悩める子爵と無垢な花

トウリン

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月夜に咲く花

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 フランジナでの生活も三日目を終えた今、ルーカスはこの地にフィオナを連れてきたことを心底後悔し始めていた。
 その理由は、フィオナの拉致を指示した黒幕の正体の手掛かりが未だ何一つ得られていないから――ではない。それもあることはあるが、それよりも、彼女の家族であるこのトラントゥール家の面々のせいだ。

(まったく、こんなことになろうとはな)
 彼は与えられた部屋の窓際に立ち、月明りに照らされた中庭を見下ろす。けばけばしい装飾が溢れる屋敷の中で、鑑賞に耐え得るのはそこだけだった。
 煌々とした満月はそろそろ中空を過ぎようとしていて、普段夜が遅いルーカスでもそろそろ寝台に入ろうかという頃合いだ。だが、苛立ちが神経を逆撫でしていて、どうにも眠ろうという気になれない。

「フィオナ、私は間違えたのかもしれないな」
 苦い思いで、ここには居ない少女に向けて囁いた。

 ここに来てからのフィオナを思うと、彼の胸が痛む。

 三日。
 たった三日で、フィオナは幾分痩せてしまったようだ。肉体的に、だけでなく、彼女の中の何かもが。
 ここでは警邏隊詰所にいた時よりも良い食事が出ているはずだというのに、バラ色だった頬の丸みも色も薄くなってしまったように見えるのは、多分、ルーカスの気のせいではない。

 確かに、衣装、食事、部屋は、警邏隊の時よりも遥かに贅を尽くしたものになっている。
 だが、フィオナのここでの日々は、明らかに快適とは程遠いものとなっていた――あの、『家族』のせいで。

 両親のもとに置いておけば、安心して黒幕を探すことに専念できるとルーカスは思っていた。
 惚れた欲目を除いても、フィオナは愛すべき少女のはずだ。
 控えめで優しい物言いは人を和ませるし、微笑みは見た者を皆魅了する。
 家族もさぞかし彼女のことを慈しんでいたことだろう、帰ってくれば下にも置かない扱いをするはずだ。

 そのはず、だったが。

 ルーカスはグッと眉間にしわを刻んだ。
 母親のフィオナへの態度は、あからさまに兄姉に対するものとは違う。
 父と兄は彼女に無関心だ。
 そして姉はと言えば――

 コンスタンスのような女性のことを、ルーカスは良く解っている。社交界にはよくいる、自分以外の女が注目されることを良しとしない女だと。自分の美しさに自信を持ち、誰もが己にかしずくものだと信じてやまない。
 そんな彼女のフィオナへの態度は、血のつながった妹を慈しんでいるとはとうてい言えないようなものだった。
 恐らく、彼女は自分にはないフィオナの可憐な美しさを妬んでいるのだ。そして、上等な『獲物』であるルーカスの関心がほんの一瞬でもフィオナに向くことを、許さない。もしも彼がコンスタンスよりもフィオナを優先させるようなことがあれば、どんな些細な事でも即座に奪い返そうとするに違いない。
 そうなることが判りきっているから、ルーカスは、昼の間はコンスタンスにかかりきりにならざるを得なかった。そうしなければ、フィオナに矛先が向く。今のところ、言葉で露骨にコンスタンスがフィオナをけなす場面を目にしたことはないが、妹に向ける視線、かける声の端々に、彼女の気持ちがにじみ出ていた。

 フィオナが彼らに立ち向かう態度を見せれば、ルーカスも即座に対応を変えるつもりだった。しかし、トラントゥール家の者を前にすると、大蛇の前に出てしまった仔ウサギさながらに彼女は委縮してしまう。そして、踏みつけられズタボロにされるがままでいるのだ。
 彼女が戦う意思を見せないならば、ルーカスが動いても余計な波風を立てるだけだ。だから、彼は、しなだれかかってくるコンスタンスを受け止めざるを得ない。

(いったい、何なんだ?)
 ルーカスは苛々と爪の先で窓枠を叩く。
 フィオナほど人畜無害な少女はいないだろうに、母親と姉の態度はまるで彼女のことを異分子、いや、害悪扱いだ。フィオナが何か言おうとすれば冷やかな一瞥を投げ、身じろぎをするとこれ見よがしにため息をついた。
 だからフィオナは、口をつぐみ、膝の上で手を握り込む。

「あんなのは、本当のフィオナではない」
 ルーカスは唸った。
 ウィリスサイドにいた頃のフィオナは晴れた春の日の野原に咲く小さな菫のようだったのに――ようやく、そんなふうに笑ってくれるようになったというのに。
 今の彼女は、息をすることすら難しいように見えた。

