは、言われずとも判った。

「もちろんだ。ケイティなんて、泣いていたじゃないか。隊長だって、ああ見えて本当は引き留めたかったんだよ」
 ルーカスは間髪を容れずに答えた。そして頭をかしげてフィオナに問いかける。
「君が帰りたいなら、明日にでもそうするよ。帰りたいかい?」
 彼の誘いに、フィオナはしばし置いてから、そっと頷いた。
「帰りたいです。できることなら、今すぐにでも」
「なら――」
 帰りの手配など簡単なものだ。
 即座に「準備するよ」と言おうとしたルーカスの胸元で、フィオナが顔を上げた。彼女は今夜の会合の中で初めて、自ら彼と眼を合わせてくる。
「でも、まだ、帰りません。あそこには、『帰り』たいんです。逃げるための場所には、したくないです。今、ここを立ち去ったら、それは逃げになります。」
 目の輝きが、いつものフィオナのものに戻る。ルーカスは束の間それに見惚れた。

「わたくしはグランスへ帰ります。でも、まだ、諦めたくはありません」

 諦めたくないのは、記憶か、それとも、家族との和解か。
 いずれにせよ、そうやって何かを求める強さは、きっとこの三年間でフィオナが手に入れたものなのだろう。

「そうか」
 頷き、ルーカスは微笑んだ。彼が知るフィオナに逢えたことと、彼女の中ですでに選ぶ道が決まっていることへの安堵で。
 いずれ、フィオナはルーカスと共にグランスへ『帰る』。そう、彼女の居場所はここではなく、グランスの、ルーカスの隣なのだ。

 思いがけないところでフィオナの本心を確認できたルーカスは、満たされた思いで笑みを深めた。と、そこで、腕の中の彼女から力が抜けていることに気がつく。気持ちを吐き出してホッとしたのか、どうやら、ウトウトし始めたらしい。

「フィオナ、部屋に行こう?」
 そっと囁いても、返事がない。
 眠ってしまったのかと思いルーカスが抱き上げようとしたところで、睡魔のせいか少し舌足らずになった声が届く。

「もう少しだけ、ここにいたいです。……ルーカスさんとお話ができるのは、久しぶりな気がして……」
 そう言う間にもフィオナの呟きはますます不明瞭になっていき、力の抜けた身体は今や完全にルーカスの胸に委ねられている。

「……フィオナ?」
 抱き締めたまま呼びかけても、今度こそ本当に応答がない。どうやら、すでに戻れないほど深い眠りに落ち込んでしまったようだ。

(おいおい)
 ルーカスは、男の腕の中ですんなりと眠りに落ちてしまう彼女に、流石に少々心配になった。
 彼のことを信頼しきってくれているからこそであるのは重々承知だが。

 少しばかり腕を緩めて見下ろせば、安らかこの上ない無垢な寝顔がそこにあった。
「私はそんなに安全な男じゃないんだよ?」
 ぼやいてみても、当然、目覚めるはずもなく。

「まあ、いいか」
 取り敢えずもうしばらくの間は、人畜無害な男でいよう。

 ルーカスは胸の中で呟き、柔らかな目蓋、次いで薔薇の花びらのような唇に、そっとかすめるだけの口付けを落とす。幼い子どもにするようなそれだけでも満足できてしまう自分に苦笑しつつ、彼はもう一度フィオナの寝顔を見つめてから、ゆっくりと立ち上がった。
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