悩める子爵と無垢な花

トウリン

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フィオナの煩悶

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 ビクリと肩を跳ねさせた拍子に、飛沫がフィオナの腿を濡らす。息を忘れて振り返ると、いぶかしげに眉をひそめたルーカスがそこに立っていた。

「ルーカスさん、どうして、ここに」
 つっかえつっかえ問うたフィオナに、彼は一層眉根を寄せる。
「それは私の台詞だよ。君が庭を歩いているのが窓から見えたから……こんな時間に何をしているんだい? もう真夜中もとうに過ぎているよ?」
「あ、え、と、眠れなくて……」
 目を伏せ、フィオナはそう答えた。
 言わずもがなのその返事を聞いてもルーカスは相槌も打たずに佇んだままだったから、すぐに踵を返して去っていくのかと思った。けれど、数呼吸分ほど間を置いてから、彼はフィオナに近づいてくる。そうして拳一つ分ほどの距離を取ってフィオナの隣に腰を下ろすと、自分が着ていた上着を彼女の肩に掛けてきた。フィオナはそこに残る彼の温もりに束の間うっとりし、次いで、我に返る。
「ルーカスさんが、寒いです」
 慌てて脱ごうとしたフィオナの手を、ルーカスの大きな手が覆って、止めた。
「私は大丈夫だ。いいから、着ていなさい。まったく、そんな薄着で部屋から出たら駄目だろう」
「はい……」
 少し怖い顔で言われて、フィオナは頷くしかできなかった。おとなしく上着の前身ごろを掻き寄せると、ルーカスが身にまとう香りがふわりと鼻腔をくすぐる。

(ルーカスさんに抱き締められているみたい)
 そんなことを考えてしまって、パッと頬が熱くなった。
 一人狼狽しているフィオナの心中など多分まったく気づいていないルーカスが、いつもの穏やかな口調で問いかけてくる。
「眠れないって、何か気になることがあるの?」
「え……」
「ここに来てから、顔色が悪い。眠れないのは今晩だけではないのだろう?」
 気付かれていないと、思っていた。ルーカスはコンスタンスに夢中に見えたから。
 思わず隣を振り仰ぐと、彼が横目で睨んでくる。
「気付いていたよ。でも、君が何も言ってくれないから、様子を見ていた」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいんだよ。私が悪いのだから」
 聞くからに申し訳なさそうな口調で彼がそう言うから、フィオナは髪が跳ねるほどの勢いでかぶりを振った。

「そんな! ルーカスさんは悪くないです」
 夜闇に響く声でのフィオナの否定に、ルーカスが苦笑する。
「いや、私は君を保護する責任があるのだからね。ちゃんと面倒を見てやれていなくてすまない」

 保護。
 責任。

 彼が口にして然るべきその言葉は、耳にした瞬間、ズシリとフィオナに圧し掛かった。

 保護。
 責任。
 ――事務的で、冷たい言葉。

 でも、実際、それが現実だ。

 ルーカスはフィオナの傍にいたくているわけではない。これが警邏隊の仕事だから、遥か海を越えて一緒に来てくれただけだ。そして、彼女が心許ないから、心配して残ってくれているだけ。フィオナがケイティのようにしっかりしていれば、ルーカスは来た当日にはグランスに取って返していたに違いない。
 残って欲しいと声に出して訴えてはいなかったはずだけれども、きっと、ルーカスに傍にいて欲しいというフィオナの心の中の望みが彼に伝わってしまったのだろう。

(でも、ルーカスさんにとったら、これは三年前の事件の後始末に過ぎないの。勘違いしたら、ダメ)
 改めて自覚させられたその揺るぎない事実を、フィオナは唇を噛んで弱気な頭に叩き込んだ。

 力なくうつむいた彼女に、静かに声がかけられる。
「フィオナ?」
 窺うように名を呼ばれても、すぐには反応できなかった。
 頑なに顔を伏せたままでいるフィオナに、静かな、しかし、拒否を許さない声で、彼が促す。
「フィオナ、こちらを見て」
 ルーカスと目を合わせたくはなかったけれど、彼を無視し続けることもできない。フィオナは首を捩じるようにして彼を見上げる。
 月明かりが後ろから射しているから、ルーカスの顔は暗く翳っている。その中で、銀灰色の目が鈍く光を放っていた。
 言葉を発せず、ルーカスはジッとフィオナの目を覗き込んでくる。まるで、その奥に隠された彼女の心を見通そうとしているかのように。

 どれほどの間、そうしていただろう。
 やがて、ルーカスが静かに口を開く。

「ここは、居心地が悪い?」
 言葉を飾らずそう問いかけられて、思わずフィオナはまた顔を伏せそうになった。が、すかさず伸びてきたルーカスの手が、それを阻止する。
 彼は片手でフィオナの顎を持ち上げ、もう片方の手を彼女の頬に添えてくる。そっと触れているだけのようなのにピクリとも動けず、フィオナはルーカスとまともに目と目を合わせることになった。
 銀色の刃のような彼の目が、月明りを受けて強い光を放つ。
「何か言いたいことがあるなら、ちゃんと口にするんだ。望みも、不快も、言葉にしないと誰にも伝わらない」
「でも――」
 フィオナは反論しかけ、それを押し止める形で唇を噛む。

 ――そんなことをしてもいいのだろうか。それが、許されるのだろうか。

 声には出さず、胸の中だけでフィオナは自問した。

 許しを求めたい。
 でも、そうすることが怖い。
 求めたものを与えてもらえるとは限らないから――頭の奥底で、与えられるはずがないと囁く声が、聞こえるから。
 どうしてそんなふうに思うのかは判らない。何の根拠もないのに、この屋敷に滞在するようになってから聞こえ始めたその声は、執拗だった。

 ルーカスの視線が居た堪れなくて睫毛を伏せたけれども、見えなくなっても、彼が自分を見つめていることは感じられる。その眼差しで、彼女の心をこじ開けようとしていることも。

 今すぐ彼の手を振り払い、逃げ出してしまいたい。

 そう思うのに、身体が動かない。
 頬に感じるルーカスの手の温もりはあまりに心地良くて、その温もりを、まだ手放したくなくて。

 自分にその我がままを許していることが、情けない。彼が与えてくれる優しさを拒めない弱さが、情けない。
 笑顔で彼に別れを告げられる強さがあればいいのにと、フィオナは切実に思った。
 もう大丈夫だからとこの手を放し、一人でもやっていけるからと笑って彼を送り出せる強さがあれば、と。

 ――けれど、フィオナは、そのどちらも果たすことができそうになかった。
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