 家族に対するフィオナのあの反応は、一朝一夕で身に染みたものとは思えない。
(今、彼らを前にすると口もきけなくなるのは、記憶を失う前もそうだったからではないのか?)
 自問の形をとってはいたが、ルーカスは、そう確信していた。きっと、胸の奥底にその記憶が残っているから、何もかも忘れた今でも彼らに対して声をあげられないに違いない。

 確かにコンスタンスの顔のつくりは『美しい』範疇に入るのだろう。それを自覚している彼女は、しなを作ってルーカスに婀娜っぽく笑いかけてくる。
 だが、正直、柔らかな笑みを作って彼女に応えることが、そろそろ難しくなってきていた。
 こんな状況では、とてもではないが、フィオナを一人残して出掛けることなどできやしない。思うように調査に出ていけないことも相まって、苛立ちばかりが彼の中に募っていく。

 もう何もかも放り投げてグランスに帰ってしまおうか。
 ルーカスは九割方本気でそんなことを考えた。さっさとグランスに帰ってすぐさまフィオナを妻にし、この国とのつながりを全て切ってしまおうかと。他人の手が触れたとなれば、例の男も彼女を追う気が失せるのではなかろうか、と。

 思わずため息をこぼした、その時。

「……?」
 ルーカスは、庭に向けていた目をふとしばたたかせる。

 中庭を彷徨う、白い影。
 ふわりと風に舞う花びらのような動きは現実離れした優雅なものだったから、一瞬、月の精の幻でも見ているのかと思った。
 眉をひそめて目を凝らし、すぐにルーカスはその正体を知る。

「フィオナ……?」
 呟くと同時に、彼は身を翻した。椅子の背に掛けておいた上着を掴み、部屋を出る。
(こんな時間にあんなところで、いったい何をしているんだ?)

 屋敷の者が目覚めたら面倒なことになるだろうが、幸いなことに無駄に金をかけた廊下には分厚い絨毯が敷かれており、全力疾走でも足音を吸収してくれる。

 中庭に出て彼女が進んでいた方向を目指して先を急ぐと、さほどかからず、微かな歌声が耳に忍び込んできた。
 フィオナの声、フィオナの歌だ。
 彼女がその歌を口ずさんでいるのを、ルーカスは幾度か耳にしたことがある。
 それは、過去を失ったフィオナの中に、唯一残されていたものだった。歌声を褒めたルーカスに、歌うと元気が出るのだとはにかんだ彼女がとても愛らしかったのを、覚えている。

 フィオナは噴水の淵に腰かけて、ルーカスに背を向けて池の水面を見つめていた。肩掛けを羽織ってはいるが、薄い寝間着に薄い肩掛けでは、明らかにこの冷やかな空気を防ぎきれていないだろう。そして、それ以上に問題なのは、華奢だが美しい曲線を描く身体の線も露わになっていることだ。
 たおやかな背中は月明かりの下でのみ綻ぶ花を思わせる――そう、誰でも簡単に手折れてしまう、繊細な花を。

(まったく、警戒心というものがないのか!?)
 ルーカスは奥歯を食いしばった。
 武骨だが行動は紳士な隊員たちに囲まれていたせいか、フィオナは男に対する免疫が皆無だ。その上彼女はルーカスのものであると皆が認識していた――認識させていたから、尚更だ。彼女に手を出す者など、いなかったから、男の怖さなどこれっぽっちも解っていない。
 しかし、ここはウィリスサイドの警邏隊詰所ではないのだ。どんな人間がいるか判らないというのに、夜中にあんな格好でフラフラするのは無防備過ぎる。

「フィオナ?」
 苛立ちを抱きながらも、彼女を驚かしてしまわないようにと、ルーカスは声を低めて呼びかけた。
 が、彼の気遣いは功を奏さなかったらしい。

 ビクンと細い肩が跳ね、フィオナが振り返る。ふわりと広がった黒髪は、月明りを弾いて銀粉を振りかけられたように輝いた。

「ルーカスさん、どうしてここに?」
 夜闇の中に白く浮かぶ小さな顔の中で大きく見開かれた彼女の瞳は暗い中でもほんの少しも色褪せず、碧玉のように輝いていた。何度見ても、ルーカスはその美しさに心を呑まれる。きっと、一生見慣れることはないのだろう。

「それは私の台詞だよ」
 言いながらルーカスがたしなめるように眉をひそめて見せると、フィオナの目が気まずそうに泳いだ。
 いたずらを見つかった子どものようなその所作に、彼は微笑みそうになる。

 フィオナとまともに対面できたのは、三日ぶりだ。
 たった三日だけだとは思えないほど、彼の胸が安堵の想いで満たされる。それは、まるで、失くしてしまっていた宝物をようやく探し出せた心持ちだった。
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